明治維新以来日本の医療は西洋医学に絞られた、これが国策。それでも百花繚乱のごとく日本の療術は盛んだったが、 敗戦後、占領軍の意図で禁止のおふれが出てしまったという。 が・・・・
さて、日本の療術と言えば、かなり数多くあるようで、一般に知られているものと、ほとんど世間に知られていないものもあったようですが、それを十把一絡げにして禁止に持っていったのが当時の占領軍の意図が関係していたわけです。
つまり当時のアメリカではインチキ医療とされたカイロ療術士が多数投獄された事件がありましたが(前の記事)、それがちょうど終戦時に当たったというわけです。
(まあ、強い者がちの世の中ですから、法律や政治なども動かせるわけで・・・医療独占支配を目指す一派には目の上のたんこぶだったのでしょう・・・カイロプラクティック)
正当医療(現代医学=西洋医学に基づく医療)以外はインチキであるから、取り締まるべきだ。 というのが占領軍の意図だったわけです。
その対象にされたが鍼灸も含めて、戦中まで行われていた自由な療術行為だったわけで、ただ、ある事情によってかろうじて逃れたのが鍼灸。
それ以外は禁止のおふれが出てしまったというわけですね。
今の様な健康保険制度も無い時代ですから、どんな療法でも効果があり、しかも安全だとわかれば庶民は身を以てそれを確かめつつ、ありとあらゆる療法にそれぞれ個々の自由と責任において飛びついたというわけでしょう。
(現代の日本人とはまったく異なるのは、自分で選んで自分でその責任をとるということ)
それが西洋医学一偏頭(一辺倒)の政策で国民医療保険制度が出来てからは、やはりお金のかからない(本当はむしろお金がかかるのだが、とりあえず他人の金で受けられるから個人負担が少なく感じるだけのことだが) 方に傾くのは当たり前。
先回のつづきです
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
松本英聖著 医学と生命 より 1994年刊
216P
戦前の療術制度
戦前における療術は、大正年間から昭和初期にかけて新しい療術が次々と創意工夫され百花繚乱する中で互いに技量を競い合って、技術的にも著しく磨きが掛かった。
時恰かも日清・日露、そして第一次欧州大戦に破竹の勢いで連戦連勝し、空前の軍事景気に沸き立っていた頃、人々はそれが軍国ニッポンの悲劇の序曲とは露知らず勝利の美酒に酔い、大正デモクラシーを謳歌して《エロ・グロ・ナンセンス》などの横文字流行語が持て囃された。
しかしこの急激な欧風化による「食と生」の混乱は、中産階級を直撃し、彼等の体質を劣弱化させると共に、結核を始め様々な慢性病が蔓延していった。
歴史は繰り返すと言うが、現在も同じことで、唯その規模(生活の欧米化)が全国民に波及し、事態が益々深刻化している点が違うだけ。また、こうした健康不安時代において、人々が新しい療法を求めて彷徨(さまよ)うのは当時も今も変わりはなく、この切ない願いに応えて急成長したのが療術であった。
この急成長に対して、当時の取締当局は当初の頃は惑いをみせていたが、これを弾圧せず、一定の規制(届出制)の下で適正化を図り、健全な発展を促す政策を取った。
即ち昭和五年、警視庁を初めとして各府県令による療術行為(または医業類似行為)取締規制を定め、昭和二二年占領政策によって禁止される迄、国民の医療に貢献して来たのである。
この療術行為取締規則第一条に定められた療術行為の定義は次の通りである。
「療術行為とは、疾病の治療または保健の目的を以て、光・熱・器械・器具その他の物を使用し、若しくは応用し又は四肢若しく精神作用を利用して施術する行為であって、他の法令において認められた資格を有するものが、その範囲内でなす診療又は施術でないものを言う」
要するに、医師(近代医療)や鍼灸師等(東洋古来の伝承医療)の免許資格者が行なう業務以外のものを指すわけだが、この定義は今日でも厚生省によって踏襲されていることを付け加えておく。
現在、行われている療術を業態的に分類すると、
① 電気・光線療法
② 刺激・温熱療法
③ 手技療法(脊椎調整法(カイロプラクチヅク)や中国気功法等)
217P
療術は何故禁止されたか
冒頭で述べたように、日本の療術は占領政策に基づく医療制度改革において禁止されたが、その理由は何か。
抑々占領政策の基本方針は、日本民主化(封建制度と軍国主義の打破)を図ることであり、その一環として医療制度改革に即時するサムス勧告が出された。その内容を要約すると ーーー、
①医学教育における徒弟制度の禁止(医学教育の整備と国家試験の実施)、
