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「医学革命」とは薬からの解放への「個人の気づき」の事である。雑多な情報も「取捨選択」&「鵜呑み厳禁」はセルフサービスにて

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    終わりの方に面白い動画を貼り付けました。

    変態人で一所懸命生きる!!

     

    自称、他称「変人」で生きてきたボクは、中興の祖です。

    では元祖は?

    いっぱい、たくさん、ゾロゾロ居ます。

    しかし、自分にとっては自分が出発点。

    だから、本当は変人の元祖と言っても誰も文句は言いません。

    文句と言うよりも、無関心なのですが(笑い

     

    さて、変態人は21世紀へのパスポート。

    日和見菌はいつも後から参加するしかない、特異な位置にあると認識しましょう、変態人。

     

    この本の著者もひとりの変態人だったと思います。ただし、20世紀の・・・

     

     

    超」細菌の報復---  抗生物質がつくりだすスーパーバグ
    発行日  一九九六年八月三〇日
    第一刷発行著者 ジェフリー・キャノン

    より

    一部誤植ありますので本書を読んでください。

     

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    294P
       薬を食べるスーパーバグ

     カビは抗生物質を食べて生きている。

    これはパート4で述べた。

    突然変異細菌もそうすることが可能である。

    一九九四年七月、フィラデルフィアの病院医師のチームが、集中治療室に入っている四六歳の女性の尿の中にすべてに耐性のあるフェカーリスレンサ球菌の新株を同定したと報告した。

    これはバンコマイシンに耐性をもつように突然変異しただけではない。

    それは、増殖のためバンコマイシンに依存するように別の方法で突然変異した。

    同じく一九九四年、バンコマイシンを食べるフェシウムレンサ球菌が、イギリスのバーミンガムとカーシャルトンの病院で二人の腎臓病患者の糞便の中に見つかった。

     究極のスーパーバグは全身への抗生物質の使用によって生み出されてきた。

    薬を食べる怪物のスーパーバグである。

    「バンコマイシン依存は異常な臨床現象である」と研究者たちは冷淡に評した。

    それは「病院環境の強烈な抗微生物圧力に適応する細菌微生物の驚くべき能力を示している」と。





    297P

    17  感染症薬の耐性

       最適のバグが生存する

     細菌は抗生物質が無効になるようにどのようにして薬剤耐性をもつようになるのだろうか。

    「非常に簡単に」が簡潔な答である。

    ユーモアのある卜-レ・ミドヴェット教授は、ストックホルムのカロリンスカ研究所の彼の研究室で私たちが話しているときに、薬剤耐性は「教会でのアーメン」と同じくらい必然的に抗生物質の使用についてくる、と謎かけをするようなことを言った。

     しかし、この問に対する完全な答を得ようとすると、細動が薬剤に耐性をもつように進化する手段が進化についての新しい洞察を与えてくれるので、私たちが地球上の生物の起源と発生について受け入れ学んできた理論を再び見直すことが必ず必要になる。

     歴史上かつて存在したよりも多くの科学者が今日存在すると言われており、現代科学は私たちの世界を変換させてきた。

    それにもかかわらず、驚くべきことに、私たちは物理世界の法則は数百年前に二コレイアス・コペルニクスやアイザック・ニュートンのような偉大な科学者によって確認されたことを全体的に受け入れ、私たちの占める位置や自然界のすべての生物を説明する生物学的世界の基本法則は、一九世紀にとりわけチャール・ズーダーウィンやグレゴール・メンデルによって解明され、生物科学におけるその後の発見すべては彼らのような偉人の肩にかかっていると信じるように育てられてきた。

     特に、私たちは「適者生存」は偶然の問題であると教えられている。

    小学校で私は、運動場で優位を占めている少年は、たまたま最大のこぶしをもっているかもっとも鋭いユーモアのセンスをもつ者であると学んだ。

    これは、無作為の突然変異の結果として、生物は違った。そして変わっていく環境に生き残り繁栄できるように進化していくという考えを含む、ダーウィンの自然淘汰説とおおざっぱであるが類似したものである。

     その後学校で、私はキリンが長い首をもっているのは、それらがアフリカのサバンナで大きくなっていく散在した木のいちばん上にある枝を食べるからだと教えられた。

    そのため、首の短いキリンはすべて絶滅すると。

    人類の特徴もこのようにして説明できる。

    このように、何百万年も前のある日、霊長類は親指をもって生まれ、この変種はそれが与えてくれた器用さを備えて成長し、この特徴を受け継いだ子孫のそれら、すなわちその種の他者を越える利点である親指をもつ霊長類が最終的に支配者となったのである。

     ダーウィン説はまた、変わっていくか新しい環境において絶滅する種もいれば増えていく種もいる理由をすっきりと説明している。

    このように、マンモスは氷河期に適応できなかったために絶滅したことが一般的に認められている。

    植物を見つけだすのがより難しくなったとき、小動物がまだ食べるものを十分もっていた一方、マンモスは飢えたのである。

    環境変化は「選択的圧力」を引き起こす。

    その圧力に耐えるか、それに適応することのできる種やその変種は実際に「適者」となり、そのために生き残り増える。

    ダーウィン説は明らかにこの事実に適合する。

    それは今まで異論を唱えられたことはなく、生物学者および実際生物科学の基礎を教えられてきたすべての人によって生物の世界についてなされてきた一連の前提の中心である。



    ● 微生物を含むすべての生物が、自然淘汰という手段によって同様に進化するとすれば、抗生物質治療の結果として、細菌における薬剤耐性の発達はまさに最初から予想可能なものであった。



    実際、ペニシリンの開拓者であるアレクサンダー・フレミングと(ワードーフローリーの両名は、その後細菌感染に用いたときに、細菌が薬剤耐性を生み出したことに十分気づいでいた。


     ●一九四四年、フローリーは大腸菌のような細菌種は実際に投薬中に数が増えることに気づいた。

    彼は、いくつかの例において、耐性細菌を征服するために比較的大量のペニシリンが必要だったことを観察した。

    そして、そのうち、ペニシリンが細菌感染に対する効力を失っていくことを恐れた。



     フレミングとフローリーのした仮定は、一九四〇年代から五〇年代後半までのすべての微生物学者がしたように、細菌は、キリン、マンモス、そして実際人類のような、無数の細胞からできている真核生物種とまさに同様に単細胞の原核生物種の進化を支配する(あるいはそう考えられていた)というダーウィンの原則に正確に従って、薬剤に耐性をもつように進化するというものである。

     私たちと細菌との一つの明らかな違いは、細菌が非常に小さいことである。

    人すべてにとっては、何兆もの細菌は、与えられたどの空間にもうまく入っていくことができる。

    結局、単に何十億といういかなる集団においても、なんらかの偶然による突然変異が新しい環境にたまたま遺伝的に適合するようになるという理由で、細菌は変わった環境に直面しても比較的非常に適応可能なのである。

    選択的圧力下では、マンモスのような身体の大きな種は絶滅し、そうでなくとも、気候が異なると人の皮膚の色が明るかったり暗かったり
    するように、ふさわしい特徴をもつように進化するまでには何千年もかかる。

    しかし、顕微鏡でしか見えない種は何日間かで適応した集団に進化する。

     その著『偶然と必然』で、当時パリのバストゥール研究所所長であった故ジャックーモノー教授は次のように説明している。





     個別のものとみなされている突然変異はすべて非常に珍しい現象である。

    細菌に関しては……その機能上の特性に大きな影響を及ぼしている突然変異を受けるある遺伝子の可能性は、一〇〇万に一つから一億に一つという大きさである。

    しかし、数百億の細胞の一群が数ミリリットルの水の中で発達することができるのである。

    その規模の群においては、おそらくなんらかのある突然変異の一〇か一〇〇か一〇〇〇の例、そしておそらくすべての種類についての一〇万か一〇〇万の突然変異が生じる……。

    そんなに大きな群においては、突然変異は例外ではない。

    それは原則である。


     

     この理由のためだけであるとすれば、抗生物質使用後の細菌における薬剤耐性の発達は、菌交代症がそうであるように必然的なものである。

    マンモスは氷河期に生き残ることができなかった。

    しかし、化学的な激変に直面すると、ある抗生物質によって標的とされた種の一〇〇万か一億の細菌群において、たまたま自然に薬剤耐性をもつようになった一個の細菌は、生き残り、増えるだろう。

    そしてこの突然変異株は、環境の力によってその後優勢種となる。




    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    薬が血液中の毒素となり、細胞に染みこんで毒素は溜まり続ける。

    すると、それをエサにする細菌が発生して繁殖する。

    食うだけ食って繁殖しながら死滅して逝くのだが、それは毒素とともにだ・・・・

    シェーン、カムバック~~~

    じゃないのだ。毒素と戻ってくるな~~~

    なのだ。

    でRからして、バイ菌(病原菌の蔑称)はじつに有難いものでア~~ル。

    それをバカな医学者達が、菌が悪いと言って抗生物質を発明じゃない、偶然に!発見したときから抗生物質と菌の闘いが始まったのでR。

    そして現代、途中20年前のこの本の警告通り、菌は抗生物質に打ち勝った。

    すでの負けていたのだが・・・

    当たり前だのクラッカー!

     

    だって、クラッカー(抗生物質)をエサにされたんじゃ~~♪ 

    こうして、抗生物質で益々強くなって帰ってきたシェーンは『スーパー』という冠をかぶって、いまやスーパーマン対バットマン対スーパーバグの闘いという映画まで登場することのなった。

    あ、これは未来予測¥

     

     

    これは抗生物質だけに限らない。じつはすべての薬剤がおなじ運命にあるのだが・・・

    それを今言っても、「し~~じられな~~~い♪」というbaka友の黄色いさけびごえにかき消されて、聞く耳が無い堕郎・・・

     

    だが、変態人なら聞き逃すことはない堕郎。

     

    21世紀は変態人でないとね。

     

     

    【動画】未来の子どもにつなぐ古くて新しい食と社会の大事な話3ディスカッション


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    人類最初の抗生物質の発見開発者の憂鬱 「ペニシリンへの危惧」

     

    先回は読んでくられましたか?

    300人くらい訪問者があったので、3人くらいは読んだかも。

    え?

    ボク?   ボクはそのまんま掲載するだけで、中身なんか興味ないのね。

    だって、すべての薬が毒だと思っているからね。べつに抗生物質に限らないし、名前も種類も憶える必要なし。

    こんなに詳しく知る必要など無いのね。だってだって、自分は使わない悶寝。

     

    したがって、こういう情報は「余計なお節介、余計なお世話」に過ぎないです。

     

    相手はせいぜい、2,3人くらいだし~~~

    で、先回の引用文から

    ●一九四四年、フローリーは大腸菌のような細菌種は実際に投薬中に数が増えることに気づいた。

    彼は、いくつかの例において、耐性細菌を征服するために比較的大量のペニシリンが必要だったことを観察した。

    そして、そのうち、ペニシリンが細菌感染に対する効力を失っていくことを恐れた。


    そして・・・そうなった。

     

    超」細菌の報復---  抗生物質がつくりだすスーパーバグ
    発行日  一九九六年八月三〇日
    第一刷発行著者 ジェフリー・キャノン

    より

    一部誤植ありますので本書を読んでください。

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    301P
       ショットガン療法

     ペニシリンが唯一利用できる比較的安全な抗生物質であった一九四〇年代初期に、ハワードーフローリーのような最先端を行く研究者たちは、薬剤耐性細菌が最終的には抗生物質療法を無効にしてしまうのではないかと考えざるをえなくなっていた。

    しかし、この懸念は、ストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンのような新しい抗生物質の発見と販売、その後のベータラクタム系抗生物質の次世代薬の開発という非現実的幸福感の中に溶けて消えてしまった。

    無作為選択の原則に従って、細菌の一集団における突然変異として起こるある薬剤への耐性の可能性は高く、そのうちその薬の投与の結果として耐性株が優勢になっていく。

    しかし、二種の異なる抗生物質の細菌耐性の無作為突然変異株の生じる可能性は、一〇〇万に一つから一億に一つという小さなものである。

    そして三つ以上の抗生物質に対する無作為多剤耐性の生じる可能性は、実質上ゼロである。

     したがって、抗生物質の「黄金時代」において医師たちは、もし一つの抗生物質で効かなかったら、別のものを試すということにした。

    さらに良いとされているのは、任意の量で一度に二種のものを試すことである。

    リチャード・ノビック博士は、医師としての人生をスタートしたころに直面した当時推薦されでいた臨床処置を思い出した。

    「私が医大生だったとき、抗生物質は新しいものだった

    これは過去五〇年間においてのことだった。



    私は、非常に良い先生だと言われている微生物生理学者によって薬理学を教えられた。

    彼は、非常に聡明で合理的な薬理学の考えをもっていた。

    彼は、細菌は突然変異しうるので、抗生物質については耐性が問題となり、突然変異は無作為であったことが最近示されたと私たちに教えてくれた。
    そして彼は、抗生物質を使うときの賢明な原理は二種を使うことであると教えてくれた。

    というのは当時両方に起こる耐性の可能性は非常に小さかったからであり、その心配をする必要はなかったのである。

    私たちは皆、特に以前にこのようなものを見たことのない医学部二回生にとっては、この使用法はすばらしく、非常に賢明で知的なことであると考えられた」 抗生物質にもっとも熱狂していた日々においてさえ、内科医たちは同時に患者に二種以卜の薬剤を与えることは問題があるとわかっていた。

    薬剤の種類が多くなればなるほど、突き止めることが難しくなる副作用の可能性が大きくなる。

    あなたが感染症に罹っており、二つ(あるいはそれ以上)の薬剤を与えられていて、その後もおそらく薬を服用する前と同じような症状があって不調が続いたら、何があなたの病気の原因なのだろうか。

    感染症だろうか。

    最初の薬だろうか。

    一つめの薬だろうか。

    お互いに相互作用する二つの薬だろうか。

    そしてそれが感染症であれば、これは三つめの薬を与えられるべきであるということだろうか。

    多剤投与は、患者はもちろん内科医も麻痺させる。

    そして、同時に二種以上の抗生物質が与えられると、特に、与えられている二種以上の総合投与量が一つの薬のそれよりも大きければ、菌交代症の危険性は増える。

     しかし、多剤投与は抗生物質耐性の答であるようであった。

    そしてそれは、薬が重症の侵襲性細菌感染に対してもはや効力がないときには生命を脅かすものとなる。

    そして、しつこい感染症なら一連の薬剤を続けて試したくなる。

    医師たちは自身の患者の健康のためにも、そして病気に負けたくないとも思っているので、薬に効いてほしいと思っている。

     医学生と若い世代の医師は、後に医療専門職のリーダーとなる者を含み、その医学の最初の経験が抗生物質に関与し、これらの強力な薬剤はライフル銃から放たれた魔法の弾丸のように個々の症例においては作用しないが、それらが実際ショットガンの筒から放たれたら、少しの違いこそあれ、効くはずだと信じるように訓練されている。

    そしてこの信念は無理からぬことだが残り、というのはもちろんそれがあたかもショットガン、ラッパ銃、あるいはマシンガンからのように、二種以上の抗生物質が同時にあるいは続けて使われれば、しつこい感染症が身体から吹き飛ばされる可能性が増えることは本当だからである。

     このように、薬剤耐性細菌が細菌の無作為の突然変異の唯一の結果であるという仮定は、即時および長期の副作用についての適切な考慮なしに、抗生物質が全面戦争における武器であるかのように、一般医や病院医師によって積極的にしばしば使われている重要な理由である。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    感染症とか伝染病というものの正体を知れば

    一切のワクチンや抗生物質の類はナンセンスだと分かるのですが・・・

    そこへ逝くまではねえ~~ 

    だからチマチマとこういう情報をかみ砕いていただきまして専門家様の情報が「権威」ありますし。

     

    抗生物質の多剤投与・・・言い方が違えば

    数打ちゃ当たる式 ね。

    そこには科学性などミジンコも無い。どれが効くのかも分からない。

    ただ、数多く投げた石がたまたま、あいつに当たっただけのこと。

    さて、どの石が当たったのか? 

    たくさんの石を使えば分かるわけ無い。

    たぶん、これだろうって式ね。

     

     

    しかし、もともと毒性のある薬剤を同時に使えば使うほど害もウナギ登り。

    効能ばかりうたっているエビデンスなど何の勝ちも無い。

    その裏には効能が増すたびに、害作用も同時に増す。 これが薬の宿命。

    効く薬ほど危険なのである。

    ただ、一時的な効果の幻惑が目をくらます。だから幻惑というのか。

     

    かくして多剤投与という、数打ちゃ当たる方式でますます抗生物質が使われることに相成ったのでR


    あれがダメならコレ。コレがダメならあれ。

    ええ~~い! メンドクサイ。 

    一気にあれもコレもだ~~~♪

     

    患者 : センセ~~~ありがとうございました。 大判振る舞いですね♪ 大盤か・・

     

    これが歴史でしょ(笑い

     

     

    「残念ながらお薬には病を治す力を持ち合わせておりません」 (あっと驚く薬理学より)

     

    残念ながら、抗生物質には病を治す力を持ち合わせておりません(akyoon)

    だって、抗生物質だってお薬です悶;

    医療用大麻?

    お薬でしょ。

    つまりこの地球上でお薬と呼ばれるものには

    「残念ながら病を治す力を持ち合わせておりません」

    どうでしょうか?

