先回のつづきです。
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それでもあなたは医者を信用しますか?
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最終更新日 2005年2月1日
https://web.archive.org/web/20050228095921/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page2.html#5
より
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5.生きている物質「モネラ」
6.消化・造血の仕組みも知らない医者
7.医学常識、これだけのウソ!
8.医者のイメージは虚像
5. 生きている物質「モネラ」
フィルヒョウやメンデル・モルガンの生命不変説にたいし、生命を動的・発展的に捉えるオパーリンやダーウインの考え方があります。
ダーウインは『進化論』で、「自然環境に適応できるものだけが生き残れた」、オパーリンは『生命の起源』で、「生命は物質の集合、融合、分化発展というプロセスの中から発生する」と説き、それぞれ、生命の本質に迫る優れた理論を展開しています。
ただ、これらの理論も詳細に見ていくと、肝心なところが欠落していることは明らかです。
たとえば、メタン・アンモニア・水、その他一、二の無機物をフラスコに入れて火花放電すると、たしかに蛋白質ができます。
この事実から、無生物から蛋白質が生み出されることは証明できるのですが、では、その蛋白質がどうして生命を持つにいたったのかという点については、オパーリンの説では説明不十分なのです。
同じくダーウインも、その辺のところは明確な言及を避けています。
ところが、この問題について、前世紀の偉大な哲学者であり、ダーウイン進化論の熱烈な信奉者であるドイツのヘッケルが、「モネラ」という概念を提唱しています。
ふつう細胞は中心に核があり、そのまわりに蛋白質のかたまりであるコロイド状の細胞質があり、さらにそれを包む細胞膜がある、という構造をしています。
そういうはっきりとした形態を整えた細胞にまで進化する前段階として、"核のない細胞"という存在を仮定してもよいのではないか、という考え方で、ヘッケルは、その核のない細胞を「モネラ」と名づけたのです。
つまり細胞になりきっていないが、いずれ細胞に発展するであろうという、細胞の前段階の状態のもの、いわば「未完成の細胞」という発想です。
現代医学・生物学はこのような考えにはまったく関心がありませんが、じつは、これは非常に重要な概念です。
そしてこれと同じような概念を、ロシア(旧ソ連)の医者であり、生物学者であるレペシンスカヤ女史も、「生きている物質」と名づけて提唱しているのです。
レペシンスカヤは、卵黄の表面に発生する赤血球に注目することでその概念をえました。
ニワトリなどの卵が孵化するとき、よく見ますと、黄身の表面に赤い斑点がいくつも出てきます。
それがお互いにつながって網目状になり、日がたつにつれて、その網の目は細かくなっていきます。
しかもその網は単なる筋ではなく、中が空洞になっています。
そのチューブの一部がやがてふくらんできて、拍動をはじめる、するとチューブの中を、血液が一定方向に移動するようになります。
それを観察したレペシンスカヤは、とくに卵の黄身の表面に赤血球が寄り集まって、赤い点になっているところに注目しました。
顕微鏡で見ると、立派な細胞の形をしています。
そこでレペシンスカヤは、「これはいったいどこからきたのか?」という、重大な疑問をもったのです。
そんなものは、もともと卵にはなかったことは事実です。
卵の黄身しかなかったのに、孵化しはじめると赤い斑点がいっぱい現れてきたわけです。
「細胞は細胞から」という説が本当ならば、この赤い斑点となっている細胞の、その最初の第一個目の細胞は、あらかじめ卵の中に潜んでいたと考えなければなりません。