②法律に基づかず、行政規則で罰則を定めた条例(鍼灸取締規則や療術取締規則等)を廃止し、法律を制定すること、
③法制定にあって、医学的根拠が明らかでない医療は禁止すること。
この中、①と②は日本の民主化を進める上で当然な措置であるが、③は全く違う。
この方針の背後にあるのは、西洋医学以外の医療(民族古来の伝統医学や民間療法を蔑視する独断と偏見であって、それを知ってか知らずか、何れにせよ、押しつけたことは、戦勝国の思い上がった政策であり、民主化の美名に隠れた当局の独善思想と言わざるを得ない。
ともあれ、こうした偏見によって鍼灸や療術を根こそぎ抹殺しようとしたわけだが、鍼灸だけは際(きわ)どい処で難を免れた。これには次のような経緯があった。
その頃、サムス准将と個人的に親しくしていた慶大出身者がいて、偶々鍼灸の話になった。それなら卒業生の中に鍼灸の医学的研究をしている医学者(寺田文治郎・日大医学部教授)がいるから彼の話を聞け、ということで寺田教授の出馬となった。
その結果、同教授の医学論文が司令部に認められて鍼灸の存続が決まったーー。まさに天佑神助とはこのことで、鍼灸存続に纏(まつ)わる知られざる歴史の裏話である。
因みに、寺田教授の研究は、鍼灸の刺激が副腎皮質ホルモンの分泌を高めて生体の免疫力を賦活することを生化学的に立証したもので、実験は当時寺田教授の研究室に入室したばかりの田村豊幸・日大名誉教授が担当した。
余談になるが、有名なセリエのストレス学説によって、副腎皮質ホルモンの働きが明らかにされたのは、敗戦の翌年(一九四六年)のことであるから、寺田教授の研究は実にユニークなもので、当時、アメリカでも大きな反響を呼んだのである。
こうして鍼灸は辛うじて救われたが、療術は何等打つ手がないまま、赤子の手を捻るように一方的に禁止されてしまった。
では何故こんな片手落ちな結末になったのか。
今にして思えば、鍼灸はもともと東洋古来の伝統医療であり、占領政策と錐も、この歴史を無視して強引に禁止することは容易ではなかったが、療術の方は歴史も浅く、かつ次の事情が絡んでいたため、容赦なく潰したということである。
その事情とは、当時アメリカ国内において脊椎調整法(カイロプラクチック)が医学的に根拠の無いインチキ療法であり、国民を惑わすものとして徹底的に弾圧され、これ以外の民間療法も目の敵に(かたき)されていたことである。
この忌まわしいアメリカの国内状況がそのまま占領政策にも反映し、ここを先途とカイロを含む療術全体をいかがわしい療法と断定し、一方的に全面禁止したのである。
しかしそれから間もなく、カイロが全米各地で合法化され、医療選択の自由権が確立されたことは前章で述べたが、この事実からして、当時の療術禁止が如何に偏見に基づく強引な政策であったかが解かるであろう。
だが、こんな偏見が何時までも通用する筈がなく、遂に鉄槌が下る目が来た。それが先程の最高裁判決であって、法公布以来十三年目にして、漸く無害な療術行為は禁止規定に含まれないことが確定したのである。
なお、この最高裁判決(裁判官十五人の大法廷)には、少数意見として三人の判事の反対意見が付せられているので、参考までに掲載して置く。
無害な療術行為を認めることへの反対意見
「人の健康に害を及ぼす恐れがあるかないかは、治療を受ける対象たる《人》の如何によって違ってくる。また、それは治療の実施の《方法》の如何にもかかっている。
従って、有害無害は一概に判断できないから、個々の場合に無害な行為であっても公共の福祉の要請からして、無害な治療行為を認めることはできない(田中耕太郎、下飯坂潤夫両裁判官の反対意見)
Ⅱ 無害な治療であっても、患者に施術する場合は、とかく安易な希望を持たせやすく、殊に何等かの影響があるように感じられる場合は、その治療法に依頼し過ぎて、正常な医療を受ける機会、ひいては医療の適期を失い、回復を遅らせる等の危険性が少なくない。従って単に治療に使用する器具の物理的作用のみに着眼し、その有効無害であることを理由としてこれを利用する医業類似行為を業とすることを放置することはできない(石坂修一裁判官の反対意見)。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
上記の反対意見から
民間療法等を受けるについての危険性を指摘
「その治療法に依頼し過ぎて、正常な医療を受ける機会、ひいては医療の適期を失い、回復を遅らせる等の危険性が少なくない。」とありますね。
ここに大きなツボが潜んでいるわけでして、
え?ツボ?