    偏見でしょうか? それとも。。 

     




    0 0

    先回は「数打ちゃ当たる式」の抗生物質多剤投与でしたが、

    これは薬剤に科学性などミジンコも無いという証拠でして、
    科学性があれば、「どれが聞くのかワカンナ~~イ」ので「数打ちゃ、どれかが当たるデショ♪」で、一度にたくさん使うという、ひじょ~~に、小学生でも笑っちゃうくらいのやり方です。

    もともと、抗生物質の元祖のようなペニシリン自体がはじめから計画されて作られたものでもなんでもなく、ただ偶然の産物でした。近代医学とセレンディピティという本によると、ほとんどの近代医学の主要な薬や医学的発見はセレンディピティ(偶然の発見)であって、それをマイナーチェンジ(自動車がよくやる外観だけ変えて、中身はほぼ同じ構造で新車発売と銘打っているような感じ)で、新薬を作っているようなものでしょう。

    偶然の産物だから、当然計画的とかいう科学性などないし、あるとすれば「効いたから、後からこじつけ理論を付け加える」という後出しジャンケンみたいなエビデンスでしかないわけでして、ゆえに、どの抗生物質がどの用に作用してどのような効果を上げるのか・・がサッパリ分からない・・ゆえに、「数打ちゃ当たる」式を採用するのでしょう。

    あまりくどくどしくて説明するのも嫌になっちゃうんですけど。

    エビデンスとか科学的根拠など無いから、多剤投与となるんで。。。

    ああ、いやになっちゃう・・

     

    ところがその多剤投与こそ、またまた多剤耐性菌を育てるという糸車に・・・

    薬剤耐性をもった菌が別種の菌にもその耐性を移譲すると言う異常さ。

     

     

     

    超」細菌の報復---  抗生物質がつくりだすスーパーバグ
    発行日  一九九六年八月三〇日
    第一刷発行著者 ジェフリー・キャノン

    より

    一部誤植ありますので本書を読んでください。

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    303P
       日本で何か起こつたか

     細菌は、無作為の突然変異の結果として抗生物質に実際耐性をもつようになる。

    しかし、一九五〇年代後半になるまでわからなくて想像もされなかったし、それは当時の研究者たちを愕然とさせた非常に驚くべきものであったが、生物学的「知性」という手段によって、バグは特質上スーパーバグになる。

    無作為の突然変異はたった一つの細菌種に影響し、ほとんど確かに一つだけの薬剤への耐性を生じる。

    しかし、細菌は、無作為の突然変異によって、二種以上の薬剤、ときにはすべての利用できる薬剤に対して通常ではないがときに耐性をもつようになるのである。

    実際に起こっていることは従来の遺伝学に矛盾するもっと興味をそそられる現象であり、それはある日、種の起源についての新しい学説を促進する可能性がある。

    実際、チャールズ・ダーウインが非常に高性能の顕微鏡の助けを借りてその研究をすることができていたら、彼は彼自身なんらかの異なった結論に達していたかもしれない。

     多剤耐性スーパーバグの発見とそれらが抗生物質に対してそれらの力をどのようにして得たかについての話は日本で始まっている。

    近代化の後、日本の人々は志賀赤痢菌によって引き起こされた赤痢の連続的な流行に見舞われた。

    この赤痢菌種はもっとも毒力が強く、暑い気候でもっともよく見られる。

    それは軽度あるいは重い下痢程度しか引き起こさないが、全身に侵入し、激しい痛みと熱を引き起こす。

    成人はたいてい数日から数週間で、この「細菌性の」赤痢から回復するが、すぐに気づかなければ、それはほとんどが熱帯諸国においては高熱、脱水状態を引き起こし、赤ん坊や幼児では死ぬことさえある。

     第二次世界大戦後、スルホンアミドが日本に導入され広く使われた。

    それらは細菌性赤痢に効いて、その流行がくい止められ、この病気の発症率は二年間で五分の四に減った。

    しかし、二年後の一九四九年に、日本は通常サルファ剤に耐性のある志賀赤痢菌によって引き起こされた細菌性赤痢の新たな流行に見舞われた。

    この病気の発症率は今までになく上昇した。

    そのときイギリスでは、微生物学者たちは、ある日、薬剤耐性がついにはペニシリンを無効にしてしまうだろうと恐れていた。

    日本では、医師たちはスルホンアミド耐性細菌に直面し、事実無力になっていた。

     しかし、どこでもそうであるように、ストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンといった、赤痢の有効な治療薬となりうるものすべてが日本に導入され、一九五〇年代初期までに、医師に明らかに力を与え戻してやった。

    これらの薬の使用とともに、細菌性赤痢の発症率は再び落ちた。

    科学は薬剤耐性菌より一段階―あるいは三段階―先にあった。

    誰も、無作為選択という仮定に基づき、実際に不可能であった多剤耐性については心配していなかった。

     そう、ほとんど誰も心配していなかった。

    一九五二年に微生物学者の渡辺努博士が、当時わかっていたことからすればほとんどありえないことだったが、一つの薬にではなく三つの薬、サルファ剤のスルファニルアミド、ストレプトマイシン、テトラサイクリンに耐性のある赤痢菌の例を見つけたからである。

    その後一九五五年に、香港から東京に帰って来た女性が細菌性赤痢に罹っていた。

    彼女の治療のために呼ばれた病院医師が、彼女はこの病気を治療するために用いられる四つのすべての薬に耐性のある赤痢菌のある株に感染していることを見つけた。

    すでに言及したものだけでなくクロラムフェニコールもそうであった。

    ありえないと思われていたことが起こったのである。

     細菌性赤痢への多剤耐性の最初の発見は、日本以外の科学者にはほとんど知られていない専門誌で発表され、初の症例は、他の不可解な現象と共通して、異常な現象であると考えられていた。

    しがし、後に一九五〇年代になって、流行性の赤痢が再び日本を襲い、それは多くの場合、この病気を治療するために当時使われていた四つの薬すべてに耐性があった。

    何が起こっていたのだろうか。

    当時、もう一人の微生物学者、東京大学の秋葉朝一郎博士は、多剤耐性を二重に不可解なものにする発見をした。

    彼は細動性赤痢に罹っている入院患者の腸の細菌の試料を調べた。

    彼が発見したものは赤痢菌の中で選ばれた四つの薬に対する耐性だけではなく、健康な腸管の中に存在するまったく異なる細菌種である大腸菌にも同じパターンの多剤耐性を示したことであった。

     赤痢菌と大腸菌のような二つの異なる種類の細菌は、無作為の突然変異の結果として、同じ四つの薬にいずれも偶然に耐性をもつようになったというようなことはまったくない。

    細菌の細胞における偶然の突然変異の割合が一〇〇分の一であると仮定しよう、四つの薬剤それぞれに耐性をもたせるようにする二つの細菌種における偶然の突然変異の可能性は、一〇〇万の八乗一すなわち一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万-分の一である。

    この数は、地球上に存在している細菌の数よりはるかに大きいのである。

    多剤耐性は無作為にはなりえない。

     しかし、無作為でないとすれば、どうなのか。

    ある意味では細菌は薬剤に耐性をもつことを学習できたのだろうか。

    この考えは信じられないように見えるが、そうであることが証明されたのだ。

    重要な実験が、落合国太郎博士率いる研究チームによってなされた。

    スルホンアミド、ストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンに耐性のある大腸菌群が、四つの薬剤すべてに弱い薬剤感受性赤痢菌群と混合された。

    そのとき起こったことは、赤痢菌がその性質を変えたことである。

    それらは薬剤耐性を増やすようにもなった。

    たった一つ、考えられうる原因があった。

    どういうわけか、大腸菌スーパーバグは、かつては耐性のなかった赤痢菌を治療できなくして強力に致命的なスーパーバグに変え、その耐性力を別の細菌種に移すことができるようになったのである。

     最初、これがどんなふうにして起こったか誰もわからなかった。

    しかし、その意味するところはたいへんなものであった。

    特定の細菌種の無作為の突然変異によって引き起こされた薬剤耐性は、リチャード・ノビックが医大で教えられたように、違う抗生物質の使用によって必ず克服できる。

    しかし、細菌同士で、ある細菌種から別の細菌種へと増やされ移される薬剤耐性は、計り知れないほど不吉なものである。

    というのは、そのような薬剤耐性がどのくらい遠くまであるいは速く広がるか、あるいは細菌感染の突然発生や流行がいつどこで治療不可能であるとわかるようになるかについて知る方法がないからである。


    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

     

    あらゆる症状に抗生物質。

    あらゆる手術に抗生物質。

    あらゆる家畜に抗生物質。

    こうして、人類は膨大な量の抗生物質を使ってきた。

    そして、いま

    あらゆる抗生物質が効かないスーパーバグ(超細菌)の登場。

    これがいま世界中に拡散中という。

    これは垂直伝播どころか、水平伝播するという。

    まさに時空を飛ぶスーパーバグなのだ。

     

    「いずれ人類は抗生物質の無い時代へ再び戻らねばならない。」

    と宣う医学者達の危惧。

    だが、相変わらず日々使われている抗生物質はもう誰も止められないやめられないかっぱえびせん。

    かくしてあれから20年余り

    最後の審判の日まで・・・・

    という恐ろしいような話しなのだが、果たして人類の未来は・・・

     

    え?オマエの未来の方が早仕舞いだと~~~!!(akyoon談)

     

     

    オマケ

    (え?ボクの方がオマケ!)

     

    虚構社会の本質 国家はなぜワクチンを打たせたがるのか? それはもちろん国民を病気にするため 死因の第一位は医療支配者たちのゲーム殺人

     

     

     

     

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

    303P
       日本で何か起こつたか

     細菌は、無作為の突然変異の結果として抗生物質に実際耐性をもつようになる。

    しかし、一九五〇年代後半になるまでわからなくて想像もされなかったし、それは当時の研究者たちを愕然とさせた非常に驚くべきものであったが、生物学的「知性」という手段によって、バグは特質上スーパーバグになる。

    無作為の突然変異はたった一つの細菌種に影響し、ほとんど確かに一つだけの薬剤への耐性を生じる。

    しかし、細菌は、無作為の突然変異によって、二種以上の薬剤、ときにはすべての利用できる薬剤に対して通常ではないがときに耐性をもつようになるのである。

    実際に起こっていることは従来の遺伝学に矛盾するもっと興味をそそられる現象であり、それはある日、種の起源についての新しい学説を促進する可能性がある。

    実際、チャールズ・ダーウインが非常に高性能の顕微鏡の助けを借りてその研究をすることができていたら、彼は彼自身なんらかの異なった結論に達していたかもしれない。

     多剤耐性スーパーバグの発見とそれらが抗生物質に対してそれらの力をどのようにして得たかについての話は日本で始まっている。

    近代化の後、日本の人々は志賀赤痢菌によって引き起こされた赤痢の連続的な流行に見舞われた。

    この赤痢菌種はもっとも毒力が強く、暑い気候でもっともよく見られる。

    それは軽度あるいは重い下痢程度しか引き起こさないが、全身に侵入し、激しい痛みと熱を引き起こす。

    成人はたいてい数日から数週間で、この「細菌性の」赤痢から回復するが、すぐに気づかなければ、それはほとんどが熱帯諸国においては高熱、脱水状態を引き起こし、赤ん坊や幼児では死ぬことさえある。

     第二次世界大戦後、スルホンアミドが日本に導入され広く使われた。

    それらは細菌性赤痢に効いて、その流行がくい止められ、この病気の発症率は二年間で五分の四に減った。

    しかし、二年後の一九四九年に、日本は通常サルファ剤に耐性のある志賀赤痢菌によって引き起こされた細菌性赤痢の新たな流行に見舞われた。

    この病気の発症率は今までになく上昇した。

    そのときイギリスでは、微生物学者たちは、ある日、薬剤耐性がついにはペニシリンを無効にしてしまうだろうと恐れていた。

    日本では、医師たちはスルホンアミド耐性細菌に直面し、事実無力になっていた。

     しかし、どこでもそうであるように、ストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンといった、赤痢の有効な治療薬となりうるものすべてが日本に導入され、一九五〇年代初期までに、医師に明らかに力を与え戻してやった。

    これらの薬の使用とともに、細菌性赤痢の発症率は再び落ちた。

    科学は薬剤耐性菌より一段階―あるいは三段階―先にあった。

    誰も、無作為選択という仮定に基づき、実際に不可能であった多剤耐性については心配していなかった。

     そう、ほとんど誰も心配していなかった。

    一九五二年に微生物学者の渡辺努博士が、当時わかっていたことからすればほとんどありえないことだったが、一つの薬にではなく三つの薬、サルファ剤のスルファニルアミド、ストレプトマイシン、テトラサイクリンに耐性のある赤痢菌の例を見つけたからである。

    その後一九五五年に、香港から東京に帰って来た女性が細菌性赤痢に罹っていた。

    彼女の治療のために呼ばれた病院医師が、彼女はこの病気を治療するために用いられる四つのすべての薬に耐性のある赤痢菌のある株に感染していることを見つけた。

    すでに言及したものだけでなくクロラムフェニコールもそうであった。

    ありえないと思われていたことが起こったのである。

     細菌性赤痢への多剤耐性の最初の発見は、日本以外の科学者にはほとんど知られていない専門誌で発表され、初の症例は、他の不可解な現象と共通して、異常な現象であると考えられていた。

    しがし、後に一九五〇年代になって、流行性の赤痢が再び日本を襲い、それは多くの場合、この病気を治療するために当時使われていた四つの薬すべてに耐性があった。

    何が起こっていたのだろうか。

    当時、もう一人の微生物学者、東京大学の秋葉朝一郎博士は、多剤耐性を二重に不可解なものにする発見をした。

    彼は細動性赤痢に罹っている入院患者の腸の細菌の試料を調べた。

    彼が発見したものは赤痢菌の中で選ばれた四つの薬に対する耐性だけではなく、健康な腸管の中に存在するまったく異なる細菌種である大腸菌にも同じパターンの多剤耐性を示したことであった。

     赤痢菌と大腸菌のような二つの異なる種類の細菌は、無作為の突然変異の結果として、同じ四つの薬にいずれも偶然に耐性をもつようになったというようなことはまったくない。

    細菌の細胞における偶然の突然変異の割合が一〇〇分の一であると仮定しよう、四つの薬剤それぞれに耐性をもたせるようにする二つの細菌種における偶然の突然変異の可能性は、一〇〇万の八乗一すなわち一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万×一〇〇万-分の一である。

    この数は、地球上に存在している細菌の数よりはるかに大きいのである。

    多剤耐性は無作為にはなりえない。

     しかし、無作為でないとすれば、どうなのか。

    ある意味では細菌は薬剤に耐性をもつことを学習できたのだろうか。

    この考えは信じられないように見えるが、そうであることが証明されたのだ。

    重要な実験が、落合国太郎博士率いる研究チームによってなされた。

    スルホンアミド、ストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンに耐性のある大腸菌群が、四つの薬剤すべてに弱い薬剤感受性赤痢菌群と混合された。

    そのとき起こったことは、赤痢菌がその性質を変えたことである。

    それらは薬剤耐性を増やすようにもなった。

    たった一つ、考えられうる原因があった。

    どういうわけか、大腸菌スーパーバグは、かつては耐性のなかった赤痢菌を治療できなくして強力に致命的なスーパーバグに変え、その耐性力を別の細菌種に移すことができるようになったのである。

     最初、これがどんなふうにして起こったか誰もわからなかった。

    しかし、その意味するところはたいへんなものであった。

    特定の細菌種の無作為の突然変異によって引き起こされた薬剤耐性は、リチャード・ノビックが医大で教えられたように、違う抗生物質の使用によって必ず克服できる。

    しかし、細菌同士で、ある細菌種から別の細菌種へと増やされ移される薬剤耐性は、計り知れないほど不吉なものである。

    というのは、そのような薬剤耐性がどのくらい遠くまであるいは速く広がるか、あるいは細菌感染の突然発生や流行がいつどこで治療不可能であるとわかるようになるかについて知る方法がないからである。


    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

    参考 抗生物質の危機(2)~魔法の終わる時~

     

    こうして見ると(さっと読んでいるだけだけどね)

    日本人の研究もかなりイイ銭を逝っていたのですね。

    あ、誤字脱痔はセルフサービスでよろしく。

     

    つまり、細菌同士が繋がっているというのだ。

    別の細菌の性質がまだ別の細菌の性質になるという。

    そうなると、体験しないひとが体験した人と同じ性質を得るという、まことに便利かつ早漏な性質なのだ。

    たとえば漏れやすいという体験者が別のひとにその漏れやすいという性質を付与してしまうと、別の人もすぐ漏れ易くなると言うのだ。

    え?ぜんぜん例えが悪い?  どうして、漏れに持っていくんだ!?

     

    耐性を得た細菌の性質が別の種類の細菌にまで耐性を持たせるという事だとしたら・・・

    嗚呼、どうしよう~~~

    人が見ていないうちに漏らしちゃおう~~♪

     

     

     

     


    0 0

    はてさて、どうしてこうも抗生物質に負けない、薬剤耐性をもつ菌が拡散するのだろうか?

     

    世界中に拡散する抗生物質耐性菌。

    それも、新しい抗生物質が登場すると、まもなくである。

    次々とあっちにもこっちにも登場する抗生物質が効かないスーパーバグだが、どうしてこうも早く世界中に散らばるのだろうか?

    トンデトンデトンデ~~イスタンブール♪

    奴らはこんな鼻歌をうたいながらあちこちに飛んでいくのだろうか? 
    iyaまてよ。 細菌に鼻があるのかな・・?

