以前紹介したことのあるHPでしたが、いつの間にか消滅していました。
それがunexpected(ひょんの)ことから発見したweb上の魚拓です。
内容に、いまでもビックリする人がいるかと思いまして・・・ギョ拓にしました。
2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。
ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
それでもあなたは医者を信用しますか?
ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。
最終更新日 2005年2月1日
https://web.archive.org/web/20050228101045/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page4.html
ーーーーーーーーーー記事ーーーー(病院名には勝手ながら、●を入れました:::akyoon)
3.医療ミスの必然的要因
1.診断ミスが起きる素地
2.私の体験ー許せない診断ミスと治療放棄
3.無意味で危険な検査
1. 診断ミスが起きる素地
病気になれば当然のこと、病気かどうかわからなくても、何らかの症状があれば、たいていの人は医者や病院へ行きます。
一方、長い間病気にかかったことがなく、自分は健康だと思っていても、不安を煽る医学情報の影響などから、人間ドック、その他の検査目的で、医者や病院を訪れる人が増えています。
現代病のほとんどは慢性病です。
慢性病は正式には、『慢性退行性疾患』といわれるように、組織細胞が退行していく、つまり衰え崩れていく病気です。
病気はじわじわと進行しますが、発病してすぐに死ぬということはまずありません。
いわば執行猶予期間があるため、「医療を信頼し、その処置に従っておればまず間違いない」という、安堵感があるのでしょう。
このような状況で、一つ大きな盲点があります。
それは、問診や検査結果でわかった症状を、医者がどう判断し、診断に結びつけるかという問題が、見過ごされやすいということです。
このときの医者の対応について、コーネル大学生理学教授エリック・キャッセルは、「病気の本当の原因を探ろうとするのではなく、あらかじめ分類された病気のカテゴリーのなかから、既知のどの病名に当てはまる症状なのか、ただそれを見つけ出そうとしているにすぎない」と指摘しています。
まさにそのとおりですが、じつは、症状から病名を特定するのは至難の業なのです。
ありふれた病気でさえ、同じような症状が異なる病気(病名)を表していたり、逆に、異なる症状が同じ病気のものであったりというケースに、医者はよく直面します。
そういったさまざまな症状を識別して、間違いなく病気を特定できるかどうかは、医者個人の知識によって大きく左右されます。
もちろん、症状の解釈の仕方によっても、診断の結果は異なってきます。
こういう場合、医者の主観によって、病気、病名が決められてしまうことがよくあります。
じつはここに、診断ミスの真因が隠されていたのです。
医者を無条件に信頼したり、何でも医者に「おまかせします」では、このような問題があることに気づきにくいわけです。
キャッせルが指摘するまでもなく、急性症状は別にして、「医者が病気の根本原因を知らない」ことは本当です。
ですから、医者のいうことや診断結果を頭から信じたり、鵜呑みにしないよう注意することが大切です。
それはまた、診断ミスから身を守る対策にもなります。
第一章でご説明したとおり、生命はたえず流動し、循環し、変化するものです。
そういう動的な現象の表れである症状を一時的に固定し、部分的な静止状態で判断しようとする(画像診断)ことに、そもそもミスが生じる原因があるのです。
病気の根本原因はあくまで血液の質的悪化です。
ですからそれさえ知っておれば、いちいち症状にこだわる必要はないのではありませんか。
むしろ症状はそのままにしておいて、とにかく、血液の性状を改善していくことが先決です。
それにともなってほかの条件もおのずとよくなり、やがて病気そのものが自然に治っていきます。
症状をむりやり除去しようとして、あれこれ攻撃的な治療をするから、かえって病気が悪化するのです。
ところで、とくに症状がない場合、そのまま放っておいても安心なのでしょうか。
もちろん、そうではありません。
年齢、その他の条件にもよりますが、今はなんともなくても、体の奥深くで知らず知らず、病気が進行している可能性がないとはいえないからです。