そうでなければ、「細胞は細胞から」という考え方に反することになるからです。
でも、途中から赤い斑点が現れているのが事実ですから、はじめから赤血球が存在したなどということはありえないわけで、「細胞は細胞から」というフィルヒョウの考え方は、やはり間違っていたのです。
じつは、赤い斑点となった最初の細胞は、卵黄のなかから生み出されてきたものです。
卵の黄身というのは、私たちが卵黄球と呼んでいるブロック状のものからできています。
これは核も細胞膜もないので細胞ではありません。
その細胞ではないものから、赤血球という細胞が生み出されている、これはもう、卵黄球が赤血球へと発展していっている、としか考えようがないわけです。
「卵黄は生命体? 物質?」ということは議論の分かれるところですが、今の段階では、物質(有機物質)だとみなす考え方が支配的です。
そうしますと、卵黄球という有機物質から「生命」が生まれたということになり、レペシンスカヤが、卵黄球は「生きている物質」ではないかと考えたことは正しかったのです。
無生物と生命体という大きく異なった存在を、連続相として捉える上での"つなぎの概念"として、この考え方はきわめて重大なポイントを示唆するものです。
生命現象を固定的思想ではなく、発展的思想で捉えていこうとするには、ヘッケルの「モネラ」という概念、およびレペシンスカヤの「生きている物質」という、二つの概念を導入しなければならないのです。
このような概念とまったく相容れない、フィルヒョウ理論に固執する現代医学は、生命現象の因果関係が説明できないという、医学としては致命的な欠陥があるわけです。
現代医学とはいえ、その実態は100年以上も昔の古色蒼然たるもので、早急な改革が望まれることはいうまでもありません。
森下先生は、「科学の目覚しい発展とは裏腹に、医学の本質的な部分は、ヒポクラテス(医学の祖と呼ばれる)のギリシャ時代からほとんど進歩していない」と述べておられます。
6. 消化・造血の仕組みも知らない医者
つぎに、ひき続き森下先生の学説を適宜引用させていただいて、現代医学、およびそれを実践する医者たちがいかに無知であるか、具体例を見ていきます。
病気になって医者や病院へ行ったとき、必ず受けさせられるのが検査です。
とくに最近は検査の重要性が強調され、医者もさかんに検査をうけるよう薦めています。
しかし、いくらCTやMRI、エコー、内視鏡などのハイテク機器で検査をしても、はっきりいって病気の原因を突き止めることはできません。
検査で見ているのは病気の症状であって、病気そのものではないからです。
一方、画像による検査のほかに、生体から組織を切り取って調べる病理学や疫学の検査があります。
組織を特殊な機械でごく薄い切片にする、それをアルコールで固定する、それに色をつけて顕微鏡で眺める、というようなことを行っていますが、これはほとんど無駄で無意味な作業です。
そんな不自然な操作を加えると、細胞が異常な代謝を始め、切り離されたために、生体内の組織とはまるっきり違った状態に変化するのです。
そもそも部分とか局所というものは、全体の中にあってこそ意味を持つものです。
統合体の一部分という意味での局所は意味を持っているけれども、切り離されてしまったら意味はなくなってしまうのです。
第一、全体の中の一部分であるからこそ局所といえるのであって、切り離された局所というのは言葉の上でも矛盾しています。
そんなものは所詮存在しないのです。
全体から切り離された局所はもはや局所でさえない、それ自体が独立した、まったく別物になっているからです。
生命問題を扱うにあたっては、この全体と部分との密接不可分の関係を、しっかり理解しなければならないのです。
一時的でしかも局所的な検査では、全体をたえず変化させている、人体の動的な基本構造はわかるはずがありません。
じつは、病気を発生させる根本要因は、成分が刻々と変化しながら、全身の隅々を循環している血液が質的に悪化することにあるのです(五章と六章に詳述)。
これを検知するには、血液が体のどこで、どのように造られているかを知っていなければならないのは当然です。