     

    などと、小学生のような疑問を持ちつつ(小学生でも持つか)

    この疑問に答えてくれたのがこの本。

     

    この20年前の本が今売れ始めたという。

    だがAmazonでは中古本しかなく、ボクは一円で買えたが・・そのうち

    一万円になるだろうと予測している。

    その時は売りに出すことを楽しみにしているきょうこのごろです。 (アホ)

     

     

    超」細菌の報復---  抗生物質がつくりだすスーパーバグ
    発行日  一九九六年八月三〇日
    第一刷発行著者 ジェフリー・キャノン

    より

    一部誤植ありますので本書を読んでください。

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    307P
       飛ぶ遺伝子

     ちょうどベルビュー病院のそばのマン(ツタンの下町にある彼の事務所でノビック博士と話しながら、私は日本からのニュースが彼と、同じ分野の他の微生物学者に対してどんな衝撃を与えたかと尋ねた。

     「ああ、それはひどいものだった」と彼は言った。

    「しかし、悲惨なものでもあり興味をそそられるものでもあった。

    抗生物質と耐性について私たちが医大で教えられてきたことすべてがごみ箱に捨てられたのだ。

    その中にごみを沈めるには少し時間がかかった。

    なぜなら、それは、細菌学と細菌感染の治療ではなく、遺伝学のすべてにおける信じられない変革を引き起こしていたし、引き起こしてしまった。


    遺伝子が細菌の間で、種の間で、そして属の間で行ったり来たりしているのだという考えは……」。

    彼は、言葉を探しながら、ちょっと間をおいて、「それは何か--非常に過激なものだった」。

    「それが証明されるまでは考えられないことですか」と私は尋ねた。

    「そんなことは今まで誰にも起こらなかっただろう。

    誰もその普遍性については夢にも思わなかった。

    その事実とその発見の衝撃はただ非常にゆっくりと、年数をかけて成熟したのだ」と彼は答えた。


     一九六〇年代初期に、ロンドンのミルヒルで働いていた国立医学研究所のノビック博士は、耐性の転移は大腸菌に独特のものではなく、黄色ブドウ球菌にも生じたことに気づいた。

    これが意味することに驚き、彼は当時ロンドンの病院で外科医が通常行う処置に対して「病棟全体にメチシリンを噴霧すること。

    私はこんなことを言うことが異常であると書いたし、その薬の有効性を消失させてしまうだろう」という警告をした-                                『ランセット』誌に送った。

    すなわち、それはMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)の出現とともに証明された。

    そして、一九六〇年代後半になってノビック博士は私に語った。

    彼は、そのときまでに「科学的想像の産物のようなもの」としてよく定着していたものをはねつけ、薬剤耐性がある細菌種から別のものへと移るということを認めることを拒絶した製薬会社の代表に出会った。

     渡辺努博士は、一九五〇年代の終わりに彼が「感染性薬剤耐性」とうまく名づけたものの謎を解明すると信じていた。

    細菌はたった一つの染色体しかもたないが、それらは自身の細胞壁の中にもう一つの遺伝物質のパッケージを、現在は「プラスミド」として知られている核酸の輪という形態でもっていることを発見した。

     ウイルスのように、これらの細胞より小さい生物は細菌の細胞壁の中だけで生き、増える。

    しかし、ウイルスとプラスミドの間には重要な違いがある。

    ウイルスがそれらの細菌宿主に対して実際たいてい無害であるか、新しい、時には役に立つ遺伝情報をもち込み、有益でありさえする一方、それらは細菌を殺すこともできる。

    反対に、プラスミドはいつも有益であり、細菌の健康と生存にとって不可欠なものとなる。

     とりわけプラスミドは、細菌の染色体には含まれていない情報を運ぶことができる。

    これには、環境中の毒素(これには現在、抗生物質が含まれる)からそれらの細菌の宿主を守る遺伝子が含まれている。

    そして、プラスミドはまた、「接合」すなわち細菌の交配という手段によって細菌の遺伝子上に乗り込めるようにできる。

    これらの二つの特質が感染性薬剤耐性の原因である。


     私はノビック博士に説明してくれるように頼んだ。

    「細菌は、あなたと私、そして雌牛、ニワトリなどのようなかなり古典的な遺伝子をもっているが、面白いことに、そのことは一九四〇年代か五〇年代になるまで気づかれなかった。

    それらは遺伝子を単一の染色休として構成させた。



    結局、細菌は染色体の他にもう一つの遺伝子のパッケージをもっており、これらがプラスミドと呼ばれている。

    これらは、自身で細菌の内部で増えることが可能である。



    そして驚くべきことに、それらは自身を細胞から細胞へ、それだけでなく細菌の異なる種と属の間も移動させることを可能にする遺伝情報を含んでいる」。


     「これが意味していることは、ー細菌は実際にあるものを他のものと交配させることが可能であるということであり、細胞の交配中にプラスミドのDNAはある細胞から別なものへと伝えられる。


    その細胞のいかなる他の遺伝子もその種の交配によって送り込まれない。

    プラスミドの遺伝子だけが伝えられるのである。

    細菌の染色体は交配しない。

    プラスミドだけがする。


    そして、ほとんどのプラスミドがどの細胞にも一つ以上のコピーとして生じるので、もとの細菌はプラスミドを保持し、新しい細菌がそのコピーを得る。


    したがって、現在両方の細菌にプラスミドが含まれている--などである。

    それはお金のように交換するものではない。

    それは増加する広がりなのである」と彼は言った。


     したがって、細菌が多剤耐性スーパーバグになる理由は、耐性が「細菌から細菌へと行き来する細胞より小さい乗り物の中でパッケージに包まれて保持されている」からである。


    ノビック博士は、プラスミドは単に細菌に付属する遺伝子のパッケージではなく、それら自身の権限下にある生物であり、この点でウイルスのように宿主細胞の内部と宿主細胞間で独立して働いていると考えるほうに傾いている。

    細菌の視点からすれば、ウイルスが戦争を起こすのに対し、プラスミドは常に交わる。

    それらの進化戦略は攻撃することではなく、同種また異種の個々の細菌と細菌群全体を防御することである。

     一九六〇年代初期に若手研究者として、現在ボストンのタフツ大学微生物学および医学部の教授であるス
    テュアートーレヴィ博士は、東京の渡辺博士の研究室で研究していた。

    当時は「言葉にできないほど刺激的な時代であった」と彼は言っている’lt-。

    プラスミドによって伝えられた感染性薬剤耐性は「その非常に多くの学説が認められている生物学と遺伝学の前に突然現れたので、私たちにはほとんど想像できないと思えた。

    それは完全に新しい領域だった」。

     しかし、その意味するところは、渡辺博士がよくわかっていたように本当に驚くべきものであった。



    一九六七年、彼は抗生物質の黄金時代の終わりだと区切りをつけてこう書いている。

    「抗生物質と合成薬の無駄遣いをやめなければ、私たちはまもなく医学の抗生物質時代前に引き戻されることだろう」。



     プラスミドが生物学的に細菌から分離できようとできまいと、細菌は抗生物質時代前にプラスミドを含んでいたことがわかっている。

    これは、そのとき抗生物質にさらされていながった世界の離れた国々における研究によって、また将来の科学者のために、今世紀初頭に試験管の中に封をして保存されていた抗生物質時代前の細菌の調査によっても確立された。

    細菌とプラスミドは、相互に有益な微生物学的生態系として協調して進化してきた可能性が高い。

     すべてではないがいくつかの「抗生物質前の」プラスミドはまたなんらかの薬剤耐性遺伝子を担っていることが発見された。

    なぜだろうか。

    おそらく、細菌に対するプラスミドの一つの利点は、その化学構造がたまたま人の医薬として開発された抗生物質のそれと類似している自然界の微生物学的捕食者による攻撃からの防御である。

    ペニシリン、ストレプトマイシン、セフアロスポリンのようないくつかの抗生物質はもともと自然界、すなわちカビ、土、あるいは汚水の中に発見されたので、自然の抗微生物剤としてそれらは明らかに進化した。


    そしてそれに対して、耐性遺伝子という手段によって細菌がそのうち自然の防御力を進化させた、 抗生物質以前の世界では、細菌は生き残り、増え、比較的少しの耐性遺伝子をもって地球上の生命を永遠に更新するのに際し、中心的な役割を保持することができた。

    破壊の危険性は低かった。

    しかし、人の医薬としての抗生物質の系統だった世界的な使用、また動物の集中飼育において、それは細菌に自身を防御するようにしむける大きな進化上の圧力を与えた。


    細菌は今、自然界には見いだされない化学構造をもつ合成薬に対する耐性も含み、抗生物質への耐性の複雑な置き換えと組み合わせを担っている。

    実際、細菌のプラスミドは多剤耐性をもつことを学んできた。

     一九八〇年にリチャードーノビックは次のように書いている。




     今日、一〇程度の抗生物質への耐性の遺伝子をもっているプラスミドを見つけることは珍しくはない。

    耐性遺伝子のこの蓄積という非常に驚くべき臨床上の意味は、単一の薬剤で患者を治療することが目に見えるすべてに耐性のある生物の選択を促進できるのである。




     すなわち、抗生物質を服用すれば、必ずあなたの腸管と身体のどこかにある細菌が、次々と影響を及ぼしていく薬剤耐性を引き起こすなんらかの危険を生み、将来抗生物質は効かなくなるのである。



     一九七〇年代において、感染性薬剤耐性のもう一つの謎が解明された。

    一九四〇年代から五〇年代の日本で起こったように、多剤耐性は爆発的に広がることが可能であり、実際広がるのはどのようにしてなのだろうか。

    その答は、薬剤耐性の遺伝子は、現在トランスポゾン、すなわち極微小のノミのように行動することから「飛ぶ遺伝子」として知られているプラスミドの断片に担われているということである。

    トランスポゾンは、薬剤耐性をその身にもちながら、あるプラスミドから飛び出して別のものへ入ることができ、そしてまたプラスミドがら飛び出して細菌の染色体に入り、再び戻ることもできる。

    これらの手段によって、プラスミドはどんどんその数が増える抗生物質に対する耐性を蓄積し、その後細菌種の中と細菌種間で置き換わることができる。

    たとえばそれは、バンコマイシン耐性腸内球菌のような腸球菌が、トランスポゾンという手段によって、黄色ブドウ球菌のような他の非常に致命的な種に、自身の抗生物質に対する免疫力を広めているようである。

    将来、細菌は自身が必要とするのに応じて攻撃から保護されるようになる傾向がある。

    薬剤が増えれば増えるほど、スーパーバグは増えるのである。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    ふむふむ¥¥¥  な~るほど~♪ そうだったのか・・

     

    おい、分かっているのか?

     

    あ、結局よ~~ これだよ、これ。

     

    これ?

     

    そう、これ ↓ ↓

    薬剤が増えれば増えるほど、スーパーバグは増えるのである。

     

     

     

    そしてそれから20年余り

    バクテリアが人類に勝利した日:「最終救済薬コリスチン」を含めた「すべて ...

    2015年12月7日 .

    (in deep様ブログより)

     

    バクテリアが人類に勝利した日:「最終救済薬コリスチン」を含めた「すべての抗生物質が無効」のウルトラ耐性菌が猛スピードで全世界に拡大している

     

     二十年前の警告本が実際にそうなったのである。

    そして、次の警告は

    「すべての抗生物質が効かない耐性菌が世界に蔓延する」

    そのもととなるのが

    「いっさいの警告を聞かない人間の愚かさが世界に蔓延した」からである。

    おわり

     

     

     

     


    0 0

    ごく簡単にひとことで。

    体内の浄化作用に伴い苦痛症状が起こる。

    伴うのだから、主人ではない。客である。

    ところが客のほうを主人と見紛って客を退治しようとする。

    これが苦痛緩和方法に使う薬剤である。

    すべての薬は毒であるから、毒の作用で浄化作用を止めるのである。

    その間に自分で治癒するか、ながく服毒すれば次の病気(浄化作用)が起こる。

    これが薬を飲み続ける結果である。

    長期服薬は@薬では治らない という現実を見せているのである。

    薬理学博士が「残念ながらお薬には病を治す力を持ち合わせておりません」「治るのは自分自身の治癒力なのです」と書いている本の通り。

    起こった苦痛症状そのものが体の内から起こる治療なのである。

     

    あ、一言じゃ無かったね。

     

     

    で、古くは昭和20年代ころの岡田茂吉の医学論文より

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    病気と苦痛



     人間一度病気に罹るとする。

    病気に罹ったと言う意識は苦痛である。

    言わば病気即苦痛である。

    しかし苦痛にも色々の種類がある。

    これまでの医学は病気と苦痛を同じものにみていた。

    それがため苦痛を緩和すればそれだけ病気も緩和すると思っていた。

    この考え方が根本的に間違っている。

    それを説明してみよう。

    ここで最も多い感冒を取上げてみるが、まず熱が出るとする。

    頭が痛いから氷で冷すや幾分楽にはなるが、それは病気が軽減したのではない、苦痛が軽減したのである。

    これが根本的誤謬である。

    それは病気と苦痛とは別々のものであって、実は苦痛を緩和すればする程病気は悪化するのである。

    この説を見た現代人は余りの意外に唖然とするであろう。

    しかし、これこそ絶対動かす事の出来ない真理であって、これを基本としなければ真の医学は生れないのである。

    以下解くところによって何人(なんぴと)といえども衷心(ちゅうしん)から納得して一言の否(いな)を唱うる事も不可能であろう。

    昔の人が自惚(うぬぼ)れと瘡気(かさけ)のない人はないと言ったが、誠に面白い比喩である。

    実際どんな人間でも先天的毒素を保有していないものは一人もないと言っていい、しかも毒素保有量は予想外に多いものである。

    この毒素とは薬剤の変化したもので吾らは薬毒と云う。

    この薬と毒については別の項目に詳説するが、ともかく右の保有毒素は新陳代謝の活動によって、体内の各所に集溜する。

    そうして時日の経過に従って漸次固まってしまう。

    「毒素の集溜の個所としては神経を使う局所であるから、何と云っても上半身、特に首から上である。

    」頭脳を始め、目、鼻、口、耳、咽喉部等々で、これは目の醒めている間ほとんど休む事はない。

    特に最も神経を使うところは頭脳であろう。

    従って、全身の毒素は頭脳に向って不断に集溜すべく動いており、首の周囲に最も集溜するのである。

    それは、目、鼻、口、耳などの神経も実はその根原が頭脳にあるからである。

    ほとんどの人間が首の周りにグリグリや塊りが出来たり肩が凝ったりするのは皆そのためである。

    ところが右のごとく漸次固まった毒素が頂点に達するやどうしても健康に支障を及ぼすので、これの排除作用が始まる、これを浄化作用とも言う。

    造物主は浄化作用に当って巧妙を極める。

    それはまず最初発熱する(この熱については別の項目に詳説する)。

    この熱で塊りが溶けるのである。

    すなわち溶けて液体となった毒素は、一瞬にして肺臓内に入るや、間髪を容れず咽喉を通って外部へ排泄する。

    これが喀痰である。

    喀痰を排泄するポンプ作用が咳と思えばいい。

    ただし後頭部から延髄部付近の毒素は鼻汁となって鼻口から出る。

    そのポンプ作用が嚔(くさめ)である。

    咳の後には痰が出、嚔の後には鼻汁が出るにみても明かである。

    また、首から下の毒素は液体となって排泄される、それが盗汗(ねあせ)である。

    また頭痛とは液体化した毒素がいずれかの口を求めて排泄されようとし、神経を刺戟する、それが痛みである。

    その毒素は肺臓目がけて流入し、痰となって出るのである。

    何よりも吾々が頭脳を浄霊するや、瞬時に咳と痰が出、頭痛は減るのである。

    また節々の痛みとは、人間は常に手足を屈折するので、関節へ固まり、それの浄化が痛みである。


     右のごとく、人間の病気とは、溜った汚物の掃除である事を説いたのである。

    従って、実は感冒程有難いものはない。

    という事は、病気程有難いとも言えよう。

    この理によって健康不良の原因は、汚物の溜ったためで、病気という清掃作用によって浄められ健康を回復するのである。

    従って、病気の苦痛は、有難い苦痛なので、言わば清掃作用であるから、この苦痛を手をつけずにそのままにしておけば、はなはだしい苦痛はないのである。

    ところが、医学は病気の苦痛を悪い意味に解釈し、止めようとする。

    言い換えれば、自然に出るべきものを、出さないようにするため、自然と人力との衝突が起り、苦痛が増大する。

    この自然抑圧法を治病の方法と錯覚し、進歩し来たったのが今日の医学であるから、いかに誤っていたかが知らるるであろう。

    以上のごとく、毒素が局所に固まるや、浄化作用が起ると説明したが、これには条件を必要とする。

    その条件とは、毒素を排泄する活動力、すなわち浄化力である。

    この浄化力こそある程度の健康体、すなわち新陳代謝が旺盛でなくてはならない。

    これを逆に解した医学は浄化発生を停止させようとする。

    それには新陳代謝を弱らせなければならない。

    それは健康を弱らせなければならない。

    それは健康を弱らす事である。

    その方法として唯一のものは薬剤である。

    元来薬剤とは、実を言えば毒物である。

    毒だから効くのである。

    と云うとおかしいが、毒を服(の)めば身体が弱る。

    弱っただけは浄化も弱るから、それだけは苦痛が減る。

    それを錯覚して薬で病気が治るように思ったのが既成医学であった。

    薬剤に限らず、あらゆる療法も同一で、熱があれば氷で冷し、氷で冷してせっかく溶けかかった毒素を元通り固めようとしたり、絶対安静とは運動を止めるから弱らすには何よりである。

    病人でなくとも健康体でも数ケ月も絶対安静すれば胃は弱り、食欲は減退し、手肢は使わないから痩衰え、大病人になるのは必然である。

    言わんや病人においてをやである。

    また湿布であるがこれも弱体法である。

    人体は口からの呼吸以外全身の皮膚面からも毛細管を通じて呼吸をしている。

    それを止めてしまうのである。

    何よりも湿布をすれば熱は減り、その部の苦痛は軽減するという事は湿布面だけは浄化が停止されるからである。


     以上のごとくであるから、医学が行うあらゆる方法は人体を弱らせ浄化を停止させ、以って苦痛を軽減させるだけのもので、今日に至ったのであるから、病気を治すと言う意味はいささかもないのである。

    忌憚(きたん)なくいえば、医学とは苦痛を軽減させようとして、実は病気を重くしているのである。

    すなわち精神は治そうとするが行為は治さないようにしているのである。

    嗚呼、何と怖るべき誤謬ではなかろうか。


    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    そして、現代の医学の革命の旗手 内海医師

     

    【動画】内海聡先生 心と体の健康のために したいこと/してはいけないこと

     

     

    kotaroniwaya@m2.tlp.ne.jp


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    細菌が世界を支配する [著]アン・マクズラック [訳]西田美緒子 ...

    book.asahi.com/reviews/column/2012111800002.html

     

    より

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー


      薬の歴史

    紀元前2000年   さあ、この根っこを食べなさい。
    西暦1000年  そんな根っこは野蛮だ。さあ、祈りなさい。
    西暦1850年  そんなお祈りは迷信だよ。さあ、この妙薬を飲み干してごらん。
    西暦1920年  そんな薬は当てにならないよ。さあ、この錠剤を飲みなさい。
    西暦1945年  そんな錠剤は効かない。さあ、このペニシリンを注射しよう。

    西暦1955年  おっと……バイ菌が突然変異した。さあ、このテトラサイクリンを注射しよう。
    西暦1960~1999年 さらに39回の 「おっと……」。さあ、もっと強力なこの抗生物質を 注射しよう。
    西暦2000年 バイ菌の勝ちだ! さあ、この根っこを食べなさい。
                                      作者不詳 (2000年)

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

    お釈迦様に挑んだ孫悟空

    実質的には既に負けていた(二十年前に敗北宣言を出した医学者も居たのだが)

    なにしろ、孫悟空が強くなればなるほど、相手はその上を行くというお釈迦様の手のひらのように・・

     

    人類は抗生物質で西洋医学全盛時代を迎えた。。。

    思っていたら。。。

    最後にどんでん返しが待っていた。

    その予告のような話だが、この話はちょっと早すぎたようだ。

    西暦2000年は過ぎ去った。

    しかし、それがもう起こらないか・と言うと、これから起こることに違いない。

    抗生物質万能時代===医薬品\(-o-)/ヽ(^。^)丿・・・

    落ち込み(T_T)(>_<) m(_ _)m細菌様にはもう参りました。

     

    孫悟空(抗生物質)よ、やれるまでやってごらん♪ お釈迦様(細菌)

     

     

     

    細菌はこうして超耐性を身につける

    驚くべき自然の能力に人間の脳力はいつも負けに

    むしろ、抗生物質は細菌にとって強くなるチャンスなのだ!!

