毒と薬は化学的には同じものです。
要するに、まったく同じ分子構造をしているのです。↓より
1515夜『毒と薬のひみつ』齋藤勝裕|松岡正剛の千夜千冊
では、もともと毒である物質を身体に取り込むとどういう反応を起こすのか?
それを薬理学という分野が研究しているわけですが、その前提として
「薬は必要だ」という土台があるわけです。
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たとえ薬が病気を治すのでは無く、症状に対しての対症療法であってもそれを使うには理由(わけ)があるからですね。
ひと言で言えば、「病の苦痛を緩和したい」ということでしょうか。
まあ、苦痛が無ければ、不自由もしないですからね。
ところが、痛いだの苦しいだの、痲痺だの、痒いだの、下痢だの、食慾不振だの、眠れないだの・・・ありとあらゆる症状が出るから、それを病気と云うわけでして。
この不快で不自由な状態が無ければ、薬など用いないわけですね。
ところが、薬理学の方で言えば「残年ながら、薬には病を治す力は持ち合わせてはいない」となっているわけでして、この矛盾点を誰もつく事が出来無かったのでしょうね。
薬と毒は同じ
だという事は古くから知られているのに、それでもその毒を「薬と称して」使ってきたのには、深いわけがあったのでしょ。
まだまだ9割9分の人民は、うまく使えば薬になり、それを超えると毒になると思っているようです。
ところが、もともと毒なのですから毒は毒。
ジャガ芋を馬鈴薯と呼ぼうが二度芋(年に二度採れるので地方によってはそう呼ばれる)とか名前を変えたとしても、その芋はその芋。
私の名前は明子と言っても、「昔は明美という名前で出ていました♪」とか。
でもやっぱり「あなたはあなた」以外の者では無い。
名前をどう替えたってアナタはあなた。
そう、毒も同じく、使用用途によって名前を替えるだけのこと。
ただ、ちょっと違うのはそこに小細工(操作工夫)をして、ただ単に毒を使うというよりも、その毒性物質をいかに「使用目的」(主作用とか効能とか言うが)に適うように調整するわけだ。
しかし、毒を無毒には出来ない。だから散々動物実験を繰り返して(まぐれ当たりを狙う)、あるときこれだ!というものを発見するのでしょう。
あくまで理論的に学理的に創られる訳では無い、数打ちゃ当たる方式なのでした。
それはセレンディピティと近代医学
(serendipity)とは、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力のことである。
この本の価値観は著者から見ると、人類に貢献した大発見は幸運によるものだった。となるだろう。
だが、私的に云えば、主要な薬の大発見はまったく偶然から作られており、そこには何ら科学的公式など無かったと云える駄郎。つまりああすればこうなる式ではなく、「効いた」から理論は後付けに過ぎないということ駄郎。
それが現実なのだ。人はそれを知らないから研究に研究を重ねてついに大発見にたどり着いたと・・・思いこむ。だが、実際はその研究とは無関係か、むしろ失敗から起こったことで意図することでは無かったのである。
そうなると、いい加減なのだなあ。薬に科学性があるなどという妄想から覚めちゃう話だ。
それにしても、大発見、大発明が「意図しない偶然の結果だった」とは・・
もっと砕けて言えば
「ラッキ~~♪」なのだ
偶然の大発見が人類に貢献した ラッキー♪
ところが時が過ぎて段々とその ラッキー♪ が・・・
いつか アンラッキー! と叫ばれる時が来るやも知れないのだが・・・
文字薄いな・・
そう、数多ある薬(約一万八千種はあるらしいが)の中で主要な薬などは、ほとんどこのセレンディピティで「思いがけず、目的外、想定外で発見された」ものなのだ。
※これは上記の名前の本がありますので検索を。
つまり、薬は学理的とか意図して開発とか方程式のようなものがあって、創作されたものではなく、偶然、たまたま発見されたものが殆どだというのだ。
主要な薬が基盤となってその分子構造の一部をまたいじくり回して作られるのが数多ある薬の大半だという。
そうなると、薬理学など後付けジャンケンのようなもので、まずは偶然の発見(と言っても毒の発見だが)、それを使ってみたら「効いた」ので薬にした。
あまりにも単純な構造で書いているのもなんだか自分でおぞましくなりそうだが本質的にはそうなのだ。
昔は砒素でも、毒蛇でも、麻薬でも、ありとあらゆる自然界のものが薬に用いられた。
その理由は「効いた」からだ。
これこれこうして薬理学上において、このように「効く」からこの毒を使う・・・というのではなく、まず初めに「効いた」ことから始まる。
そう、薬とは効くのだ。
ただし、今の薬理学でも云うように「薬には病を治す力は持ち合わせていません」となる。
過ぎた原発、あ、杉田玄白曰く「毒を以て毒を制する」というのが薬の正体だから。
治すのでは無い、毒を制するだけなのだ。
つまり毒を以て毒を固める(毒の活力を一時的に抑制するようなもの
毒の活力というと変だが、毒が力を発揮するときは身体に変化を起こす。
その変化で身体に変調が起こる。
身体はその毒を排除しようとする。
その過程が病気だ。
しかし、決して楽では無い。時には毒が多すぎてお仕舞いにもなる。
それを止めようというのだ。(治すのでは無いが)
それに一番効力があるのが毒を入れる事だ。
毒を入れると種々な反応が起きる。
身体が起こそうとしている毒の排除反応をも抑えつける。
すると、どうだろう・・・身体は活力を失い一時穏やかになる。
つまり生命力を弱めて何らかの反応を起こさせるーーそれが毒の効果だ。
苦痛が治まった・・・・病気が治った(とは違うのだけどね)
よし、この毒はよく効いたーーーー何の症状にはこの毒だ。名前を付けて憶えておこう。
こうして昔の人は色々な名前を付けた。 丸めれば、◎◎丸とか・・・
杉田玄白師もそれを知っていたようだ。
毒を以て毒を(一時的に)制す
前者の毒が薬だ。
後者の毒は体内毒素だ。
しかも毒素を排泄するための浄化作用を病と呼んだから、この辺でややっこしくなる。
病は苦痛だ「放っておくとアナタタイヘンナコトニナリマスヨ」という恐怖感も手伝って、毒を盛るという方式は世界中でもてはやされたのであった。
ちょんちょんチョン (ここで幕が閉じる)
なんだか胸くそが悪くなるような駄文だったが、多分・・薬の本質は毒なんだから当たらずとも遠からず
の様な気が・・ 私にはしている・・・