ところがなんと驚くべきことに、医者のほとんど(95%以上)がその実態を知らないのです。
トテモ信じられないと思う方は、かかりつけの医者にでも質問してみてください。
ほぼ間違いなく、「血液は骨髄で造られる」というはずです。
私自身、つい最近のテレビの健康番組で、テレビ出演が多いため有名になった医学博士が、臆面もなくそういっていたのを見たばかりです。
血液は骨髄などで造られているのではありません。
血液は小腸で造られているのです。
胃のなかで、胃液や膵液によってあらかた消化された食物は、さらに腸の運動によって撹拌されてドロドロになり、それがしだいに絨毛組織(腸粘膜)のなかに取り込まれていき、腸の内壁をビッシリ覆っている絨毛上皮細胞と混ざり合って渾然一体となり、本格的な消化作用が行われます。
この絨毛組織内の消化の工程が完了すると、やがてそこに、赤血球母細胞というものが現れてきます。
これはその名のとおり、赤血球の母親ともいうべきもので、なかに数十個の赤血球をすでに孕んでいます。
それらが新生の赤血球となり、腸壁のすぐうしろを通っている毛細血管内に放出され、血流に乗って全身をめぐっていきます。
赤血球はやがて白血球に分化し(一つの物質がべつの物質へ変化、発展すること)、白血球はさらに、リンパ球と顆粒白血球に分化します。
そして白血球のうちの顆粒白血球が、体の各部分の組織細胞を造っていくというのが、消化作用をめぐる一連の循環的な仕組みなのです(細胞分裂という事実はありません)。
これに対して現代医学は、絨毛組織を単に栄養を吸収する役目を果たすに過ぎないもの、つまり食べ物が消化された後、たんぱく質はアミノ酸に、糖はブドウ糖にというように分解され、それらがこの膜を通して吸収されるだけ、と考えています。
ようするに腸粘膜を静的、受動的な存在と見ているわけで、消化物をアメーバのように貪欲に自分の組織に取り込む(森下説)という、動的でダイナミックな実態とは、ぜんぜん異なった捉え方をしているのです。
消化作用の本質は、食べ物をただ分解して栄養素を吸収するのではなく、食べ物という単なる物質を、血液という生命体へと質的に変化、発展させる組立作業であり、まさに驚天動地の働きなのです。
この組立作業の過程で、食べ物が消化液の影響を受け、同時に消化管に存在する多種多様の微生物、および酵素などと渾然一体となって、絨毛組織の表面にべったり付着する、その状態にある食べ物がヘッケルの名づけた「食物モネラ」であり、レペシンスカヤのいう「生きている物質」なのです。
そして、これがやがて「血球モネラ」というものに変化していき、最後の段階で、「赤血球」の誕生となるわけです。
なお、断食をするなど、食べ物が摂取できないときなどに、体内の赤血球を一定量に保つため、骨髄組織が崩壊して血球に逆戻りすることがあります。
これはいわば『代償性』の造血であり、本来の『生理的』造血とは無関係です。
現代医学は、消化というものを一貫した連続相として捉えられないために(分割思考の宿命)、こうした見誤りを犯しているわけです。
ここに食物=血液=体細胞という因果関係が成立するわけで、「人体は食物の化身である」、とはっきり断言できるのです。
この重要な事実を知らないとすれば、医者としての資格が問われてしかるべきではないでしょうか。
現実が示すとおり、西洋医学の医者で、病気予防や健康維持のための最重要対策として、食生活の指導を徹底して行っている医者はほとんどいません。
そのためほとんどの医療現場において、病気の原因の表示箇所にすぎない症状をあれこれいじくりまわし、細かく分割、分類し、それらに無意味で紛らわしい病名をつけ、その場かぎりの処置をする、その過程で診断ミスが起きたり、薬の処方を間違えるといった、まさに的外れとしかいいようのない診療が行われているわけです。
腸造血を医学教育で義務づけないかぎり、いつまでたっても慢性疾患の増加を食いとめたり、医療ミスの典型ともいえる医原病(医学、医者の無知な医療行為が原因で引き起こされる病気)の発生も阻止できないことは、火を見るより明らかです。
7. 医学常識、これだけのウソ!