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

     DNAを共有する細菌

     遺伝子導入によって、細菌は別の微生物から有用な遺伝子を受けとることができる。


    真核生物の場合、藻類から人間にいたるすべての生きもので、遺伝子の導入は配偶子の融合というたったひとつの仕組みだけで起こる。


    ォスとメスの1個ずつの配偶子が受精卵(接合子)を作り、そこに両親から受けついだDNAが入る。


    ところが細菌と古細菌は、おもに3つの方法で遺伝子をやりとりすることができる。


    形質転換、形質導入、接合だ。


    これらはすべて、娘細胞を生みだすことによって実現する標準的な遺伝子の共有ではなく、ふたつ以上の成熱した細胞のあいだで起こるので、遺伝子の水平伝播と呼ばれている。

     形質転換は、細菌がDNAを周囲の環境から直接取りこむときに起こる。


    核様体またはプラスミドのどちらかに入っていたDNA分子が利用される。


    どちらの場合も、別の細胞が死んで溶け、水生環境で分解されたDNAだ。


    生きた細菌細胞が生息環境でそうしたDNAを見付けると、その高分子化合物にくっつき、酵素を利用してほどきにかかる。


    DNAは、はしごに似た二重らせんの構造をしている。


    そこで酵素ははしごの横棒をつぎつぎに切って、DNAを1本ずつに分ける。


    1本はそのまま分解してしまうが、細胞は残りの1本を内部に取りいれ、そこで自分のDNAに組みこむ。


     形質導入は、バクテリオファージが細菌細胞に感染して、別の微生物のDNAを持ちこむことで起こる。


    ファージが細胞のDNA複製手段を乗っとっても、その細菌を殺さなければ、細菌細胞は一部に異なるDNAをもつ新しい子孫を作ることになる。


    それまで自然界にはなかった、まったく新しい細菌が、増殖をはじめる。


     細胞間のプラスミドの移動は、接合によって起こる。


    接合は、ふたつの細胞が性線毛と呼ばれる管によって物理的に結びつくため、細菌版の有性生殖とも言われてきた。


    一方の細胞からもう一方の細胞に性線毛を伝わってDNAが移動したあと、性線毛は切れる。


    接合の結果、受容側の細胞は新しい遺伝子を既存のDNAに組みこむ。


    その細胞が分裂すれば、娘細胞およびその後の世代はこれらの遺伝子をもつことになる。


     細菌で起こる遺伝子導入は、抗生物質耐性遺伝子を細菌集団のあいだで伝えられるという点で、最も深刻な影響をおよぼす。


    ここで説明してきたDNAをやりとりする3つの方法のどれかひとつを使えるかぎり、細菌どうLが近縁である必要はない。


    プラスミドは抗生物質への耐性に利用される遺伝子を複数もつことがわかっているので、これまでの数十年間で抗生物質耐性が拡大した最大のルートは、プラスミドの移動だろうと考えられる。


    細菌における遺伝子導入の進化について、生物学はまだ
    すべての疑問を解明できていないが、これらのシステムが細菌にもたらす利点に疑問の余地はない。


                                                                                                                            
     細菌はチャンスを見逃さない

     抗生物質耐性菌による感染が最も多く発生するのは病院だ。


    病院では抗年物質がたくさん使われるうえ、集まる患者は病気、外傷、手術によって弱っているから、細菌感染に絶好の機会を与える。



    病院や医療機関内で新たな細菌などに感染することを、「院内感染」と呼ぶ。



    異なる患者に接する前に正しく手を洗わない医師、看護師、技師など、病院職員からの感染も多い。


    病院の職員をだまって観察してみたところ、正しい手洗いを励行している医療専門家は、一般の人たちよりわずかに多いだけという結果が出た。


    一般で正しく手を洗っている人は、全体の半分にも満たない。


    しかも医療専門家のお粗末な手洗い(洗う時間が短い、使う石鹸が少ない、石鹸を使わない、またはまったく手を洗わない) の大半は、一般の人たちが利用するトイレでのことだった!

     現在ではほとんどの病院で、ほかのどの場所より多くの細菌が見つかり、それらの院内細菌では多剤耐性の発生率が高い。



    細菌はすべて危険だと人々が信じるのも無理はないが、そのような考え方が、抗生物質の乱用だけでなく、同じように殺菌剤など抗菌製品の使いすぎも招いてきた。



     医学生物学者のスチュアート・レヴィは、殺菌剤で熱心に掃除しすぎれば、細菌が耐性を発達させるチャンスを増やすだけだと警告してきた。



    殺菌剤や抗生物質に耐性をもつスーパー細菌は、遺伝子をやりとりすることによって、最高の防衛策を共有してきたのだろうか?

     洗浄・漂白用製品(漂白剤、第四級アンモニウム化合物) に含まれている化学物質は、抗生物質の共有はあり得ないように思える。


    それでも、細菌がこれらの化学物質を排出する方法は、抗生物質を追いだす場合とほとんど同じで、使うのはポンプのような仕組みだ。


    「ポンプ」という言葉は誤解を招くかもしれない。



    細菌の抗生物質汲みだしポンプは細胞内にあるトランスポーター(輸送体) を利用している。


    細菌の外側の膜にある受容体の細孔を通って抗生物質が細胞内に入ると、トランスポーターがそれに気づいて抗生物質に近づき、つかまえてしまう。



    こうして抗生物質によって変化したトランスポーターを、細菌のタンパク質(膜融合タンパク質と呼ばれるもの) が見つけ、その複合体を大急ぎで別の細孔から外に運びだす。



    細菌は、トランスポーターと膜融合タンパク質を作るのに必要な栄養分を確保できるかぎり、抗生物質を追いだしてそれに対抗できる。



    このシステムが正しく働くためには、トランスポーターが抗生物質の全体または一部に気づかなければならないので、化学者たちは気づかれないような独特の抗生物質を生みだそうとしているし、生物学者は抗生物質の汲みだしポンプの仕組みを台無しにしてしまう、新しい天然物質を探している。



    もし、化学物質の排出ポンプと抗生物質の排出ポンプがまったく同一のものなら、超スーパー細菌があらわれて、抗生物質だけでなく殺菌剤にも耐性を示す日は近いだろう。



    完璧な耐性か、完璧な薬か ー この競争でどちらが勝つかは、まだだれにもわからない。



     たしかに抗生物質耐性の発達は、これまでいつも宿主と仲良く暮らしてきた細菌を変えてしまった。



    からだに住みついた善玉菌が感染症を起こすのは、環境が変化して、感染しやすくなったときだ。


    その場合の環境は、ふつう免疫力が弱ったり未成熟だったりすることに関係し、おもに次のような要因をもつ 「ハイリスク群」とされる人々で起こる。



    からだを衰弱させる慢性病
    薬物やアルコールの依存症
    栄養不足
    妊娠
    老齢
    幼齢(乳幼児と12歳未満の子ども)
    HIV/AIDS
    臓器移植
    癌の化学療法や放射線療法


     ここにあげたストレス要因はどれも、抗生物質耐性菌が感染症を引きおこし、それに対して抗生物質が投与され、それがさらに耐性を強めるという、危険な循環を増幅する。


    ごく一般的にからだについている細菌のひとつ、黄色ブドウ球菌は、すでに有l数の多剤耐性菌として知られるようになった。


    黄色ブドウ球菌は健康リスクであると同時にからだの常在菌でもあるのだから、数々の選択肢のなかから抗生物質や殺菌剤などの武器を選ぶよりも、ひとりひとりがよい衛生状態を保つほうが効果的だ(図3・2)。


    物質はもうすべて見つかってしまった」から、天然または合成の新薬を生みだす研究は難しくなり、かかる費用も増えている。


    かつて抗生物質の生産でトップに立っていた会社も、今では新しい抗生物質の研究費を減らしてしまった。


    天井知らずの研究費と、認められるまでに時間がかかりすぎて新薬から十分な利益を見込めない特許の仕組みのせいで、医師が感染症への対応に繰りだせる道具の範囲は狭まるばかりだ。



     起業家たちはこれまでに、コロイド銀、鋼、亜鉛、マグネシウム、薬草(クローブ、ェキナシア、 ノ用ガーリック、ォレガノ、ターメリック、タイム)、柑橘油、ティーッリーオイル・エキス、グレープフルーツシード・エキスを試してきた。


    これらのほとんどを実験室の培養物で検査してみたが、どれにもたしかに抗菌作用がある。



    だが、実験室で細菌の増殖を抑えるのは、自然界や体内にいる細菌の力を抑えるより、はるかに簡単なのだ。


    抗生物質は急速に増殖している細胞に一番よく効くから、実験室の細菌は、最も影響を受けやすい状態になっている。



    自然界なら、細菌は防衛機能のスイッチを入れ、増殖の速度をゆるめる。


    そのどちらも、抗菌剤のもつ働きの一部を無効にしてしまう。



     新しい世代の抗生物質はまだ登場していない。


    もしあらわれるとするなら、たぶん海からやってくるだろう。


    科学者たちはこれまでの10年間に、だれも見たことがなかった抗生物質を生みだす海洋細菌、藻類、カイメン、サンゴ、微小な無脊椎動物を探しだした。


    新たな海洋性の抗生物質が、ブドウ球菌感染症、淋病、連鎖球菌、結核、院内感染との戦いに負けつづけている現在の抗生物質にとって
    かわる日は、近いかもしれない。




    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    最後の方の記事

    新たな抗生物質が見つかるかのような希望的観測が書かれていますが、、

    果たしてそうなるか?

    お釈迦様のてのひら(細菌)を超える事ができるのか孫悟空(抗生物質)よ

     

     

     

     

     


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    これから再掲が続きます。

    内容については、各自の自由洗濯です。ジャブジャブジャーブジャブ♪

     

    ※なお、本書の内容は私の心情とか信条とか、普段の生活とかに一切関係しておりません。カンチガイしないようにお願い致します。

     

    松本英聖著 21世紀の医学革命へ 

    発行年月:1995.5 出版社:技術出版

    より

     

    二十一世紀医学革命へ
     松本 英聖 医事論集 第三巻

    第一章 “病なき世界”をめざす世界戦略
    第二章 揺らぎ出した医学神話
    第三章 医学の正統性をめぐる東西の激突
    第四章 「善意」の現代医学が生んだ悲劇
    第五章 西欧肉食文明の没落
    第六章 自然医学に近づく世界の流れ
    第七章 ついに来た不治の病=エイズ
    第八章 スペイン風邪大量死時代
    第九章 早老・早死時代の到来
    第十章 非行・犯罪の多発する世紀末時代
    第十一章 精神も狂わす蛋白質(肉食)


    第十四章 南北経済格差と環境破壊

    アーユルヴェーダ入門

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーー
    12P
        第二章、揺らぎ出した医学神話
          「病気治し」から「健康づくり」ヘーー


        飢えと飽食の狭間で悲惨な大惨禍

     国連WHOが大目標として掲げた。

    病なきせ界&Prime;を実現しようとする場合、最も重要な課題は、いま地球上には相反する原因からくる二つの健康問題が存在し、この両者を一緒に解決しなければならないという難題をかかえていることである。


     一つは貧しい途上国を脅かしている。

    飢え&Prime;(栄養失調)による大惨禍。

    他の一つは豊かな先進国を悩ましている。

    飽食&Prime;(栄養過剰)が招いた文明病という名の死病。

    一方は食の量的欠乏であり、しかも自ら求めずして巻き込まれた、あまりにも悲惨な苦しみ。

    これに対して、一方はあり余る物ゆえに自らはまりこんだ、笑うに笑えない悲喜劇。


     いずれも極端な。

    食の片寄り&Prime;から引き起こされた悩みであるが、前者は世界人口(五十七億)の約八割
     (四十六億)を占め、その中の約半数近くが栄養失調で苦しみ、さらに五億人もの子供たちが飢えに泣き、死線をさまようという地獄絵が繰り広げられているのだ。


     こうした惨状を見るとき、ややもすると議論が政治経済問題(南北経済格差)にスリ変わって、国連スローガンは途上国向けの緊急対策であり、先進諸国ではとうの昔に解決済みの問題として受け取られやすく、識者の中でさえこうした誤った受け取り方をする向きが少なくない。


     だが、こうした考え方をする背景には、ある重大な思い上がりI現代医学だけを唯一絶対と過信する優越感と途上国民を蔑視する偏見――、が知らず知らずに培われていることを指摘しておかねばなるまい。


     と言うのは、途上国での飢えの問題は確かに量的、経済的に解決しうる問題ではある。

    しかし、それはあくまでも緊急避難的な対策、それですべての健康問題が解決するわけではないからだ。

    いま人類にとって最も重要な課題は、先進諸国を支配している現代医療そのものを厳しく問い直し、文明病対策を根本から見直すこと。

    この厳しい医学批判の上に初めて。

    病なき世界&Prime;を実現し得る正しい。

    健康づくり。

    の道が開かれるのである。

    はっきり言えば、いまの医学の延長線上には人類の未来はない、ということである。


     実はこうした現代医学についての認識の違いが、アルマ・アタ宣言の合意に至る過程で、旧ソ連と中国を両極とする南北(途上国と先進国)間の激しい対立として浮き彫リになるのだ。

    この模様は別章で紹介することにして、ここでは現代医学の功罪とその矛盾点について取り上げておこう。




    13P
        伝染病の成果で現代医学を救世主視

     そもそも国連WHOは、第二次大戦直後の荒廃した世相と極度の食糧難の中で蔓延した伝染病対策を主任務とする国際機関として。

    戦勝国によって設置された。


     当時の社会では伝染病が人類の生存を脅かす敵として最も恐れられ、伝染病を撲滅すれば人類社会から病気はなくなるという安易な考え方が支配的であり、世間も為政者もそう信じ込んでいた。


     それと言うのも、ヨーロッパでは、歴史上幾度となく襲いかかったペスト禍をはじめ、さまざまな疫病によって、何千万人という生命が奪われた。

    この忌まわしい記憶が世代を越えて人々の潜在意識に刻み込まれ、その対策が敗戦国・戦勝国を問わず二十世紀前半の医学に課せられた至上命令であったからだ。


     この悲願に応えて登場したのが近代医学である。

    パスツールやコッホらによって導かれた細菌病理観に基づいて、DDTなどの強力な消毒剤、予防注射やワクチン、さらにフレミングによって発見された抗生物質など史上最強の細菌攻撃手段で完全武装し、伝染病への戦いを挑んだ。


     その威力と戦果は目を見張るものがあり、いち早くその恩恵に浴した文明社会では、伝染病をはじめ結核・ライなどの感染症が次々と制圧されて姿を消していった。


     一方この間、先進国経済は高度に成長し、国民生活が豊かになると共に。

    ホイトやルプナーらによって確立されたミクロ栄養観(現代栄養学)に導かれて、先進諸国民の食事内容が大きく変化した。

    その結果、脚気、壊血病、クル病などの栄養障害が激減すると共に、日本では青少年の体位が向上し、著しく大型化した。


     そして、これら一連の成果によって乳幼児死亡(とくに新生児)が激減した結果、文明諸国の平均寿命は大幅に延びた。


     こうした現代医学の目覚ましい成果を目の当たりにすれば、誰しも現代医学を万能と信じ込み、救世主のように崇め奉ったとしても決して不思議ではなく、むしろ当然のことと言えるだろう。


     しかしこうした華々しい成果の陰で、医学にまつわるさまざまな矛盾が潜んでいた。

    しかし表面上のきらびやかさに幻惑された人々の目には、。

    アバタもエクボ&Prime;で、やがて医薬不信時代が到来するであろうなど、夢想だにできなかった。


     しかし二十世紀後半になると、医学の矛盾が表面化し、医薬不信の声が大きく高まってきたが、今なお過去の栄光にしがみつき、医薬の進歩に一縷の望みをかけているのが現状。


     ここに、現代医学思想の混迷とそれがもたらす悲劇性を読みとらねばなるまい。





    5p
        内実は空虚で無力な現代医学

     いま文明社会では古典的伝染病は過去の語り草、これで死ぬことはまずなくなった。

    また外科手術が発達したお陰で、昔は助からなかった大ケガでも、手当て次第で助かる可能性が大幅に広がってきた。


     だが、こうした事実だけを見て医学の勝利と手放しで喜ぶことができるのだろうか。


     今や、クスリと菌(耐性菌)のイタチゴッコが始まり、MRSAによる院内感染症を始め、真菌症(カンジダなど)、常在菌(大腸菌など)による感染症(膀胱炎など)などが大きな問題となってきた。


     またウイルスには抗生物質が役立たず、風邪さえ治せないばかりか、ついにはエイズという前代未聞の感
    染症をはじめ、昨今ではプロウイルスや、致死率九〇%以上と言われるエボラウイルスなど正体不明のウイルスまで出現、世界中が恐怖のどん底に叩きのめされる始末。


     それだけではない。

    栄養改善で青少年の体位が見違えるように向上したと自慢しても、体質や免疫力が低下し、アレルギーをはじめ若年性老化現象や慢性病が増え続けているが、いまなお有効な手だては何ひとつない。