慎重で几帳面な人は、病気予防のつもりで医療機関を訪れますが、残念ながら、医者でも検査によっても、病気の兆候を察知することはまず不可能です。
とても信じられないと思われるでしょうが、これから順を追ってお読みいただければ、必ずおわかりになるものと確信しています。
まず、主要な検査手段である血液検査が、検査の名に値しないものだということです。
現在の医療技術では、たったの30項目くらいしか分析できません。
また成分値だけではなく、血液の質そのものを測定するには、600項目におよぶ分析が必要とされています。
しかし、そんな機能を備えた測定装置は、いまのところどこにもないのです。
そのうえ、生体内の血液と採血した血液では、最初からすでに質の違いがあります。
じつは、採血した血液は、その時点からすでに異常な代謝をはじめており、そこにはさまざまな夾雑物が混じっています。
ときにはウイルスやバクテリアが混入していることもあり、そんなものが正確な検査の対象にならないことは、医学知識のない人でも容易にわかるのではないでしょうか。
2. 私の体験ー許せない診断ミスと治療放棄
検査の話をつづける前に、私事で恐縮ですが、ここで私がこうむった診断ミスとその結末を、ありのままお伝えします。
ある日突然、仕事中に腹部の激しい痛みに襲われ、茨木市にある、友●会総合病院という中堅の救急指定病院へ搬送されました。
とりあえず血圧と心拍を計ったあと、痛み止めの点滴をしただけで、その日は終わりました。
翌日から、血液検査、胃カメラ、エコー、CT、 MRI、カテーテル、肛門から内視鏡を挿入して大腸を調べるなど、ありとあらゆる検査がおこなわれ、その間ずっと私は、症状からくる痛みと、検査という二重の苦痛を必死で堪えました。
鎮痛剤はほとんど効きませんでした。
絶飲・絶食と点滴、たえず襲ってくる激痛発作、そしてまたべつの痛さである検査の繰り返しで、地獄のような日々が続きました。
でもやがて絶飲・絶食によって、痛みが出る回数はやや減りました。
それでもそれが出たときは、やはり耐えられないほどの激痛でした。
そんな状態が2週間も続いたころ、ようやく、『虚血性大腸炎』と診断されたのです。
しかし、この診断にたいして、病名がわかるのがあまりにも遅かったこと、激痛は胸の辺りにあること、一日に10本以上もの鎮痛剤や座薬を使っても痛みがほとんど消えないこと、痛みの原因についての説明が何もなされないことなどから、私ははっきり、「おかしいな」と感じました。
友人や妻もそう思うといったので、この病院は信頼できないということになり、ついに私は転院を決意しました。
転院先は尼崎市にある、有名な●西労災病院です。
ところがこの大病院でも、やることは最初の病院とまったく同じだったのです。
そして、くる日もくる日も一向に病名がわからず、痛みは少しましになったり、また強くなったりで、病態が回復に向かっているようには思えませんでした。
そんな状態が延々と続くなか、なんと今度は、転院から二ヵ月半もたってから、やっと私の病名が、『急性アルコール性膵炎』であることがわかったのです。
そうです、最初の病院とぜんぜん異なる診断だったわけですが、私はこのとき、「この診断も信用できない」、と思ったものです。
しかしその後の経過から、それが正しかったことは私も納得できました。
しかし病名がわかったあとも、治療らしいことは何もおこなわれず、妙なことに、また同じ検査を繰り返すばかりなのです。
それについて主治医に質問したところ、「膵臓は胃の真後ろにあって、画像が見にくいから」とのことでした。
ようするに、先端機器で3ヶ月もかかって調べても、膵臓の病変の様子を捉えられなかったということです。
あるとき、若い医者が数人エコーモニターの前に集まって、苦しんでいる私を尻目に、「あっ、ファータ(膵頭)が見えた、あれがファータだ、あれ、あれ」といって、興奮気味に囁きあっていたことがありました。
私はこのとき、自分の膵臓が、研修医たちの勉強の材料にされていると直感したことを、今でも覚えています。
その後も同じ検査が繰り返され、やはり時折襲ってくる激痛に、私はもう耐えられなくなりました。
いっそのこと死んだほうがよほど楽だろうと、「自殺」の仕方を考え始めた矢先に、主治医から、所見が告げられたのです。
主治医はこういいました。
「強烈な消化・溶解作用を持つ膵液が、膵臓じたいだけではなく、その周辺組織にまで漏れ出し、胃、胆嚢、十二指腸などを溶かし始めている、その結果、仮性嚢胞という、激痛の原因となる厄介なものができてしまった」と。