造血問題以外にも、医学常識の誤りは数え切れないほどあります。
つぎに、それらがじっさいに医療現場で適用され、その結果、的外れで危険な治療法が行われる例をあげます。
じじつ、それが原因で患者を死亡させてしまうケースはしばしば報道されています。
★「高血圧は塩分の摂りすぎ」のウソ
まず、塩分のナトリウムは体に不可欠のものです。
栄養の吸収を助ける、細胞の形を正しく保つ、体液の量を調節する、腎臓で尿を作る、体の機能を統合、調整する神経系を正常に維持するなどの働きがあり、やみくもに減塩をしてナトリウムが不足すると、この重要な働きに支障をきたすため、体力や免疫が低下し、健康を損ねるどころか新たな病気を誘発したり、命の危険にさらされることさえあるのです。
○×式の頭しかない医者は、高血圧の患者に対し、とにかく血圧を下げることだけにこだわります。
たいてい塩分のカットを指示しますが、患者がそれに従わなければ、「降圧剤」を処方するでしょう。
このとき、ほとんどの医者が第一に選択するのが利尿剤です。
これは、血圧が高くなるのは血管を通る血液の量が多すぎるため、手っ取り早く血圧を下げるには、体内の水分をできるだけ排泄して血液を減らせばいい、だから利尿剤で水分を多く出すという、なんとも姑息な、というより部分にとらわれた処置が取られるわけです。
ここで明らかなことは、血液の全体量は減っても水分はもっと減るため、血液の濃度が高くなり、血栓を起こしやすくなるということです。
利尿剤の副作用に脳血栓が指摘されているのは、このような因果関係があるからです。
脳血栓で命を落とすより、血圧が高いほうがいいのです。
ようするに減塩も降圧剤も、的外れな処置であることがおわかりでしょうか。
それに、もし塩分過剰というなら、カリウムをほどよく補給することです。
正確にいうと、ナトリウムとカリウムの比率が1対0.6であれば理想的で、これによって安全に、血圧が正常に保たれるでしょう。
味噌汁の塩分を気にするより、ほうれん草などの野菜を入れた、具だくさんにすればなんら問題はありません。
ナトリウムやカリウムは少々過剰に摂取しても、ふつうは適量だけが吸収されて、余分な量は腎臓から尿へ、速やかに捨てられる仕組みになっています。
医者が栄養学を勉強していないことは事実ですが、この程度の知識はあるとは思います。
ところが、栄養指導だけで終われば、医療保険の点数はゼロになり、医者は無報酬になります。
好んでタダ働きする医者などいるはずがないわけで、これは医者個人のモラルというより、医療保険制度に問題があるといえます。
医者が薬を出すしか能がないのは、現状では仕方がないのです。
高血圧の治療には、利尿剤のほか、血管を収縮させる平滑筋の働きを支配する自律神経ブロッカーがあります。
交感神経をブロックすれば、血管の締め付けが緩み、血圧が下がるだろうという考えですが、交感神経は平滑筋だけを支配しているのではありません。
骨格筋もその支配をうけており、その上、一番無視できないのは脳への影響です。
じじつ、交感神経の働きが鈍ると、うつ病を引き起こすことがあるのです。
最近では多くの医者もこのことを知るようになり、神経ブロッカーの代わりに、比較的副作用が少ないカルシウム拮抗剤が使われているようです。
しかし、これもやはり、血管を収縮させるカルシウムの作用を弱めるのが目的であり、問題は血圧に関係のある筋肉だけに作用するのではなく、ほかの筋肉の収縮力も弱めてしまい、全身にさまざまな悪影響を与えるということです(気力がなくなるなど)。
血管を正常に保つための安全な方策は、カルシウムの摂取量を管理する、もっと具体的にいうと、カルシウムとマグネシウムの比率を2対1にすることです。
マグネシウムには動脈を弛緩させる作用があり、これによって拮抗剤を使用しなくても、バランスが保たれるようになります。
またマグネシウムには、ナトリウムやカルシウムを細胞の外へ出したり、血管筋肉を緩める働きがあるため、高血圧だけではなく、不整脈なども予防してくれます。
しかし、なんといっても高血圧の最大の原因は、血液の質そのものにある、つまり血液がネバネバになることです。
そしてそれは、肉や卵などの動物性蛋白食品の多食によって、血中のコレステロール、酸類、窒素化合物が増えると起きやすくなります。
このことから、動物性蛋白食品を極力控えることが、高血圧予防の根本対策であることがおわかりだと思います。