    この現状をどう見るか、少なくとも体位向上と体質低下には相反性があると考えねばなるまい。


     とすれば、このことを予見しえなかった現代医学には何か根本的な欠陥があるはず。

    この点を曖昧にして 「科学未だし」などとゴマかすことは犯罪行為にも等しい罪悪と言わざるを得ない。


     こうした行き先不透明な中で、二十一世紀を迎えようとする文明社会の行く手に、一体どのような病気が待ち受けているのだろうか。


     また平均寿命が伸びたといっても、その反面、巷には成人病という名の死病(ガン・心臓病・脳卒中など)が若年層まで巻き込んで激増し、病人は減るどころか益々増える一方。

    とくに昨今ではボケ老人や寝たきり老人の問題が大きな社会問題となり、その悲惨な状況がテレビドラマのテーマとなる時代。

    一体、何のための長生きか、人間の尊厳死も含めて、自分自身の人生観が厳しく問われる時代となっている。


     いまや長寿問題は。

    生命の質&Prime;(クオリティーオブライフ)という価値観の転換(パラダイムシフト)なしには語れない時代となった。

    端的に言えば、植物状態で延命することが、果たして意味があるのかという問題である。


     それはともかく、こうした世相の中で昔はなかった新しい難病奇病が続出、挙げ句の果てに医療そのもの
    が原因となって起こる医原病や、忌まわしい薬禍問題が噴出して、医療に対する不信と不安が不気味な広がりを見せてきた。




    17P
        予想されうる。

    難病奇病の地獄絵」

     十年ひと昔と言うが、〝病なき世界&Prime;の実現をめざすアルマ・アタ宣言が採択されてから、すでに十七年が過ぎた。


     この間、日本ではガン死が死因の第一位となり、心臓病死が脳卒中を抜いて第二位に躍り出た。


     そして西暦二千年にはガン患者が現在の二倍に増え、とくに重要なことは、この先十年間に乳ガン、大腸ガンが急カーブを描いて激増することが確実視されていることだ(図参照)。


     こうしたガン急増の中で二十一世紀を迎えるわけだが、その先どのような病気が出現するのだろうか。

    現在までのデータから弾き出された予測によると、次の五大病がワーストーファイプとしてランクされている。


    ①心臓・血管病心臓病・脳卒中など。


    ②ガン  胃ガンは減るが乳ガン・大腸ガン・肺ガンが激増する。


    ③免疫病免疫過敏症(アレルギー性疾患)
               自己免疫病(胃潰瘍・リウマチなど)
               免疫不全症(エイズなど)
    ④精神病痴呆症・うつ病・心身症・ノイローゼなど。


    ⑤先天奇形外形上の奇形のほかに代謝異常(フェニルケトン症など)が激増する。



     いずれ劣らぬ業病である。

    ①~②にっいては当然予測できるから余り驚かないが、③~⑤にっいては全く予想外であり、しかもいまの医学では有効な対策はなく、全くのお手上げというのが実情。

    このまま行けば二十一世紀の文明社会は。

    病なき世界&Prime;どころか。

    難病奇病が渦巻く地獄世界&Prime;となることは間違いない。


     そこで問題は、こうした最悪の事態を避けるにはどうすればよいか、ということである。


     この対策として掲げられたのがアルマ。

    アタ宣言であり、その基本戦略の考え方は、すでに述べたように 。

    病気治し&Prime;から。

    健康づくリ&Prime;(プライマリー・ヘルスーケアこへと医学の方向転換を急ぐこと。



    医薬に頼らず、自分の健康は自分で守る!&Prime;ということである。




    18P
        教え込まれた医者・クスリヘの信仰

     いま先進国、とりわけ日本人は、病気を治してくれるのは医者とクスリであると固く信じている。

    であるから、少し体の体調が悪いとすぐ医者に診てもらえ、早期発見・早期治療が最善の道で、放っておくと取り返しがつかなくなるI-、そう考えることが常識であり、子供のときから家庭でも学校でもそう教えられ、そう信じ込まされてきた。


     だから、〝三つ子の魂、百まで&Prime;で大人になってもこの常識が邪魔して、まさかそれがウソであり、まやかしであるなどとは夢にも考えてみない。

    そこで、たまたまそういう常識外れのことを言う人があれば、寄ってたかってバカにし、迷信視してしまうのがオチ。

    ともかく偽物を本物と信じ、本物を偽物と思い込んでいるわけだから始末に悪い。


     それでも病人が減リ、みんなが健康になれるなら問題はないが、事実はその逆。

    医薬に頼るほど病人は増え、いまでは一億総半病人などと言われる時代を出現した。


     その結果どうなったのか。

    医療に支払う費用がべらぼうに膨れ上がって、このままでは国の財布がパンクしそうになってきた。

    病気と医療費の堂々めぐりである。


      「稼ぐに追いつく貧乏なし」、昔は貧乏と言えば、病気が最大の原因だった。

    このことは昔も今も変わりはない。

    ただ昔は個人にすべてしわ寄せがきたが、いまや医療費負担で国の経済が圧迫され始めている。

    経済大国ニッポンなどと安心してはいられないのだ。




    19P
        経済全体を蝕む医療費の急増

     ここで、日本の医療費の推移を見ておこう。


     わが国の医療費は昭和四十年に初めて一兆円の大台に乗ったが、その後が大変。

    毎年急上昇を続けて平成六年現在、二四兆円(一人当たり二十万円)。

    実に三十年間で二十四倍も膨らみ、二十一世紀初頭には少なく見積もっても四十兆円を軽くオーバーする。

    まさに天文学的な数字である。


      「生命あってのもの種」と言うが、それは「健康で」という条件つきの話。

    病人が巷にあふれ、その上に寝たきりとボケ老人がひしめくとしたら、どうなるであろうか。


     まさに生ける屍の群であり、それを補う医療費の帳尻は?考えるだけでもそら恐ろしくなるが、世界一の長寿大国となったいま、これが日本民族が確実に歩まねばならない現実の道である。


      「医学が発達したいま、それまでには、なんとかなるさ!」 大方の人はそう考えるだろう。

    筆者もそう考えたいし、またそうあって欲しい。


     だが、この考え方はあまりに現実を無視した希望的観測に過ぎない。


     なぜならば、杖とも柱とも頼む現代医療そのものが白アリのように経済全体を蝕む元凶となっているからだ。


      「生命は惜いし、金はなしーー-」 いずれにしても、絶体絶命のときは目前に迫っている。




    20P
       悪循環の根本原因は医薬への盲信

     そもそもこうした悪循環を招いた根本原因は、再三述べているように、「病気は医薬で治すもの」と決めてかかり、医薬が進歩すれば病気はなくなると信じ込んでいたことである。

    そうでなければ、誰が文句も言わず黙って医療に大金を払うであろうか。


     しかし、よく考えてみれば、医薬信仰というのは、消防署を増やせば火事はなくなると言う考え方と同じであることに気づくであろう。


     病気(火事)が増えるのは医薬(消防署)が不足しているためではなく、全く別の要因によるのだから、その要因を取り除くことが先決である。

    それをないがしろにして、医療にどんなに大金を投じても、病人は増えこそすれ絶対に減ることはあり得ない。


     この自明の理に気づかなかったことは、実に不可思議手万な話。

    これも現代医学の華々しい成果に幻惑されて、すっかり騙されていた、としか言いようがあるまい。


     高性能の消防車の威力に見取れて、この車さえ買い込めば火事はなくなると早とちりしたということか。

    それにしては余りにバカげた話である。


     しかし、国連WHOはようやくこのことに気づいた。

    そして思い切った発想の転換--と言っても本来の正しい考え方に戻っただけの話であるがI-によって、これまで支配的であった医療に頼る考え方を清算して、新しい健康づくりの政策を掲げて出直した。

    それがアルマ・アタ宣言であり、その具体的政策がプライマリー・ヘルス・ケアである。


    ではプライマリー・ヘルスーケアとは何か、その概要を紹介しよう。




    22P
         三条件を規定したプライマリー・ヘルスーケア

     まず第一は、この政策がプライマリー(一次)と呼ばれるように、二次、三次のヘルスーケアが当然である。

    セコンダリ(二次)ケアは予防医学であり、サードリ(三次)ケアは現在の医療技術で、その最終的医療がターミナルケア(終末医療)--、言わば葬式医療である。


     以上をひっくるめて現代医学の全容を紹介するとi-、一、基礎医学  人体の構造、機能等に関する研究分野(解剖学・生理学・病理学・生化学・薬理学など)二、実践医学 
    1、サードリ・ヘルスーケア(臨床医学)   病気の診断・治療・予防・リ(ビリなど。


     
    2、セコンダリーヘルスーケア(予防医学)   環境衛生・公衆衛生・栄養科学など。


     
    3、プライマリー・ヘルスーケア(健康づくり)

     次に、国連の政策として採用されたプライマリー・ヘルスーケアの定義は、アルマ・アタ宣言第六条において、次の三条件を満たすよう明確に規定している。


    一、健康づくりの『方法と技術』 
     ①科学的合理性
     ②実用性(簡単でどこでもすぐできること)
     ③機会均等性(誰でもが等しくできること)  
     ④社会性(住民の伝統や風俗習慣との間で抵抗なく受け入れられるものであること)
    二、自助・自決の精神  各国の政府手算の範囲で費用負担ができること。

    三、住民参加の原則  政策決定は、住民の参加を通して行なうこと。




    23P
          問題がある科学的合理性の内容

     以上が国連のプライマリー・ヘルスーケアの概要である。

    きわめて妥当な見解であるが、一つだけ気になる点は、健康づくりの『方法と技術』のところで述べられている「科学的合理性」とはどのような判定基準をもって評価するのか、という疑問である。

    日本を含めて先進諸国では、その評価基準は現代医学であると即座に答えるであろう。

    現代医学=科学的合理性と確信しているからである。


     だが果たして、そう言い切れるのであろうか。

    世界には数手年の歴史をもつ民族固有の伝承医学があるのだ。

    実はこの認識の違いが、後で述べる旧ソ連と中国の大論争となるのだが、ここでは別の観点--現代医学を支えている生命観(生命科学)と、その思想的背景から問題を提起してみよう。


     

         マクロの視点でとらえるニューサイエンス
     今日、生命科学と言えば、誰しも思い浮かべるのは、いま最先端科学として脚光を浴びている分子生物学やバイオテクノロジーであろう。

    しかし生命科学には相反する二つの研究方向--ミクロ生命科学とマクロ生命科学とがあることを知っている人は少ない。


     前者は生命現象を顕微鏡的なミクロの次元に細分化して研究する方向(分子生物学や遺伝子工学など)であるが、最近ではこのような研究態度を要素還元主義と呼んでいる。

    現代医学はまさしく要素還元主義に立つ医学である。

    即ち一九世紀にウィルヒョウが確立した細胞概念(細胞病理観)、パスツール、コッホが確立した細菌病理観、そして一九三〇年代にトーン、カニンガム、ジョルダンらの実験によって導かれた造血概念(骨髄造血説)を土台として構築された医学である。


     その後二十世紀後半になって分子生物学が登場し、かつてウィルヒョウが唱えた有名な細胞概念《細胞は細胞から生じる》は、ワトソン、クリックが唱えたセントラルードグマ《遺伝子は遺伝子から生じる》に置き換えられたが、その根底に流れる生命観《親のコピーが子に伝えられる》は少しも変わることなく連綿として受け継がれているのだ。


     これに対して後者は、生命現象を宇宙的なマクロの視点から歴史的(時間系)・生態学的(空間系)な立場から統一的・立体的に把握しようとする研究方向。

    最近話題を呼んでいるニューサイエンスの立場である。

    ケストラーのホロニズム、カプラのタオイズム、ラヴロックのガイア仮説などがこれで、機械論的な要素還元主義に真っ向から対立する東洋的な生命観と言えよう。


     ニューサイエンスについては後で述べるが、とにかく。

    身上不二・心身一如&Prime;。

    色即是空・空即是色&Prime;。

    一即多・多即一&Prime;など東洋古来の哲理をふまえた最新の知見である。

    自然医学はこうしたニューサイエンスに立つ医学であるが、とくに重要なことは、新しい血液概念(血球→↑体細胞)と造血概念《消化管造血説》 (食は血となリ肉となる)を提唱して現代医学を根底から揺るがし、医学のパラダイムシフトを迫っていることだ。


     これらについては逐次解説するので、ここでは触れないが、現代医学とはおよそ正反対の生命観に立った新しい医学(自然医学)が極東日本の一角から産声を上げ、二十一世紀に向けて羽ばたこうとしていることだけは知っておいて頂きたい。


      


        マクロ(自然医学)で。

    病なき世界”が実現
     かつてギリシャの哲人プロタゴラスは、有名な人間尺度説を唱えて認識の相対性を主張した。

    物差しを変えれば評価も自ずと変わるということである。

    生命科学の分野でもミクロとマクロの物差しでは、ものの見方、考え方が一八〇度も違うから、当然導かれる生命観や健康観も大きく変わってくることは容易に想像で

    きるであろう。

    要はどちらの物差しがよリ正しく自然(生命現象)を反映し得るかということ。

    医学においては、どちらが人間の健康と幸せに役立つか、ということである。


     そこで国連の規定に従って、プライマリー・ヘルスーケアの『方法と技術』を吟味する場合も、まずその判定基準となる科学(医学)そのものを検討しておく必要があろう。

    つまリミクロ(現代医学)の物差しか、マクロ(自然医学)の物差しか、ということである。

    そのどちらを選ぶかによって人類の命運は決まるといっても差し支えあるまい。


     結論だけ先にに言わせてもらえば、科学的合理性をもった健康づくりの『方法と技術』を確立するためには、まず、いまの医学を支配しているミクロの既成概念(細胞概念と造血概念)から脱却すること、そして新しいマクロ科学(自然医学)の生命観(健康観)に基づいて医学のパラダイムシフトを図ることI-、が先決であり、その上に初めて。

    病なき世界&Prime;の実現が約束されるということである。


     しかしながら、医学のパラダイムシフトが遅れれば遅れるほど、より、多くの尊い生命がガンその他の業病で倒れることになろう。

    しかし、その惨禍の中で医学のパラダイムシフトが進行するであろうことは過去の歴史が示している。


     であるとすれば、いま我々が選択すべき道は、各自が医薬に頼らず、いますぐ食事を正すことである。

    さすれば、大自然の恵みを受けて体内の自然が甦り、心身ともに健康になれるだけでなく、運命さえも好転して幸せな人生を送ることができる。

    これが自然(神)の定めた掟(天寿への道)であり、人間本来のあり方と確信するからである。


    26p

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     


     

     


    0 0

    地震について

    表層的ななぐさめは言いませんし、自分自身がそういう身内の体験をして感じるからです。

    それはどうしても、感情がわいてきて・・・これを理性で制御するのはむずかしい。

    普段から知っていてもです。

    しかし、知らないとまったく感情だけに支配されることが多いので知っているだけでも・・

    もちろん、すぐ信じられないでしょうし、僕自身も知ってはいるがいざとなると・・・の類です。

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

    http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/99_blank006174.html

    永遠なる存在

     人間は物質ではありません。
     人間は肉体ではありません。
     人間は永遠不滅の霊的存在です。

    このことは何度繰り返しても十分とはいえないほど重要なことです。このことをあなたの頭と心に叩き込むために、本書が提示する新しい世界像を使ってくださ い。これから人間が霊性回復の旅を進んで行くためには、意識の中心を肉体から霊性へとシフト(移動)することが必要です。そのために新しい世界像を利用し てください。どんな世界像も、それ自体は単なる比喩に過ぎませんが、それが霊性の回復に役に立つか立たないかが重要なのです。

    これまで私たちが持っていた大広間型世界像では、人間は物質宇宙の中に存在していると考えていました。このため人間は肉体であると考えるのが自然であり、 事実私たち大部分のふつうの人間は自分を肉体であると考えてきました。多くの宗教が「人間は肉体ではない」とか「永遠の生命」などということを教えはしま すが、それは大広間型世界像のどこにも入り込む余地がありませんでした。そのために、私たちは死後の世界という別の世界があるとかないとかいうことを議論 するようになりました。生前によいことをしておけば、死んでから極楽にいけるとか、死んでから永遠の生命をもらえる、というようなことを考えるようになり ました。けれども人間が死ぬことはありません。人間は現在すでに永遠の存在なのであり、生まれることもなく滅することもない存在なのです。

    新しい世界像の特徴は、世界像の中に明確に神の存在場所を位置付けたことです。これまで人間が持っていた大広間型世界像の中には、神の居場所はありません でした。けれども新しい世界像は、まず存在するものは神であり、その神の意識の中に人間が存在し、その人間の意識の中に仮想世界として物質宇宙が存在する という階層構造を明確に示しています。新しい世界像はすべての宗教に明確な根拠を与えます。

    人間は神によって生み出され、神の意識の中に存在する「体験者」です。神の意識の中にある無限の認識のプロセスそのものが人間です。人間の作家がさまざま なテーマを文章に描くことによってそこに疑似体験の世界をつくり出すように、霊的存在である人間は自分の意識の中にさまざまなテーマの具体的姿を描き出 し、それを仮想体験スクリーンに映し出し、スクリーンの中に形成した肉体を通じて自ら体験するのです。それは神自身が役者であって、男になったり女になっ たりして、人間を演じているようなものです。役者が聖者の人生を演じようと、人殺しの人生を演じようと、役者が聖者になったり、人殺しになったりするわけ ではありません。役者は役者です。

    神の意識の中に存在するものはすべて実在であり永遠です。そこには時間も空間もなく、生も死もありません。人間も、神によって生み出され、神の意識の中に 存在するものとして、時間を超越しています。けれども、その永遠なる存在である人間が、物質宇宙という仮想世界の中で時間空間を体験し、生や死を体験する のです。新しい世界像は、人間を仮想現実である肉体から引き離し、神の意識という実在の中に置いたことで、人間の永遠性を明確に示しています。

    人間が永遠なる存在であることを日常的に意識してください。もし道でだれかに出会ったら、その人の背後に崇高なる霊的存在があることを感じてください。眼 に見える肉体の姿は、その霊的存在が地球世界ゲームのために送り込んだ仮想のキャラクターなのです。自分自身の肉体も仮想のキャラクターであると感じてく ださい。仮想のキャラクター同士が道で出会って挨拶を交わします。あなたは自分のキャラクターにどんな挨拶をさせたいですか。相手のキャラクターはどんな 挨拶を返すでしょうか。相手のキャラクターがどんなに立派な身なりをしていようとも、どんなにみすぼらしい姿をしていようとも、その背後にいるのは永遠不 滅の光り輝く霊的存在なのです。そのことを見抜いてください。

    いま地球にきている私たちは、みんな霊性回復ゲームの中間目標を達成したものたちばかりです。みんな自分の本質を忘れています。けれども、いくら忘れても 本質が失われるわけではありません。私たちはそれを思い出す途上にあります。それを思い出せば再び私たちは霊的存在としてのすべての力を取り戻すでしょ う。それは失われていたのではありません。いつも持ち続けていたのですが、忘れていたので使わなかっただけなのです。

    想のキャラクターである肉体人間の見せ掛けの姿にだまされないで、お互いに霊的存在を見つめあってください。自分も霊的存在として考え、霊的存在として感 じ、霊的存在として肉体に行動させることを決めてください。そうすれば互いに助け合いつつ、霊性回復の道を確実に歩むことができるでしょう。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

     

     

    全文を読むといいのでしょうが・・ とりあえず人の死を考えるとき

     

    前文は↓

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

    魂のインターネット(G) まえがき 第1部 魂のインターネット 第2部 人間とは何か 第3部 霊性回復への旅 第4部 補足 あとがき 謝辞 推薦図書  

     

     

     


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    聞いては居るけど、腑に落ちないんだなあ・・・これが。

     

    「ようこそ、この下らない《素晴らしい世界》へ♪」

    缶コーヒーのCMじゃないですが、人生は登坂ばかりならよいのですが(もしそうなら、面白くも何ともないじゃないか!!)