結局、痛みを取り除くには手術しかないという結論が示され、私のほうから手術を依頼する形になってしまいました。
私は、膵液の流出をなぜ阻止できなかったのかという点に疑問をもったのですが、主治医は専門用語を羅列するだけで、そのことに直接触れてはくれませんでした。
つまり、痛みの原因が膵臓であることがわかるのに、あまりにも日数がかかったことを認めたくなかったわけです。
過ぎたことを詮索してもしようがないと思い、あとは、すべてを医者に任せるより仕方ありませんでした。
手術は膵臓の一部、胃の3/4、胆嚢と十二指腸全摘というものです。
手術で痛みは除去できたものの、これがあとあと、ある意味では、もっとつらい苦痛を強いられることになりました。
退院後今日までずっと、手術の後遺症である激しい動悸や息切れ、吐き気、めまい、不整脈、極度の疲労感などに間断なく苦しめられ、きびしい食事制限によって体力が衰退しつづけ(文字通り骨と皮の状態です)、社会復帰は絶望的という人生を、送らなければならなくなってしまったのです。
手術は自分から頼んだ以上、今さらそれに対して抗議することはできません。
しかしながら、こういう結末に至ったのは、明らかに医療側(つまり医者)に責任があります。
一つには、最初の診断ミスは、正真正銘の医者の知識不足によるものであること、もう一つは、それが原因で病名がわからなかったため、適切な処置が何もできなかったことです。
許せないのはつぎです。
最初に運び込まれた病院では、私が激痛で顔を引きつらせ、断末魔のような声を張り上げてのた打ち回っているのを見れば、医者でなくても、これが急性症状の勃発であることはわかったはずです。
急性症状の勃発はしばしば命の危険があるため、処置は一刻を争わなければならないのは当然です。
ところが、そんな緊急事態であるにもかかわらず、2週間も無意味な検査を繰り返すだけで、セカンド・オピニオンを求めるなどの情報収集を怠り、病名がわからないまま、症状を長期間放置したということです。
やったことといえば鎮痛剤の注射、点滴、座薬ぐらいなもので、それらはどれも、一時的に激痛をやや緩和したにすぎません。
激痛はすぐにぶり返し、そのつどまた、鎮痛剤の使用が繰り返されただけで、痛みの元になる原因は除去できなかったのです。
病名がわからなければ正しい処置ができないのは当たり前で、とにかくもっと早い時点で、私に、「病名がわからない」ことを正直に伝えるべきだったのです。
そうすれば自分自身で情報を探し、もっと信頼できる病院をあたるなど、私にも対策は残されていたはずです。
そして二番目の病院では、最初の病院からのカルテなどで、症状や検査結果は知っていたにもかかわらず、また同じ検査を繰り返し、2ヶ月以上も病名がわからなかったということです。
関西労災病院ほどの病院なら、私の症状が「急性アルコール性膵炎」という急性疾患のものであることくらい、もっと早く調べていたら、突き止めることができたはずです。
そして急性疾患を長期に放置すれば、症状が悪化して、手遅れになることは十分予見できたことも明らかです。
じつは、手術は避けることができたのです。
その後、私自身でいろいろ調べたところ、痛みのそもそもの原因は、アルコールの飲みすぎによる、アミラーゼという酵素の過剰分泌であること、そして、もっと早く的確な診断ができていれば、アミラーゼの過剰分泌をすみやかに抑え、あとは時間をかけて保存療法(内科療法のこと)を根気よく続けることによって、膵臓を元の状態に戻すことができた、ということもわかりました。
そういう意味で、医者たちは知識不足だったうえ、急性症状の長期放置がもたらす結末は十分予測できたにもかかわらず、迅速な処置を怠ったことは明白です。
したがって私個人としては、こういった行為は刑法でいう「未必の故意」に相当し、本質的には立派な犯罪ではないかと思っています。
しかしながら、医療行為にたいしては(特例の限界があるため)、そのような刑法上の判断は、おそらく適用されないでしょう。
そして、手術じたいは成功したこと、手術は私のほうから依頼したこと、死亡には至らなかったこと、つまり救命処置はとられたと判断されることなどから、これが医療事故とみなされるかどうかさえ疑問です。
また過去において、私のようなケースが立件されたことがあるのか、それも今のところ不明です。
じつは、医者の明らかな過失を確信するようになってから、私はこれら二つの病院と、診療に当たった医者たちを告訴することも考えました。