話が脱線してしまいましたが、ではなぜ、これほど間違った治療法が「医学常識」となってしまったのでしょうか。
それは、「疫学」という学問に限界があるためです。
疫学とは、伝染病の流行動態を研究する医学の一分野で、広義では、集団中に頻発する疾病の発生を、生活環境との関係から考察するものです。
わかりやすくいうと、統計から病気の原因を考えるわけですが、このやり方には大きな盲点があります。
ある病気が特定の地域やグループに多く発生しているからといって、そこに確実な因果関係があるとは限りません。
このことについて、日本の「分子栄養学」の創設者である故三石巌博士は、著書でつぎのように述べておられます。
「たとえば1981年に、アメリカ政府は疫学の統計を根拠にして、『エイズはホモセクシュアルの病気である』と発表した。
エイズの分布がホモセクシュアルの人々に偏っていたためだ。
しかし今では、エイズが誰でも感染しうる伝染病であり、ホモセクシュアルだけに特有の病気ではないことは誰もが知っている。
これが疫学の持っている限界である。
統計的なデータというのは、見方によって引き出される結論が違ってくる。
しかも研究者は、統計から何か結論を引き出そうとする思いが強いため、自分の仮説を支えるような、都合のいいデータだけを採用し、都合の悪いものを無視することが珍しくない。
したがって、疫学調査だけで病気の原因を確定することはできないのである。
綿密な実験に基づく客観的な裏づけがなければ、仮説はどこまでいっても仮説でしかない」
高血圧に対する塩分過剰原因説は、高血圧が多いとされる東北地方のある県で、一人当たりの食塩摂取量が、当時の栄養学者の見解である「一日10グラム以下」という基準を上回っていたため、短絡的に食塩が犯人であるという結論が下されたわけです。
しかしこのときの調査では、結論と矛盾する事実がたくさんありました。
個別のデータでは、食塩の摂取量が少ないのに血圧が高い人、摂取量が多いのに血圧が低い人などがいたのですが、こういった個人差や、同じ東北地方でも、リンゴの生産地では高血圧は少なかった事実は、研究者にとって都合が悪かったために、例外として切り捨てられてしまったのです。
★「血糖値を下げれば糖尿病は治る」のウソ
ものを食べれば血糖値があがるのは当たり前です。
ただ、ブドウ糖が細胞のなかに取り込まれなければエネルギーとなって消費されず、血中に留まったままになります。
ブドウ糖が細胞に入るには、膵臓で作られるインスリンというホルモンが必要です。
ところが、生まれつきインスリンの分泌がよくない人、あるいはアルコールの飲みすぎなどで膵臓が弱っている人がいて、こういう人はタイプ?T型の糖尿病と判断されます。
しかし、タイプ?T型は糖尿病患者全体の1割しかいません。
残りの9割はタイプ?U型で、このタイプの患者は、インスリンにはまったく問題はありません。
タイプ?U型はインスリン非依存型と呼ばれ、このタイプの患者の問題は、肥満、運動不足、栄養素のアンバランスなどの理由で、細胞膜のレセプターの感度が鈍いことです。
レセプターがうまく機能しないと、インスリンもブドウ糖も細胞のなかに入り込めないのです。
ところがたいていの医者は、画一的なマニュアルに従がって、とにかく血糖値を下げるということしか頭が回らず、インスリンの投与だけでよしとする、これが怖い結果をもたらすことになります。
タイプ?Tの患者に対しては、血糖値にぴったりの量のインスリンを投与しなければなりません。
もし少しでも投与量が多いと、血中の糖が激減して、昏睡状態を招く危険性があるからです。
一方、タイプ?U型には、インスリン投与は問題を複雑にするだけで、治療にはなっていません。
それどころか、インスリンが逆に余ってしまい、これが肝臓へ運ばれて中性脂肪になります。
中性脂肪が血中にたまるとコレステロール値も高くなり、体のあちこちの血管にヘドロ層をつくっていき、動脈硬化、眼底出血による失明、腎臓障害などの合併症を引き起こすわけです。
糖尿病への対策は、合併症を起こさないことです。
血糖値が高いと診断されても、それが直ちに深刻な事態を招くわけではありません。
合併症は、免疫やSODなど、活性酸素と闘う物質が不足すると起きやすくなります。
そのような物質が体内に十分用意されていれば、合併症はそれほど簡単には起きないものです。