    下り坂もあり、突然の想定外の魔坂もありますね。

    自分自身はもちろん、むしろ大切な身内や友人などを失うということも。

    そんな時、これを読んで納得しようとしましたが、なかなか・・・

    感情が・・・・

    それでも一度知ったらいつか腑に落ちることが起こるのでしょうか・・・?

    魂のインターネット(G) まえがき 第1部 魂のインターネット 大広間型世界像 インターネット型世界像 インターネット型世界像の特徴 仮想社会ゲーム 宇宙の意識 地球という世界 霊性の回復 究極のゲーム 第2部 人間とは何か 第3部 霊性回復への旅 第4部 補足 あとがき 謝辞 推薦図書

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

    地球という世界

    音声入りはこちら

    地球という世界  で人生ゲームを夢中になっている私 


    --------------------------------------------------------------------------------
    地球という世界は、霊的世界のインターネットにつくられた数多くの仮想世界の一つですが、たいへんユニークな特徴のある世界です。もっとも霊的世界のインターネットにつくられた仮想世界はそれぞれにユニークです。そうでなかったらその仮想世界の存在意義はないのですから。

    いま地球世界ゲームに参加して集まっている霊的存在すなわち私たち人間は、特別の体験をする任務を帯びています。それは任務であると考えてもいいし、自ら進んでその任務を選んだのですから、好きでその体験を選んで遊んでいると思ってもかまいません。その任務とは、いったん完全に神を忘れ、自分が霊的存在であるという本質も忘れてしまって、そこから再び自分の本質を思い出し、神を思い出すという体験をすることです。これが「地球世界」という仮想社会ゲームのユニークさです。

    なぜこのようなゲームをするかというと、一つは神を忘れることによってしか体験することのできない体験をするためであり、もう一つは神を忘れた状態から再び神を思い出すというところにたとえようのない喜びがあるからです。

    近年あちこちに巨大迷路という遊びの場があります。それは人間が中に歩いて入って行ける迷路で、そこに入って行った人はその中で出口を見つけるために悪戦苦闘します。時には6時間も迷って係員に助け出され、地方新聞の話の種になるというような人も出てきます。人はなぜ、わざわざ入場料を払って、迷子になるために、このような迷路に入って行くのでしょうか。それは、困難を克服するために自分の能力を極限まで高めて働かせ、首尾よく出口を見つけることができたという、達成感を楽しむためです。「地球世界」というゲームも同じです。このようなゲームは、もし目標達成に成功することができたなら、困難が大きければ大きいほど楽しいのです。

    本来の私たちが存在する霊的世界は神の意識の中にあります。地球世界ゲームというのは、神の意識の中にあって神を忘れるのですから、これはまったくの仮想の体験です。そのために霊的世界のインターネットの中に、物質宇宙という仮想世界がつくられ、その中に地球という仮想世界がつくられました。そして霊的存在である私たち人間は、この仮想世界の中に肉体という仮想の人間をつくり、自分はまったく肉体であると思い込むところまで下りていって、そこから再び神を求めるという困難な旅を続けているのです。

    霊的インターネットの中のゲームに、このように自分が霊的存在であることを忘れる旅をする仮想世界が、ほかにあるかどうかは知りません。もしあったとしても、地球という仮想世界はもうひとつ特別の個性を持っています。

    その個性とは地球の人間の肉体にあります。地球の人間の肉体は、理性と感情という二つのエンジンをつけた車のようなものです。それはエンジンが二つあるために、非常に複雑な反応をします。時には二つのエンジンが別々の方向に走ろうとして車を引き裂いてしまいます。そのような難しい乗り物を乗りこなしながら、サハラ・ラリーのように、荒果てた砂漠や、険しい山岳地帯や、スリップして進まない沼地を乗り越え、車の故障や互いのあいだの衝突事故を克服して、神を求める旅を続けているのが私たち人間という霊的世界の「ゲームおたく集団」なのです。

    地球世界ゲームの究極の目標は、人類のすべてがいったん忘れた自分の本質を思い出し、神を思い出し、本来の霊的存在に戻ることです。けれども、ただそれだけではありません。そこへ到達するまでのあいだに、人類はありとあらゆる生命のドラマを展開して行きます。それは、神を忘れ、自分が不生不滅の霊的存在であることを忘れることによってのみ可能となる強烈なドラマです。生と死、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、希望と絶望、・・・そのドラマにかかわっている当人にすれば、とてもそのドラマを鑑賞する余裕などはありませんが、それは神の眼から見れば、そしてこのゲームに参加していない第三者的な立場にいる霊的存在たちから見れば、とても言葉に言い尽くせないほどの美しく切なく感動的なドラマなのです。

    地球世界というところは霊的世界の素晴らしい劇場で、私たち人間はその舞台で演じている素晴らしい俳優たちだと考えることもできます。それは生命と愛のあらゆる様相を描き出すための無限のドラマです。私たちはそのドラマを、大勢の仲間たちと協力しながら、いわばアドリブでつくり上げて行きます。私たちは劇作家であり、脚本家であり、演出家であり、そして自らそれを演じる俳優でもあるのです。そして、その多様なドラマのすべてを覆っているのが、いったん忘れた自らの霊性を思い出すというスーパードラマなのです。

    人間が体験する地球世界のドラマは霊的存在から見ればすべて仮想のドラマですが、仮想だからといって価値が低いということはありません。人間界の演劇も映画もすべて仮想のドラマですが、それがどれほど人を感動させるか考えて見てください。霊的世界の演劇はそれよりもはるかに感動に満ちたものなのです。

    地球のドラマを見守っている霊的存在たちは、神を忘れたところから再び神を思い出すということがどんなに困難なことか、よく知っています。彼らは心からの感動と敬意をもって、私たちの過酷なゲームを見守り声援を送ってくれているのです。

    21世紀を迎えたいま、私たちのゲームは大詰めを迎えています。フィナーレの時が近づいています。地球世界ゲームという霊性回復ラリーは、到着順序を競うものではありません。できるだけ多くの人がゴールまで完走することが大事なのです。みんなで手を取り合い助け合いながら、霊性を思い出し、神を思い出す努力を続けてください。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    悲嘆にくれているときにこんな話は受け入れられないのでしょうが・・

    いつか気がつく時がくることを願って(自分自身に言っていることもあるが)

    生まれ替わり生き代わりという、物質界と霊界を行きつ戻りつして何万年?かは知りませんが

    そろそろ、このゲームに気づいて上がりにしたいものです。

    でも、そうなったとき

    「ああ、もう少し、もう少し・・やりたいです」

    なんて。

    それほど、このゲームは現実そのものであり、感情を揺さぶり、感動を生むのではないのかな?

    それなら、いまのうち、一所懸命没頭しようっと。

     

    お化け屋敷にわざわざお金払ってまで恐怖感を味わいたい気持ちね。

    人生ジェットコースターもレベル度をあげると、こりゃあもう悲惨だぜ。

    だけど、もう一度乗りたい♪

    という人が続出中。

     

    地球という舞台を提供してくれていた地球様が

    「君たち、もうそろそろ終わりにしたいと思うので・・・

    もっとやりたい人は他所の星へでもいって続けてチョウダイ」

    そうなると、最後の舞台はそうとうドラマチックでもあり、大混乱も引き起こすほと

    派手になるんだろうなあ:::

     

    ハラハラ::;

    ま、全体はそうであっても、起こる事はすべて自分という個人のゲームなんだろうけど。

     

     

     

     

     

     


    0 0

    動画の29分前後にありますね。

     

     

    Harry山科_この1%の富裕層の切り捨てがはじまります

     

    で、パナマ文書騒動が世界中で起こり始めているそうですが

    日本政府は「問題にしない」そうですよ。

    ふふ・・・

    泥棒組合?  

     

    単純に言えば、オレたち庶民bakkaり税金取りやがって!

    オマエタチ金持ちはちゃんと隠し持っているじゃね~~か!

    そう、いま世界中で問題、騒動になっているのが「世界の富の90パーセントは1パーセントの富裕層が持っている」という。

    その一端として、隠し財産がリークされたというわけでしょうかねえ?

    それがパナマ文書という衝撃的なニュース(日本は除外みたい)

     

    参考

    パナマ文書とは?タックスヘイブンの何が問題かわかりやすく ...

     

    で、上の動画のお話では、この事件が起こる前に話されていたという意義も含め、ものの本質を説いているような気がします。

     

    もうひとつ、

    幻の桜というブログ様の以前の記事で

    ま、自分なりの独善的理解なのですが・・・

     

    世界は養分(ほとんどの一般大衆)とそれをエサにする子犬(表面上に見える一部の支配層)と、実はその奥に(よく奥の院とか言われる隠れた存在・・・意識なのか実在なのか?)

    大犬という存在があるらしく。

    いわゆるロス茶とかロックフェ拉致とかは子犬に過ぎず、大犬たちの子飼いの番犬に過ぎないというのかも。

    大犬(奥の院)はいつでもこんな子犬を切り捨てることが出来るのね。

    (こんどのパナマ文書はまだその前戯のようなものかも)

     

    こちら参考

     ロスチャイルドすらも手足のごとく支配している人達がいる_ハリ-山科

     

     まあ、この世界は大シナリオに沿って役者達が入り替わり立ち替わり演技者としてやってくるというから、時には殺す側、時には殺される側、ときにはユダヤ人、ときには非ユダヤ人、ときには医者、とには医者批判者・・・とまあ、コロコロと替わる役者家業。

    その中で重要な役割をしている魂たちと、まあほとんど雑魚役ばっかりだった魂・・どちらも演者とマルチタレント・・・

    こういう大神芝居の世界もそろそろ大団円となってきたのかも知れません。

    表面的に見えるのは「人類の終末」か「バラ色の未来」か・・・・まったくシナリオが逆に見えるのも、平行宇宙というものが同時進行しているのだろうか?   わからん。 ま、分からないのがいいのでしょうが。

     

    こんな大芝居であっても、ちゃんと法則が作ってあって、最後には「やったことはかえる」方程式。

     

    時至って、この世界の法則

    「人にしたことは自分に返ってくる」のごとく

    それは支配層であろうが、悪魔の頭領であろうが、神さまであろうが・・この地球世界の現界と霊界を行きつ戻りつしながら、それは厳然として記録されている。

    ということのようで、俗にいう「死んだら罪も消える」とかは無くて、ちゃんと自分の魂の記録(記憶)に刻まれているという。

    コワ;

    何千年、何万年経とうがそれはついて回るのでいつかは自分に返ってくる

    としたら、

    奥の院といえども、それはイツカは覚悟しなければならないわけでしょうね。

    しかし、そう簡単に覚悟できるか?

    って、それは自分自身をみればわかること(うう・・)

     

    それなら、せめて今までの負債を子犬共に背負わせて、せめてのもの罪滅ぼしを・・・

    と、養分にとっては現実的でしかも喜ばしいことをしてやる。

    それで、今まで表面的に見えていた支配層を「やっつけてやる」というお芝居をみせてやる。

    庶民は大喝采♪  マチガイナイ!

    まずは、支配層から下層のものたちを生け贄にして・・・と。

    まだ中、上層部は出してこない・

     

    そんな仕掛けを考えて見ると、まあ闘いとは「善と悪の闘い」じゃなくて「悪と悪の闘い」なんだな、きっと。(真の善は「闘わない」のかも)

     

    これから始まるいろんなバラ試合、叩き合いも、一種の「悪対悪」であるから、まあ「自分の罪のなすりつけ合う」ような泥仕合なのかもね。

     

    こういうことで、庶民を喜ばせて・・・・さて、次の仕掛けはなにを持ってくるんだろうか?

    よい世界を創ると称して、一極支配を完成させる?

     

    世界を一色に塗り替える? ワンワールド?

     

    でも、最後にトンデモナイ奥の院が控えているってこと忘れているんじゃ無いの?

    どんなに奥の院ががんばってもそこから外には飛び出せない、越えられないバカの壁

     

    それが孫悟空とお釈迦様の手のひら・・・・かもね。

     

    ちょうど、抗生物質が一時救世主のように頑張ってみせても、ついにはお釈迦様の手のひらにぶちあっ立ったようにね。

    薬という自然に逆らった方法がついに人類から薬を取り去ってしまうという最後の結末が近づいている・・・抗生物質がその先頭をいっているようなものでしょ。

     

    こんなこと言っても意味不明に聞こえる?

     

     書いている奴もよくわかっちゃいない¥

     

     

     

     


    0 0

    薬には病を治す力を持ち合わせておりません

    これが現代薬理学の結論です。

     

    これは化学薬品に限らず、昔からの漢方薬など自然からの薬物も同様。

    人類は病気の苦痛症状を病気の本体と勘違いし、苦痛緩和方法が治癒だと思い込んでシマッタわけ。

    その苦痛緩和方法の第一番目に毒物が使われたわけ。

    その進歩発展がいまの現代医療の姿です。

     

    つまり苦痛を抑え、緩和する方法に毒物(これは自然、人工に限らない)を用いているわけです。

    その毒物の種類にも千差万別あり、体内に起こっている反応にたいして、その毒物を入れると何かの反応を引き起こすのが薬としての効用。

    だけど、その効用には主と副があるかのように言っていますが。

    じつは主も副も無いのです。 

    主作用と言っているのはただ単に「毒が引き起こす幾つもの反応のひとつ」でしかない。

    つまり、人間側の都合によって(目的によって)解釈しているだけのこと。

    起こっている事はその毒物が体の中で幾つかの反応を同時に進行しているわけ。

    副作用とはその主(薬の効能、主作用)以外の反応を言っているだけのことで、目的によっては主と副はいつでも入れ替わるのです。

    そして、薬が目的の場所にだけ到達するわけでも無く、全身のあらゆる箇所に到達しているのです。

    薬の効能とは体が起こす反応に、どう対処するかで目的別に分類されているのでしょうが、これはあくまで人間側の都合であって、薬そのものは毒物でできているのであって、目的がどうだのこうだのという理由で働いているわけでも無いわけ。

    あらゆる反応を引き起こし、全身のどこにでも回って行く。

    では、病気の本体とは何か?

    口が酸っぱくなるほど、いや、手が酸っぱくなるほど書いてきましたが・・・

     

    体内の浄化作用なのです。

    浄化の種は不要なものがあるから排泄するということ。

    そのきっかけになるのは年齢や活動状況や季節の変動や、その時の精神状態によって・・・発動する

    ノロウイルスにかかる人とかからない人の差はそこにあるようです。

     

    免疫力とは体内の状態によって病気(浄化作用)を引き起こすかどうかの差とも言えます。

    それは食生活も精神、肉体活動、気候なども含めてあらゆるきっかけがあるとして個人差が大きいでしょうが

    (中にはこの世界に出る前にお供に連れてきている病もあると言うし)

    すべては「浄化作用」と割り切ってしまえば

    あとは生きようが死のうが(本体は肉体で無いので死にもしないのだが)どうってことないって(と、吾に言い聞かせる 笑い)

     

    ところが、病気の苦痛が思ったより長く続いたり、死にそうになったり・・・と、

    すると、その覚悟も一瞬のうちに忘却の彼方へ・・・・

    そこから、もがき始めるわけ(苦笑  体験談)

    でも、そのもがきが適正なものならよいが、たいていは外れてしまうのですね。(苦笑)

     

    その一番の勘違いが薬というわけです。

    だって薬学博士が「残念ながらお薬には病を治す力を持ち合わせておりません」と書くほどですから。

    毒を飲んで体が癒される? 

