Quantcast
Channel: わたしんちの医学革命と雑多な情報
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1865

医学の革命書(岡田茂吉論文)の発信を再び

$
0
0

最近は一般書に現代医学の暴露本というか、凄い題名の本が次々と出版されているようですね。

それは当ブログでも幾つも紹介してあります。

昨日はベンジャミン氏の「人殺し医療」などという物騒な題名の本を少し読んだのですが、確かに裏にはある勢力みたいなものがあるのかも知れません。

しかし、本当の理由は人類が共同して錯覚してしまった病気の本質の見誤りにあると思います。

そこから、信じさせる者と信じたい者の共同行為の様なものが現代医学として結実したのでしょう。

結実というと変な表現ですが、人類の思いがあってそれが実現したということでは今流行の引き寄せの法則のようなものでしょうか。

 

ボクが1980年から13年間、浄霊医術普及会という小団体に入って活動してきたときに、教科書として(信仰者になれば「ごしんしょ御神書」と読んだ本)、「医学の革命書」という本を与えられました。

「医学の革命書」上、中、下の三冊
「文明の創造書」
「救世の警鐘と・・」

これは世界救世(メシヤと読ませた)教の教祖であった、岡田茂吉(信仰者は明主様と尊称していた)が残した、数々の論文を収録した本でした。

それを集めて本にしたのが、野澤明一(信者は明一様と尊称していた)で、浄霊医術普及会の会主でした。
その浄霊医術普及会(通称「浄霊会」)の中に、宗教部を置き教主として指導をしていたのです。
のちの薬毒と医学の革命を訴えて参議院選挙全国区に出馬したのが「世界浄霊会」という奇妙な団体名で憶えていられる方も居るでしょうか?

 

ボクはその頃は自称「熱心な信者」となり、直接の指導を受けたのは地方の支部であった庭山先生でした。(浄霊会副会長)

退会したのは1993年の夏頃でしたが、最後は見事などんでん返しを喰らい、それから何年もかかってようやく、宗教信者としての信仰が抜けた者です。

おそらく、自分の今の生も来世があるとしての来世も、二度と宗教団体の信者さんにはならないだろうという意識になっています。

それは神と人間との関係を考えると、もう宗教の教祖と信者の関係は地球の分離思考から始まったという事を知ったからです。

たとえ天地の差があるように見える人間であっても、それは分離思考から派生していま選んで演じている個々の姿にしか過ぎないということで、教祖と信者、神と人間という立場は分離意識の錯覚でしか無かったということです。

 

たとえ教祖といえども同じ源から来ている人間です。
神として見たがるのは信仰者としての信者さんの意識でしかなく、根源は同じところからきているものです。

ただし、能力的にはこの地上物質世界では天地の差があるように見えるのですから、普通の人間からみたら岡田茂吉はまるで神のごとく見えるだけのことです。

しかし、根源は同じです。

それを基準にして岡田茂吉氏の残した数多くの論文を読むと、医学関係の論文は今でも捨てきれない程重要なものがたくさんあると思います。

いまは信者としてではなく、過去の体験者としての第三者的立場で医学論文を見直して行きたいと思います。

 

「たとえ教祖の教えであろうと、疑いの目をもって検証せよ」

これが岡田茂吉研究の第一歩です。

しかし、その前の第一歩は

「先ず、読んで見ること」です。

「どこが今の時代に有効か、無効か」という結論はその次です。

読まないうちから「宗教家の書いた論など迷信に決まっている」と決めつけるひとは無縁でしょう。それは医学界において「専門家同士」の排斥する思考と同じです。
古くからの既製の論に合わないと「新理論は潰される」ことがあまりにも多い医学界で専門家が専門家を無視する。論文の発表さえままならぬと言う閉鎖的は面が以下に強いかという事を知りました。

そこにいかにもインチキ臭い世界メシヤ教などという教祖の書いた論などまさに論外だとされるのを承知していますが、いまの医学界は既に限界を迎えている今、どんなにトンデモ論であろうと、新しい医学の知識が必要です。

それが岡田氏(あえて師とは書かない)の論文であろうと、他のひとの論であろうとよいわけです。たまたまボクが縁のあった所が詳しいので紹介しつつ、自分もその研究者のひとりとなって有用無用なものは何か?取捨選択眼をもって読み進めていこうというわけです。

あなたもそれに参加してください。
そしてあなたの取捨選択眼にて岡田茂吉研究を発表されるのが一番です。
掲示板でもコメント欄でも発表出来るので、賛否両論がそろうのが研究というものです。

 

いつでも参加ご自由。

もちろん、組織とかの束縛もありません。
ボクの方では浄霊会で戴いた「医学の革命書」を中心にして論文を選択してここに転載してゆくつもりです。

そこにボクはボクの感想やら批判などを書いて行くつもりですが、あなた(読者さん)はあなたの批判を送りください。

批判とは公正な目でみた取捨選択です。それが同意になるか反対論になるかは自由ということです。非難とは違います。比較検討してから判断する。その比較の対象は何かというとあなたの意識の中心です。

すべての情報は他から入ってきますが、それに同調するのはあなたのチューニング次第。
たとえ教祖といえども(イエスさん、お釈迦さんでも)他から入ってくる情報をチューニングして同期したから自分の考えのように、また他のひとに発信したのでしょう。

 

間違っていたって、途中でいくらでもチューニングは変えられます。まずはやってみること。

それには、情報を得なければなりません。

その情報発信をこれから再開したいと思います。(過去にも幾つかやっていたので)

 

でわ〜〜よろしく

 

 

 

追記: メシヤ(救世主)とは他人が現れるというのは人類が大昔に共同創造したシナリオです。実際は自分の内に現れるというものでした。
カゴメの唄  

したがって、岡田教祖がつくったメシヤ教というのも分離思想から生まれた幻想が入って居るのです。神が別の場所に居るのでは無いのですから。全ては神。自分もその中に在る。他に神が居るのでは無く、神を忘れた神(の顕れとしての人間)が再び自分を思い出す旅の回帰(長期マラソンの回帰点にさしかかった今)ですね。

じつにくだらない自分が神の現れだったとは!
その思い出しコースのひとつが医学の革命だと思います。

したがって、論文中の奇跡の浄霊もどうして今は絶対的で無いのかという理由(わけ)と、人類が薬という物質からの解放の理由(わけ)は、相反するようなものですが似たところもあるようです。

それはオイオイと・・・

もちろん、薬毒と浄霊法は正反対の性質のものです。
薬は固め方法。浄霊は溶かす方法。

しかし、ともすれば「他からの救い」に陥る点では似ているところがあります。
物質科学(薬)と霊的科学(神)への依存、どちらも自分以外の他者に依存するという点です。

でも使いようによってのこと。
中心は自分に有り

という事さえ忘れなければ。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1865

Latest Images

Trending Articles