そしてそういう物質を体内でつくるのが、カロチノイド、ポリフェノール、ビタミンCやEなどの微量栄養素と呼ばれるものです。
★ 「喫煙は肺がんの原因 」のウソ
この学説(?)はもともと、ネズミにタバコを吸わせる実験に由来しています。
人間に換算すると、なんと200本ものタバコを口に無理やりくわえさせ、数日間続けて吸わせたのです。
確かにネズミには肺がんが発生しました。
しかしこれは、ネズミにはタバコを吸う習慣がないという、当たり前の事実を無視しています。
ネズミは想像を絶するストレスを感じたはずで、必ずしも、喫煙そのものとの因果関係が実証されたわけではありません。
また、肺がんが発生したのは100匹中、わずか数匹だったのです。
その程度の率なら、タバコを吸わせなくても肺がんは発生します。
そういう意味では、この実験結果は、むしろ喫煙と肺がんには因果関係はない、ということを証明したという見方もできるわけです。
そしてなんと、この実験を根拠にして喫煙と肺がんを直接結びつけたのは、国立がんセンターの疫学部長だった人物です。
いかに権威や肩書きが当てにならないか、まさにそれを象徴するような話ではあります。
人間も大量のタバコを吸えば、たしかにビタミンCは減ります。
しかし、それが直接肺がんの発生の原因になるわけではありません。
じつは、肺のなかにもちゃんと肺胞マクロファージという、活性酸素除去酵素が存在します。
これがいわゆるスカベンジャーと呼ばれるもので、ゴミや不純物を取り除く役目を果たしています。
そしてスカベンジャーを最も酷使するのは、タバコよりむしろ大気汚染なのです。
タバコを吸わなくても、汚染された空気を吸っていれば、そのほうが肺がんのリスクが高まることが、最近の調査で明らかにされています。
そして、肺がん治療に必ずといっていいほど使用される抗がん剤は、この大切なマクロファージだけではなく、それを含めた免疫細胞全体の働きを低下させ、がん細胞を殺すより、逆に増殖するという、なんとも皮肉な結果を招くことになるのです。
以上のことから判断するだけでも、高血圧、糖尿病、肺がんに限らず、あらゆる病気の原因について、現代医学が誤った解釈をしていることは疑うべくもありません。
そして本当の原因がわからないため、やることがことごとくピント外れになっているわけです。
じつはアメリカで、1976年から2年間かけて、国防費に匹敵する巨費を投じて世界中の医学専門家を結集し、病気の原因を徹底的に究明調査したという事実があるのです。
その結果は意外にも(むしろ当然だったのですが)、「ほとんどすべての慢性病は食源病である」という結論に達しました。
ようするに、病気の原因は食べ物の誤った摂り方にある、と結論したわけです。
これを世界に発表したのが当時の上院議員であるマクガバーンで、以来、『マクガバーンレポート』と呼ばれて広く知られるようになったのです。
もちろん、日本政府や厚生労働省も、このレポートのことを知らないはずはないのですが、なぜかこれまで、国民には一切公表していません。
私は、もしこれを公表すれば、体制としての医学界の崩壊につながりかねないとの判断から、故意に情報操作をおこなって、情報の攪乱を図っているのではないかと推測しています。
昨今の医学理論や、栄養学情報が混沌の坩堝と化しているのは、そのあたりの事情を雄弁に物語っているのではないでしょうか。
この章のテーマであるフィルヒョウ(=ウイルヒョウ)理論、細胞分裂、造血箇所、血球分化(体内のすべての細胞は赤血球からできる)などの生理学的事実については、森下先生のご先輩である、岐阜大学農学部、東邦大学医学部教授の故千島喜久男博士の「革新生命科学理論」をぜひご覧ください。
現代医学理論がいかに間違ったものであるか、よくご理解いただけると思います。
8. 医者のイメージは虚像
私たちが医者に対して抱いている先入観は、どうやら、現実とは大きくかけ離れているようです。
ほとんどの人は、医者になるには高度な学力が必要とされ、医科大学では長期間(8?10年)、厳しい教育と訓練を受けなければならない、それを習得したことを証明するのが医学博士という肩書きであり、仮にも医者と名がつく以上、当然必要な専門知識は持っているはず、と無意識に信じています。