    わけないでしょ。治るのはぜんぶ自分自身に備わった浄化力、つまり自然良能力です。

    その自然良能力が体内にお毒(お薬のこと)を入れれば、とうぜん排泄する為にかつどうを起こします。

    それが病気症状としての苦痛が伴う浄化作用。

    おあとは本の方へ。。

    この著者も同じ会に属した時期がありました。

     

    松本英聖著 21世紀の医学革命へ 

        発行年月:1995.5
        出版社:技術出版

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     


    27P
      第三章、 医学の正当性をめぐる東西の激突
           - 「医療選択の自由権」確立をー・-


       医学の普遍性をめぐり激しい論争

     アルマ・アタ宣言への道は平坦ではなかった。


    道は険しく、幾度となく会議がデッドロックに乗り上げるという茨の道、まさに陣痛の苦しみであった。


     それもそのはず、〝病なき世界〟をこの世に、しかも今世紀末までに実現しようという人類史上空前の世界戦略。


    そのコンセンサスを強(したた)か者ぞろいの国際会議でまとめ上げるわけだから、すんなりまとまる方がむしろ不思議なくらいだ。


     口角泡をとばす激論の果てに席を蹴って退席、会議はストップし、その合間を縫って妥協工作と根回しが続く。

    舞台回しの立役者はマーラ-国連WHO事務総長。

    〝病なき世界〟をめざす彼の情熱と百戦錬磨の国際手腕がなければ、恐らくアルマ・アタ宣言は日の目を見なかったであろう。

    まさに産婆役であり、時の氏神であった。


     ではなぜ、国際会議はそんなに荒れたのであろうか。


     対立の焦点は医学の普遍性と正当性をめぐって、東西両医学(東洋医学と西洋医学)が真正面から激突し、国際世論を二分して激しい激論が巻き起こったためである。


     謂わば医学の正邪を分ける世紀の戦いが、国連を舞台として繰り広げられたわけだ。


    旧ソ連と中国が真っ向から対立
     論戦は中国代表(東洋医学)と旧ソ連代表(西洋医学)を主役として展開された。


     旧ソ連は現代医学(近代西欧医学)の輝かしい成果をふまえ、近代医療技術を駆使することが世界戦略の正統的手段(ソ連方式)であるという「北の論理」を展開、その実証地としてアルマ・アタを挙げ、実地検証をかねてこの地で国際会議を開くよう強く要請した。

    この提案に対して、日本を含む先進諸国および東欧中進諸国など、近代医学を正統祝する主として白人系の諸国が支持した。


     旧ソ連とすれば、かつて中央アジアの古都として栄えた廃墟に、近代技術の粋を集めて緑したたる新興オアシス都市を不死鳥のように甦らせた「ソ連方式」の実力と実績を全世界にPRしたかったのであろう。


     それにしても、いまの日本人の常識ではソ連の提案はごく当たり前のことであり、異議を挟む人はまずあるまい。

    誰もが現代医学の普遍性と正当性を固く信じて疑わないからである。


     ところが、中国の考えは違った。

    先進国の主張に真っ向から反対する「南の論理」を展開し、自国の中国医学をはじめ諸民族古来の伝承医学の正当性を認める「中国方式」を提案して、「北の論理」を激しく論難した。


     この中国の主張は途上国(主として有色民族)の圧倒的な支持を得て国際世論を二分し、決定的な対決へとエスカレートした。


     「北の論理」に立つか、「南の論理」を認めるか。


    医学の正当性をめぐって論戦の火蓋は切って落とされた。

    まさに〝東西医学の激突〟である。



    29P
      現代医学(西欧医学)か伝承医学かの南北対決

     中国の主張(南の論理)は、こうだ。


     「先進国(ソ連方式)は、近代西欧医療の一面の成果(伝染病対策)だけを誇示するが、その反面では慢性病が急増するなどさまざまな矛盾が噴出している。

    であるのに西欧医学だけが普遍妥当性をもった唯一絶対の正統医学であるとして、これを全人類に押しつけることは虚構の論理であり、白人優位の思想である。


     このような論理は、民族の主体性と歴史性を否定し、有色人種の伝統文化を蔑視し、根こそぎ破壊しようとする恐るべき偏見である。

    各民族にはそれぞれ固有の伝承医学(中国医学やインド医学、アラビア医学など)が現存している。

    これら伝承医学を次世代が引き継ぐか否かは民族自決権に委ねるべきものであって、他国がとやかく口をはさむ問題ではない。


     現に中国は、中国三千年の伝承医学を発展的に継承することによって、伝染病を見事に克服し、国民体位も平均寿命も、そして疾病構造まで大きく改善された。

    こうした主体性に目覚めた人民パワーこそ、〝病なき世界〟を実現するための医学の主人公であり、歴史の原動力である」中国はこのような論理に立って、中国医学の実情を実地検証するため、北京での国際会議開催を強く主張した。


     アルマ・アタか、北京か--。

    開催地をめぐる論戦は、実は医学の普遍性と正当性をめぐる対決であり、それは現代医学(西欧医学)か伝承医学かという民族のアイデンティティーをふまえた南北の対決であった。


     またそれは、十億(二五%)の先進国民が信奉する白人医学に対して、四十億(七五%)の有色人種パワーを背景として掲げられた民族伝承医学の主体性宣言であり、医学の主人公は誰かという問いかけでもあった。



    30P
       開催地はアルマ・アタに、民族自決の伝承医学は承認

     医学の正当性をめぐって繰り広げられた果てしない論争は、結局マ-ラ-事務総長の燃えるような情熱と不退転の信念、そして精力的な調停工作によってようやく双方の面子を保つ形で終結し、アルマ・アタ宣言がなされた。


     彼は両者の対立を解消するに当たって、次のような趣旨で両者の言い分を調停した。


     「病なき世界をこの世に打ち立てることは人類共通の悲願である。

    その目的を達成するための世界戦略(手段)がプライマリ-・ヘルス・ケアであるから、その手段として、当該地域において、民族固有の伝承医学が役立つと考えるなら、大いに活用すればよい」
     つまり、伝承医学を一律に否定するわけではなく、地域住民のニーズに応じて適用すべきであって、その採否の決定は民族自決権にあるという原則を示したのである。


     この調停によって、双方が歩み寄り、開催地は旧ソ連(先進国)が望むアルマ・アタに決まって大国の面子は保たれ、また中国(途上国)は北京での開催を断念する代償として、民族自決権の下で伝承医学の正当性が国際的に承認されたのである。


     しかし、中国はアルマ・アタへの参加をボイコットした。

    そうすることによって、世界には少なくとも中国医学というレッキとした伝承医学が現代医学と共存している事実を全世界に示したわけで、どこまでも筋を通したわけだ。


     かくして世界の医学は、これまでの西欧医学一辺倒の時代から、民族伝承を対等の立場で容認する多極化時代へと移行した。

    この流れは、やがてインド医学やアラビア医学を巻き込んで大きな潮流となるであろう。

    すでに西洋医学万能の一極支配時代は終わりを告げ、健康づくりを導く新しい医学の時代が東洋から明け染めているのだ。




    31P
       伝承医学信奉人口は全世界の七五%



     日本の医学は文明開化の足音と共に明治七年(一八七四年)、太政官布告(政府命令)をもってそれまでの東洋医学を切り捨て、西欧医学を正統医学として受け入れた。


    以来百二十年間、これにドップリとつかり、いまでは医学と言えば、誰しも西欧医学だけと信じ込む時代を出現した。


     だが、世界は広い。

    お隣の中国医学はすでに現代医学と実力を競うまでに成長し、またインド医学も最近になってその隠れた実力が国際的に知られるようになり、さらにアラビア医学(イスラム世界)もようやく厚いベールの中からその片鱗をのぞかせ始めた。

    いずれも数千年の歴史をもつ世界三代伝承医学だ。


     ちなみに、この地域の人口分布を見ると、中国(一三億)、インド(八億)、西アジア・イスラム諸国(十億)の総人口は全世界人口の五六%(約三二億)を占め、これにアフリカおよびラテンアメリカの人口を加えると、実に世界人口の七五%(四三億)に当たる。


     この膨大な民衆がいまなおそれぞれの民族伝承医学を信奉しているわけで、残りの二五%(一四億)と、ほんの一握りの途上国のエリートだけが現代医学の信奉層に過ぎない。

    この比率は西暦二千年になると八対二に広がり、さらに二十一世紀半ばには九対一になることが予測されている。


     この数字が示すように、民族伝承医学の信奉者は日時と共に大きな勢力に発展しつつあるのだ。


     だが経済力から見ればこの逆で、わずか十数%の先進国が世界経済の八〇%以上を握るというアンバランス。


    この恐るべき経済格差の上に現代医学が成り立っているわけだ。

    しかも昨今では先進国でさえ天井知らずの医療費急増に悩み抜いているのだから、まさしく金力医学であり、〝亡国医学〟と言わざるを得ない。


     このような医学が果たして世界五十七億の人民を救いうるのだろうか。

    アルマ・アタ宣言が声を大にして医学革命(健康づくり)を叫び、中国が激しく「ソ連方式」を非難したのも当然であろう。




    33P
        「医療選択の自由」が全くない日本

     ところで、民族固有の伝承医学をあっさりと捨て、国を挙げて外来医学にドップリと浸かり込んだ民族は、世界広しと言えど日本民族ぐらいで、きわめて珍しいケースだ。


     お隣の韓国や台湾では、かつて日本に武力統治された時代には、西欧医学だけを正統医学として強制された。

    が、日本の敗戦(一九四五年)で彼らが独立すると、すぐに伝承医学(東洋医学)が復活し、東西両医学を併存させて、どちらの医学を選ぶかは個人の自由に任せている。

    中国もインドもそうだ。

    国民は自分の自由意志で自分の好む医療を選べる仕組みになっている。

    つまり、「医療選択の自由権」が政府によって保障されているわけだ。


     ところが、今の日本には〝医療選択の自由〟は全くない。

    政府公認の正統医学は現代医学(西洋医学)だけだから、臨終のときはイヤでもそのやっかいになり、所定の手続き(死亡診断または死体検案)を経ないと葬式さえすぐには出せないと言う実に不便(というより不可解)な仕組みになっている。


     なぜ自分が選ぶ死に方ができないのか。


    昨今話題になっている尊厳死や死ぬ権利の問題と併せて、とっくりと考えてみなければならない重要な課題であろう。

    とにかく医学は一つ(西洋医学)だけではないのだから……。





    34P
         現代西欧医学は一つのローカル医学

     「みんなで渡れば恐くない」ーー、最近よく耳にする言葉であるが、日本人の集団行動心理を見事に言い表わしている。

    弥生以来の農耕稲作民族が四つの島でひしめき合って暮らしてきた日本人としては、みんなと同じ行動パタ-ンをすることが習性であり、それがまた安心感につながるわけだ。


     だから、世界人口の七五%がいまなおそれぞれの民族固有の伝承医学を頑なに守り続けていると言っても、まずピンとこない。


     むしろ、「古くさい伝統医療や、いかがわしい民間療法がいまだにはびこっているのは、彼らの社会が貧しく、教育や文化水準が低いからだ」というように受け取りがちだ。

    だが、これは日本人特有の集団意識であって、自分たちの仲間がやっていることは世界中に通用すると思い込んでいるだけ。

    医学でも、みんなが信用しているのだから間違いはない、しかも先進諸国でやっている医学だから世界最高の医学だと錯覚しているに過ぎない。


     だが、すでに見てきたように、世界には三大伝承医学をはじめさまざまな伝承医学が現存している。

    そこで、これらの医学の存在を謙虚に認めて尊重し、その医療を受ける権利を保障することが大切である。

    その意味で〝医療選択の自由〟とは、信教・思想の自由と同じ基本的人権の一つである。

    いずれの医学を選ぶかは個人の自由であり、決して他人がとやかく言うべき筋合いのものではない。


     現代医学を選ぶのも自由、東洋医学を選ぶのも自由、そして自らの意志で医療を拒否することも自由である。


    このような〝医療選択の自由〟を保障する社会こそ、真の意味での民主国家であって、こうした社会の上に〝病なき世界〟は実現するのである。


     その展望と〝医療選択の自由権〟については、本シリーズ『松本英聖・医事論集 第二巻』(医学と生命)に詳しく述べたので、参照されたい。


     ともあれ国際化時代を迎えたいま、そして医学の多様化が国際的に承認されたいま、現代西欧医学はすでに少数派医学となり、やがて他の伝統医学と共に一つのローカル医学として位置づけられる日が近づいていることだけは知っておいて頂きたい。




    35P
        医学思想の根底に・神・汎神論の相違が存在

     視点を変えて、ここで東西両医学のものの見方・考え方の違いを、それぞれの医学思想を根底で支えている世界観の面から探ってみよう。


     さて、東洋医学は、地理的にはインドを含めてアジア・太平洋地域に住む人々(有色人種)が伝承する医学で、その人口は世界人口の三七%(二一億)を占め、思想的には汎神論的世界観(東洋思想)を背景として成立する医学体系と位置づけることができるであろう。


     これに対して、近代西欧医学はインドの西側(西アジア)伝承されるアラビア医学の流れをくむ医学(ユナ二医学)で、思想的には一神教的(イスラム・ユダヤ・キリスト教)世界観に立つ医学である。


     このように、東西医学を支えている世界観はおよそ対照的(汎神観と一神観)であって、そのいずれを信奉するかはあくまでも個人の自由(信教・思想の自由)であり、お互いに相手を認め、尊重する以外に道はない。

    アルマ・アタ宣言が民族自決権の下に医学の多極化を承認した理由も、ここにあるわけだ。


     次に、東洋医学(汎神論的世界観)の特徴は、全宇宙と生命(個体)を一体として把握(統一的生命観)することで、ニューサイエンス的にはホロニックな生命観と言うことができるであろう。


     ホロニックとはギリシャ語の全体(ホロン)にちなむ学術用語で、アーサ-・ケストラ-が立体写真(ホログラフ)の原理から導いた東洋的な概念であるが、その後、数学的なフラクタル理論が浮上してきた。


     フラクタル理論は一九七五年にブノワ・マンデルプロ-博士(米エール大教授・数学者)が自然界の海岸線、河川、樹木の形などの造形をコンピュ-夕・シュミレー卜するために提唱した概念であるが、これが株価や経済的変動の予測などにも応用できるということで、にわかに脚光を浴びていることをつげ加えておこう。


     ホロニックについては後章で詳しく紹介するが、要するに《部分は全体を含む》ということで、東洋古来の《一即多・多即一》という直観哲理の現代版と考えてよいだろう。


     分かりやすく言えば《自然(全体)=生命(個体)》、《人体(全体)=細胞(部分)》という具合に、全体と部分を一つのシステムとして把握する考え方だ。


     仏法で説く〝依正不二〟や〝心身一如〟も同じ世界観に立つ哲理である。


     このような世界観から、東洋医学の〝身土不二〟や〝一物全体食〟といった食事観が導かれ、また〝気血
    の調和〟〝医食同源〟など自然と一体となり、自然との調和を図る自然順応型の医療観が育まれたわけだ。



    37P
        一神教世界朝は科学技術文明の母体

     これに対して、一神教の世界では万物はすべて神の創造物であり、自然と生命は神によって創られた独立存在であるというように考える。

    つまり、自然と生命を対立的(相対的)に認識する世界観(対立的世界観)である。


     この世界観に立つと、人間と食物の関係はそれぞれ独立した対立関係にあるから、必然的に〝喰うもの〟と〟喰われるもの〟という対立的な食事観が導かれる。


    このため神への祈りや感謝あるいは愛といった信仰心が失われると、自然を支配(人間中心思想)しようとする自然支配(収奪)型文明や自己主張型の対立闘争的な思想が芽ばえやすい。


     その典型が現代の欲望追求型・自然収奪型の科学技術文明であって、ついには人間の限りない欲望を満たすために自然を破壊し、資源を浪費し、公害を拡散するという恐るべき人間中心の近代文明社会を出現するに至った。


     また、対立的生命観に導かれた西欧医学は、環境と生命を切り放し、人体と内臓をバラバラにし(臓器別医学)、さらに人体を細胞に分割して研究するミクロ医学(細胞病理学や分子生物学)へと発展し、また食物を分析して物質的側面から研究する現代栄養学など、およそ東洋医学とは対照的な医学を創り上げた。



     このように生体を各構成要素にバラして研究する方法を要素還元主義と呼ぶが、ケストラー(前出)は、その欠陥と誤りを鋭く批判すると共に、新しい東洋医学的な研究方法(ホロニック・パス)を提唱した。

    このホロニック・パスの最先端を行くのが、自然医学にほかならない。


     次に、中国、インド両医学の思想的背景を播き(ひもと)ながら、そのアウトラインを解説してみよう。




    38P
    〝医食同源&Prime;でありながら「薬主食従」の中国医学

     現在、わが国では東洋医学と言えば、一般的に中国医学だけと思いがちであるが、実はインド医学もレッキとした東洋系伝承医学であって、前者は十三億の中国人民、後者は八億のインド民衆によって連綿と受け継がれた、いずれも三千年の歴史を誇る医学である。


     この点、わずか二、三百年の歴史しかもたない西欧医学に比べて、世代を越えて蓄積された東洋系伝承医学の情報量は彪大であり、貴重な遺産でもあるわけだ。


     さて、中国医学は、周知のように陰陽五行説ー1自然現象を陰陽と五行(木火土金水)に分類当てはめて説明する相似象的自然観 -、によって人体機能(五臓六腑)を全身的に調整(気血の調和)しようとする、謂わば自然調和型の医学体系である。


     陰陽五行説を情報論的に見れば、すべての現象を陰陽五行という抽象的パターン(相似象)によって類型的に分析する論理であって、さしずめアナログ型コンピュータに相当する思考形式と言えよう。


     これに対して、西欧医学はすべてを構成要素に分解し、○×式にイコ-ルを求めていく論理方式であって、現在のデジタル型コンピュータに相当する思考形式であることは、きわめて興味深いものがある。


     アナログ型かデジタル型かはともかくとして、中国医学も西欧医学も共に一定のロジックに従って合理的に運用される医学(合理的医学)という意味において、両医学には共通性がある。

    昨今中国医学の近代化が叫ばれ、とくに中西両医学結合路線が強力に進められている背景には、いま述べた情報論的に共通性があるためである。


     この点、インド医学はかなり異なる面をもつが、これについては後に触れることにする。


     次に同じ中国医学でも、黄河流域で発達した北方医学と、揚子江流域を源流とする南方医学では、医療技術面で大きな違いが見られる。


     北方医学の特徴は体表と内臓(五臓六肺)を結ぶ急所(ツボ)を発見し、世界に類例のない優れた体表医学(鍼・灸)を創造したことだ。


     これらのツボおよびツボと内臓を結ぶルート(経絡)の科学的解明が一九七〇年以来、長足に進歩しているが、ツボという局所と全身の働きが機能的に連動している事実は、まさに人体がホロニックな構造になっていることを示すものである。

    中国では、これをバイオ・ホログラフィ-と名付けて精力的な研究が続けられており、恐らく、二十一世紀にはそのカラクリの全容が明らかにされるであろう。


    また最近、ハリ麻酔の作用機序として脳内で生成される生理的麻薬用物質(エンドルフィン=麻薬の百倍以上の作用をもつ)の鎮痛機構の全容が解明され、痛みの生理的コントロールについての研究が大きく前進した。