そうですよ、ツボね。急所ですよ、アンタ。
え! {思わず握ったりして
そんなんじゃありませんよ! キミのそんな土筆ん棒じゃ・・・
この裁判官様、見事にこのツボにはまって居るんですよ、わかりますか、アナタ?
ツボにはまってさあ大変、ドジョウが出て来るんでしょ、ヤッパリ・・・
あんたねえ~~
この反対意見の中にあるでしょ、ツボが・・・
「正常な医療を受ける機会、ひいては医療の適期を失い・」とね。
ああ、あるね・・・でも、当たり前のことを言っているんじゃない?
そこですよ、そこ。 それが「当たり前」と言うところが、アンタもツボにはまっているって事なの。
???
つまり「正常な医療」とは近代西洋医学、つまり現代医学の医療のことですよ。
それ以外はまがい物、つまり非正常な医療だと、「鼻から決めている」ところなんですよ。
あ、そうね、そうかも・・・・正常な医療にかからないで、非正常な医療にかかるとどうなるか・・と言っているのですね。
やっとご理解いただけましたねえ。そう、これは裁判官ならずとも世間一般に信じられているツボなんですよ。 怪しい医療を受けるのはよいが、結局手遅れになったりしたらイカン。最初から正常(と決めつけている)な現代医療にかからないと、アナタ大変なことになりますよ{タケシの医療番組みたい
そうか、そうですよね。やっぱ、最初から正当、正常な現代医療にかかっておくべきですよねえ~~
って、キミはツボから抜け出せないんだな・・・タコ!
え、このツボって蛸壺のことだったんですか!
・・・・・
「このタコツボに嵌まっている限り、アナタはこの医療の自由権を獲得することは難しい駄郎。」
もうひとつのツボとして
「個々の場合に無害な行為であっても公共の福祉の要請からして、無害な治療行為を認めることはできない・・」
ここですよね、分かりそうで分かり憎い。あ、難い。
個々の場合・・・その人が心地よく健康にもよく、効果有りと感じてしかも無害と北門だ。
だが、国と致しましては公共の福祉の観念から申しまして・・・(官僚言葉&観念
こんな観念、かんねん(勘弁)してよ!
つまり、個人が無害で非常によろしい!と感じているのに、どうして公共の福祉に違反するの? 具体的に言ってみてよ!
ってこの裁判官、もう、耄碌している年齢かな?
とにかく、どうして「いいモノはいい」って言えないの。法律がどうだの制度がどうだの、既得権益を侵すから?
じゃあ、人間が大切なのか法律が大切なのか?
国民ひとりひとりの幸福の為に法律を作るんでしょ。それが民主国家という意味で、国家主義(公共ともいうだろうけど)で国民を犠牲にしたり不幸にしようというものじゃないでしょ?
それなら、方の法を、あれ、法の法を変えればよいだけ。
無害で有益だと個人がそう言えば認めてやるのが法の守りというもの。それが医療の自由選択権であり民主国家の姿なの・・・じゃないの?
ふん!
あら、入れ歯が飛んでいった・・・・