もし医者がそうした教育によって、臨床医療に十分役立つ知識や技術を習得しているなら、それは正しい認識といえるかもしれません。
しかし、医者が学ぶ医学理論が基本的に誤っていることは、これまで見てきたとおりですし、西洋医学には、病気(主として慢性疾患)にたいする臨床学的な治療理論など、本来存在しないのです。
そしてさらに、問題はそれだけではありません。
じつは、現在行われている医学教育は、何とか病気を探し出そうとしたり、故意に病気を作り出して利益を上げようと企む(これを創造医療といいます)、巨大金儲け企業集団によって仕組まれたものです。
当然、国と医学界もそれを後押しし、その目的にあったカリキュラムや指導方針が実施されることになります。
たとえば、つぎがそのことを裏づける実態であり、明らかな証拠でもあります。
ふつう、大学ではどの学部でも、学問を論理的に考え、あらゆる問題に疑問を持ち、独創性をはぐくむための知識や方法論を学ぶのが通例です。
ところが驚いたことに、医学部だけはそうではないのです。
学生が自由な発想をしたり、問題点を議論するなどということは、むしろタブーにさえなっています。
いわば思考停止のような状態で医学理論をストレートに受け入れ、教官の質問には条件反射的に、紋切り型の返答をするよう指導される、ようするに独断と偏見そのものの医学体系を無理やり詰め込み、学生が判断力を行使できない授業になっているわけで、その実態は、まさに医者の洗脳教育にほかならないものです。
また、冒頭の『医療ミス』でも指摘されているように、医学部で行われる試験のほとんどはマークシート方式です。
そのため、学生は医学用語などの単語はおろか、短い文章でさえ書かされることはまずありません。
理論は頭のなかで理解しているものと、暗黙の前提で試験が行われるからです。
医者の処方箋や、カルテに書いてある文字が下手くそで読みづらいのは、じつはこれが原因だったのです。
看護婦や薬剤師は処方箋が読みにくく、間違った薬を出してしまうことがよくあります。
もしこれが原因で事故が起きても、医者が直接責任を問われることなどありません。
医者がカルテをわざと殴り書きする理由には、明らかな意図があるのです。
ご存知のとおり、カルテは病院に長期間保存されます。
判読が困難な文字のカルテは、時間がたってから調べても、誰が指示を出したのか、記録を書いたのか、突き止めることはほぼ不可能です。
殴り書きをしておけば、医者は医療ミスの訴訟が起きても責任から逃れられる、そこに本当の狙いがあるわけです。
これは医者の本性を垣間見た、一つの決定的な証拠ではないでしょうか。
このような医学教育では、物事を正しく判断し、確固たる倫理観を持った医者が育つはずがありません。
こういった問題の原因の一つとして、分子栄養学の権威、ロジャー・ウイリアムズ博士はこう語っています。
「医学界は一種類の医学、つまり現代医学しか知らないため、すべての大学の医学部は基本的に同じことしか教えられない。
細分化しすぎたカリキュラムはすでに飽和状態になっており、新しい理論を研究したり、試そうとする余裕さえない。
その結果、医学は、既存の理論が不変の真理だとする因習に縛られやすくなる。
科学の一分野が正統派として不動の地位を築くと、それはもはや科学ではなくなる。
真理の探究をやめてしまい、重大な過ちを犯しやすくなるからである」
医者はまた、長期間の教育を通して、医学にかんしては、自分はオールマイティであるがごとく振舞うすべを身につけています。
たとえば、患者が処置に疑問を抱いたときなど、医者が決めゼリフのように使う、「医学的知識のない方には、説明してもわかりません」という言葉には、その傲慢な態度が如実に表れています。
これをあえて口にする医者は、単に権力を患者に押しつけているだけで、じっさいは知識がないことを、私たちは見抜かなければなりません。
医学や医療の個々の問題について、人にわかりやすく説明できないということは、それらを理解していないことを証明するものだからです。
こうしたことからも、医者が日ごろ私たちが妄信しているような、学識があって信頼できる、正義感の強いイメージとは程遠い人物であることがわかるはずです。
ただし、すべての医者がそうだといっているのではありません。
念のため。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
つづく