しかし今述べたような事情と、そんなことをしても自分の体が元通りにはならないことから、提訴する気持ちは失せてしまいました。
ただ、私自身のためではなく、医療ミス根絶のために、自分の体験を、できるだけ多くの人々に知っていただく必要はあると思っています。
3. 無意味で危険な検査
アメリカの医療情報によりますと、臨床検査は患者の利益になるより、逆に不利益になることが多い、検査データの不正確さはもはやスキャンダルと呼ぶべきものになっている、などの認識が広まっています。
そこで、全米疾病対策センター(CDC)が全国の医療機関の検査の実態を調査したところ、検査ミスが発生する割合は、なんと全体の4割以上もあったことが判明しました。
そしてそのうち、血液検査(ヘモグロビン、血清電解質)のミスは3割もありました。
同センターはさらに、鎌状赤血球性貧血が確認できない割合、伝染性単核症(白血球増加症)の誤診がそれぞれ3割以上、正常な検体を白血病と誤診したもの2割、確実に異常と誤診したもの2.5割、などというショッキングな事実を公表しました。
日本ではこのような調査が行われた例がないため、詳しいデータはありませんが、おそらく数字はもっと高いものと推測されます。
血液検査(採血)によって、体が直接被害をうけることはないかもしれません。
しかし、検査結果がいい加減なものだとわかれば、好んで痛い目にあう必要もないでしょう。
医者が検査を積極的に薦めるのは、患者を確保するのが目的だという専門家の意見があります。
ハイテク医療機器を科学技術の進歩の結晶のように思っている人が多いのですが、じっさいには上記のような問題や、数値の誤差が生じるなど、さらには医者がデータを誤読したり、診断そのものを誤るという問題がいぜんとして残っています。
医者が儀式的に(患者の信頼を得る手段として)取り扱うさまざまな医療機器のなかでも、最も普及していて、もっとも危険なものがレントゲン装置です。
とにかく見えない体のなかを透視できるため、これを自在に操る医者や技師に、患者が畏敬の念をいだくのも無理からぬことでしょう。
医者は患者側のこういう心理をちゃんと見抜いています。
そしてそれを、自分がやりたいことができる下地を作るのに利用するのです。
それに陶酔する医者は、にきびが発生するカラクリから胎児の成長の神秘まで、ありとあらゆる検査にレントゲン装置を使いまくっています。
レントゲン検査がなぜ危険なのか、一般の人は考えたこともないのではないでしょうか。
それは、とくに日本においては、医療の実態について体制が事実をひた隠しにして、国民にすべてをオープンに公表しないからです。
たとえば、小児白血病が、胎児のときの医療被曝、つまりレントゲンと深い関係があることはすでに実証されています。
2,30年前に頭部、首、胸の上部に放射線を浴びた人たちのなかで、甲状腺機能低下症が何万という単位で発症していますし、甲状腺がんは、歯科医のレントゲン検査10回で浴びる放射線量を下回る線量の被爆でも、発症することがあるのです。
アメリカではこれまで多くの科学者が、議会でつぎのように警告しています。
「たとえ低線量の放射線でも、人体に照射すると遺伝子を損傷して、現世代だけではなく、それ以降の世代にわたって大きな影響を及ぼす危険がある。
X線は糖尿病、心臓病、脳卒中、高血圧、白内障といった、いずれも加齢に伴う病気の原因になることは、もはや疑う余地はない」。
がんや血液の異常、中枢神経系の腫瘍の原因が放射線にあると指摘する研究は、ほかにもいくらでもあります。
病院や診療所、歯医者で受けた医療被曝が直接の死因と見られる死亡者は、年間5,000人以上にものぼると推定されています。
最近の調査では、胸部レントゲン検査はじっさいの治療には無意味であることや、マンモグラフィーという乳がん検査の診断が正確さを欠くことは、実習を受けた医者も、何も受けていない医者も同じだと報告しています。
これらのことを知ったうえで、さらに注意をしなければならないのは、医者によっては、わずかな症状の異変を根拠にして、病気を捏造する場合があるということです。
これはとても許されるべき行為ではありませんが、いずれにしても、現代医学は病気の診断すら的を射ていないわけで、安易に医者や病院へ赴く前に、熟考すべき問題がいくつもあることを知っていただきたいのです。
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
つづく