    一方南方医学は、医食同源思想に基づく内科的な漢方医学(湯液・薬膳)が発祥し、最近わが国でも漢方ブームが巻き起こっていることは、ご承知の通り。


     なお、中国では古来〝医食同源〟の言葉があるが、実際の臨床面では方剤(漢方薬またはハリ、灸)を主とし、食養はあくまでも補助とする「薬主食従」の医療観である。


     このほか、道家を始祖とする導引・吐納(気功)が日本でも大きな話題を呼んでおり、言わゆる〝気〟の科学的解明が二十一世紀の最大の課題となるであろう。




    40P
        神秘思想と「食主薬従」のインド医学

     インド医学は、後で紹介するア-ユルヴェーダを原点とする医学で、その根底に流れる生命観はヒンドゥー(仏教)的な神秘思想(輪廻転生観)である。


    即ち個々の生命は《悠久の宇宙的時間系の中で、カルマの法則(因果律)に基づいて生き変わり死に変わりつつ、過去 →現在 →未来へと永劫に輪廻転生する一過程(現世)》として時間的に把握される。


     このような過・現・末三世にわたって永遠に生き続けるという生命観を仮に時間系東洋思想(神秘主義)と呼ぶなら、中国の生命観はあくまでも現実の世界における現象を対象とする空間系東洋医学(合理主義)と呼ぶことができるであろう。


     次に思想面では、インドのヒンドゥー教を母体として仏教という偉大な世界宗教が発祥したのに対して、中国北方では理性的・倫理的な儒教(孔子)が、南方では直感的・密教的な道教(老子)が出現した。


     また医学においては、中国医学が陰陽五行説に基づく合理的な経験医学を創出したのに対し、インド医学は広大な宇宙と共に生きる実際的知識と行法(瞑想と調息法)を中心に、心身調整法(ヨ-ガ)、食事法(とくに断食)、心身浄化法(パンチャカルマ)および生活全般にわたるノウハウ(睡眠法・入浴法・房事法など)を詳細に説いた一大健康科学(ア-ュルヴェーダ)を集大成した。


     インド医学を貫く神秘主義と、その行法は、一見すると現実離れしているため、近代合理主義(あるいは中国合理主義)に慣らされている目には、容易に馴染めない面のあること(喰わず嫌い)は否定できない事実である。


    しかし最近になって、インド医学に関する科学的研究(心身相関医学)が進むにつれて、優れた合理性をもつ技法であることが次第に解明され、今後の研究が期待される。


     次に、インド医学で特筆すべきことは、実際の臨床治療において薬物よりも食事指導を優先する「食主薬従」 の医学観と、パンチャカルマと呼ばれる世界に類例のない優れた心身浄化法が伝承されていることだ。


    この点、中国医学では〝医食同源〟を説きながら、実際の臨床面では生薬を優先する「薬主食従」 の医療観と、ツボ療法という優れた《気の医学》を創出した。


    そこでインド医学を《食》と《浄化》の医学とすれば、中国医学は《生薬》と《気》の医学と呼ぶことができるであろう。


     ともあれ、インド社会は、その地理的条件によって数千年間も中国や西方イスラム世界と交流をもち、さらに十八世紀以降三百年以上もイギリス統治におかれていたにもかかわらず、いまなお八億の民が神秘思想、食事法(生活法)および心身浄化法を説くアーユルヴェ-ダ医学を脈々と受け継ぎ、その教えを頑なに守っている事実は、まさに驚異である。


     それにひきかえ、極東の島国で三百年も太平の夢をむさぼっていた日本民族が、いともあざやかに西欧医学に乗り換えた変わり身の速さ。

    果たしてこれで良かったのだろうか。

    いまこそ広い世界に目を向けて、東洋医学のあり方を真剣に学び、真に民衆の役立つ新しい健康づくりの医学を建設することが日本民族の使命ではなかろうか。


     そのためには、中西医学結合をめざす中国医学と、東洋三千年の神秘思想を伝えるインド・アーユルヴェーダ医学を総合的に再編成することが必要である。

    みんなで渡れば式に付和雷同して現代医療を過信し、それのみに頼ることは、最早、時代錯誤と言わねばなるまい。



    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

     

     


    0 0

    昔は稀少価値(バカアホと呼ばわれ危地害扱いもされた)

    が・・・今は  

    そんな事,常識だよチミィ~~♪

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     

     

     

     

    薬を飲むことは「緩慢なる自殺を試みている勇気ある人」と。

    全ての薬を麻薬と思えばよく分かる。   最初はグー(^-^)g""  それが段々と・・・ついには廃人へ

    どんな薬でも副作用がある。だって毒が薬に名前を替えただけだから。

    そして「薬が病気をつくる」

    なんて言ったら昔はアタマを疑われたのですが・・・(今でも疑われているけどね   別の面で)

     

    昭和初期に岡田茂吉氏が説いた薬毒論と病気は浄化作用論

    その薬毒論がいよいよ薬の専門家たちによって明らかにされて来たようです。(もっとも多数派は黙したまま・・ 言わ猿)

     

     

    『薬が病気をつくってた!』宇多川久美子先生(薬を使わない薬剤師)ワールドフォーラム2014年9月講演&実践塾

     

    宇多川久美子「薬が病気をつくる」理論編《異説真説》

     

    第14回「薬を使わない薬剤師 」 宇多川 久美子さん

     

     こういう時代になったのです。

     

    昭和初期から一体何年経ったのだろうか?

    ここまで来るには、初期の人たちはこの世を去り、次の代も大半が去り、そしていまダニ残っている小生のような粘り強く残っている稀少生・・・

    もうすぐ、その稀少価値も薄れ

    「ああ、そんなこと当たり前だよ、まえから知ってたよ♪」

    これが人間という日和見菌種なのだ~~~~ああ、joyful♪めでたい♪

     

    でも未だに「薬が病気をつくる」を信じられない御方は

    トコトンまでやってみてください。

    人間には洗濯の自由が与えられているのですから。

     

    ジャブジャブジャーブジャブ♪  (洗濯爺)

     

     

     

     

     

     


    0 0

     

    誰でも「ボクはバカだから^^;」なんて平気で言えるが、

    他人から「ああ、そうね。キミはバカだね♪」

    などと返事されると、急に怒り出す。

     

    ところが、それどころか、いきなり「キミはチョーバカだよ」などと言われた日には・・・

    昔は超愚、今はチョーバカ。

        

    これは読者を刺激して考えて貰えるきっかけにして貰いたいための題名ですので、興奮して怒ってみても詮無し缶ビール。

    超愚とはチョーバカの意味ですが、じかに自分が言われると本当に腹が立つモノでして・・・

    本当の利口者は受け流せるのですが(苦)

     

    それを承知でチョーバカなどと言えばはね返ってくるマイナスエネルギーを避けつつ、ミナサマには本当のことを知って戴きたいと・・・

     

     

     

     

    岡田氏は昭和初期の頃から開始したと言われる「医学の革命論」だが、戦前は当局の取り締まりもあり、かなり遠慮して書いていたようだが、戦後は宗教の教祖としてかなり突っ込んだ論をかなり多く残している。

     

     この論文の後に現代の医学革命論を発している医師の動画が続きます。

     


     ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

        超愚

        『栄光』229号、昭和28(1953)年10月7日発行

         この題を見たら随分変な題と思うだろうが、これより外に言いようがないから付けたのであって、言い換えれば超馬鹿である。

    従ってこれを読むに当っては、既成観念を全部捨ててしまい、本当の白紙になって読まれたいのである。

    しかも今日智識人程そうであるから始末が悪いと思う。

    例えばダイヤモンドと思って長い間珍重していた宝石が、実は石の欠片(かけら)と同様なお粗末なものであったからで、これが分ったなら唖然として腰を抜かすであろう。

    前置はこのくらいにしておいて、さて本文に取掛るが、まず病気と薬との関係である。

    今日誰しも病気に罹(かか)るや、薬の御厄介になる。

    恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。

    もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。


         そこでこの事について今まで何人(なんぴと)も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、難しい事は少しもないが、何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。

    そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。

    例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、それがたまたま懐(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、一時服む事を休めざるを得なくなった。

    言わば薬が切れたのである。

    そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、病気が起ったのであるから、早速無理算段しても、命には代えられないから、金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。

    これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。


         これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。

    ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、当り前の事として気が付かないのである。

    そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑(おか)しな話となる。

    薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。

    またこういう事も沢山ある。

    それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。

    これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、何を好んで高い金を出して不味(まず)いものを服む必要があろうか。


         今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。

    薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。

    薬を服むから弱い、という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。

    としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。

    なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で疾(と)うに解決されているからである。

    この解釈こそ私の方では何でもない。

    それは医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。

    それを説明してみれば実に簡単明瞭である。

    すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。

    ただそれだけである。


         以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、高い金を費(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句(あげく)命までフイにしていながら、それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。

    馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。

    それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。

    そこで止むなく超馬鹿では耳障(みみざわ)りと思うから、超愚とかいた次第である。

    このような訳で私が医学の蒙(もう)を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、これでもかこれでもかと色々工夫して、新熟語を考え、目を廻すような鉄拳を喰(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいい。


    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    そして、いま岡田氏に代わって現代人の超愚、いやチョーバカさ加減を痛烈に気づかせるために、あえてキツイ言葉を使い快刀乱麻ぶりを発揮している医師。

     

    薬が病をつくる in名古屋 講師 内海聡

     


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    以下はweb上から消えて過去のHP等を魚拓して保存しているサイトから見つかったモノです。

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

    それでもあなたは医者を信用しますか?



    ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。

    最終更新日 2005年2月1日

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

    より


    これから分割して、改行を勝手に加えてありますが、内容はそのままです。

    2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。

    https://web.archive.org/web/20050228095921/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page2.html

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     1. 驚くべき医者の無知
     
     1.頻発する医療ミス       

     2.構造上の欠陥       

     3.唯物科学の終焉       

      4.医学理論の致命的な過ち       

     

    1. 頻発する医療ミス

    今さらいうまでもなく、医療による被害者は増加する一方です。

    残念ながら公式の統計はありませんが、ある弁護士の推計によりますと、医療ミスで死亡する人は、年間17、000人から39、000人となっています。

    これは、交通事故による死亡者数を明らかに上回っています。

    数字に幅があるのは、事故死を病死と偽って報告するケースがあり、年次別の、正確な実態の把握が困難なためです。


    連日のように報道される医療ミスには、すぐに死亡に至る場合のほか、病態をさらに悪化させる、新たにべつの病気をつくりだす、二度と元に戻らない障害を負わせるなど、さまざまな種類があることがわかります。

    死亡事故は遺族にとって、障害事故は当の被害者と家族の両方にとって悲劇です。

    障害の程度によっては、肉体的、精神的苦痛に打ちひしがれ、生活の基盤は奪われ、生きる希望をほとんど絶たれてしまうことも珍しくありません。

    その無念さは、当人以外、たとえ家族といえども、真に理解しがたいものです。


    そしてこれらの事故は、検査・投薬・放射線・手術といった医療行為そのものによって起こる、くわえて医者、看護婦、検査技師、薬剤師の能力不足、不注意や怠慢、意思疎通のトラブルで起こるなど多岐にわたっています。


    さいわい障害・死亡事故にはいたらなかったものの、ほとんど公表されることのない病状悪化や合併症の誘発、後遺症の発作などは、大小あわせると年間数十万、いや、数百万単位の規模で発生しているともいわれ、医療ミスは、まさに、「明日はわが身」といってもけっして過言ではないでしょう。


    この深刻な事態について、マスコミや医療ジャーナリストはつぎのように分析しています。



        医者の資格認定や研修医制度の欠陥や不備
        それが原因の医者の知識不足や技術不足
        医療行為を監視する医道審議会の怠慢
        新薬をめぐる医者と医薬品メーカーとの癒着
        患者軽視の利益優先主義
        『出来高払い』という不可解な診療報酬請求システム
        制度を悪用する医道モラルの荒廃

    しかしながら、これらの指摘では、事故との具体的な因果関係まではわかりません。


    今私の手元に、医療事故にあった人たちとその家族からの相談内容を検証し、医療問題をより深く掘り下げた一冊の本があります。


    慶應義塾大学医学部放射線課講師・近藤誠氏と、医療消費者ネットワークMECON代表世話人・清水とよ子氏の共著による『医療ミス』という本で、つぎにその一部を要約させていただきます。



    医療事故には「うっかり型」、「能力欠落型」、「必然型」の三つの種類があり、それらが起こる原因は「個人」、「組織」、「構造」、「意識」の四つにあると考えられる。

    個人とは医者、看護婦、技師などの医療従事者、組織とは病院などの医療機関の人員配置や役割分担、構造とは医療の仕組み、そして意識とは、医療従事者や一般の人々の病気や治療に対する見方のことである。


    能力欠落型の医者が大量に生み出される原因は、偏差値教育、つまり医者を養成する教育システムという構造のなかにある。

    偏差値教育は拝金主義を助長し、医者として不的確な人間をつくるなどの弊害を生む。

    その結果、医学生は医師国家試験にうかることだけを唯一の目標にするようになる。

    試験対策の手引きのようなものが教科書がわりに使われ,試験といっても、解答の選択肢のなかから正解を一つだけ当てさせるもので、勉強の仕方もそれに対応した知識つめこみ型になる。


    正式の教科書も、臨床能力に乏しい老齢の大学教授が執筆したもので、内容はじつにお粗末なものだ。

    日本語で書かれているため、学生は英語の勉強をしない。

    そのため、最新の医学情報を知るための文献が読めない(日本の医療・医学レベルは欧米より10?20年遅れている)。


    埼玉医大では、医者が簡単な英単語を読めなかったため、患者を殺してしまったという実例がある。

    べつの例では、放射線治療をうけていた咽頭がんの患者が死亡した。

    放射線の急性反応である口内炎で食事ができなくなり、高カロリー輸液の点滴をしていたが、医者に必須ビタミンを輸液に入れる必要があるという知識がなかったため、患者はビタミンB1の欠乏症である脚気、ないし血液が酸性に傾くアシドーシスにかかり、それが重症化したのが死因だった。

    欠陥だらけの医学教育によって医学生の頭のなかはすっかり〇×式になってしまい、多様な事態に対処する能力は養われないのである。



    この本ではさらに、医療行為そのもので生じる「必然型」の事故についても、多くの事実が明らかにされています。

    なお、能力欠落型も必然型も、見方によっては同一視できるものだと述べ、次のような例をあげています。



    脳手術では、開頭しただけで攣縮して後遺症を生じることがある。

    病院には耐性菌がうようよしており、手術の種類にかかわらず、手術をすれば、(免疫低下が原因で)一定の確率で感染症にかかることは必然だ。

    こういう患者から分離される黄色ブドウ球菌のうち、耐性菌とされるMRSAが占める率は、ほとんどの病院で7?8割にも達する。


    もうすぐ自然に陣痛が始まるという時期に、妊婦にプロスタルモンという陣痛促進剤を点滴、服用させることがあるが、それが原因で陣痛が強くなりすぎたり、強直性子宮収縮を起こし、子宮が破裂して妊婦が死亡したり、胎児が重度の仮死状態になり、脳に障害を負うことがある。

    被害にあった妊婦のほぼ全員が、そのような事故が起こりうることを知らされていない。

    それどころか、「子宮口をやわらかくする薬です」くらいのことしかいわない。




    2. 構造上の欠陥ー『医局講座制』・『自由開業医制』・『自由標榜制』・『出来高払い制』・『自家調
    剤制』

    同書はまた、医者を乱診・乱療に向かわせる、これら諸制度の弊害について述べています。


    まず医局講座制について、つぎのような事実を明らかにしています(医局制度はもともと100年も前の明治時代に、当時の東京帝大が医科大学や大学病院にドイツから導入して作ったもので、これが一世紀にもわたって、西洋医学の聖域ともいえるヒエラルキー、つまり権力構造を形成してきました)。



    医局講座制が取り仕切る現在の研修医制度のもとでは、医大を卒業して医師免許をもらうと、研修医となって2年間の研修をうけ、ほとんどが大学病院で研修する。

    その場合、複数の診療科をまわって研修する制度をもつ医大はほとんどなく、内科なら内科、外科なら外科だけというように、単一診療科のなかだけで研修をおこなう。

    したがって、耳鼻科のことしかわからない、精神科のことしかわからないという医者ができてしまう。


    研修期間が終わっても、医局講座制は悪影響をおよぼす。

    教授が人事権と学位権をにぎっているからだ。

    人事権とは、院内において誰を助手として採用するか、誰を講師・助教授に昇進させるかという権限で、事実上、教授の一存できまる。

    教授はまた、関連病院への常勤医の派遣の権限もにぎっている。

    病院側には医者の選択権はほとんどない。

    医学博士の学位を医者に授与するのは教授会だが、教授たちは、自分の部下が審査を受けるときに復讐されるのを恐れてだろう、教授会による審査段階では、ほぼフリーパスで学位授与を認めてしまう。

    したがってその前段階である、部下が学位審査を申請することを教授が認めるか、が鍵になり、教授はそれを餌にして、部下に服従をせまるようになる。


    いったい、医学博士という肩書きに、どんな効能があるのだろうか。

    いろいろな博士号があるなかでも、医学博士は最も簡単にとれる学位で、"足の裏の米粒"などと揶揄されている(取っても食えないけれど、取らないと気持ちが悪い)。

    このように人事権と学位権をにぎる教授は、それだけでは満足しない。

    いずれ大きな学会を主宰したい、退職後は大病院の院長職につきたいなどの野望がある。

    それが達成されるかどうかの鍵は、部下たちのあげた業績にかかっている。


    業績とは研究論文のことで、研究成果を載せた医学誌の格が高いほど、論文の数が多いほど業績が評価される。

    患者を一生懸命診るより、ネズミや細胞を使った実験をするほうが論文になるわけだ。

    当然、医者は病棟に患者を訪ねるより、研究室にこもって実験に没頭しようとする。

    こうして大学病院では、構造的に、優れた臨床能力を持った医者が育ちにくいのである。


    業績中心で教授を選ぶ傾向は、メスをふるう外科、整形外科、産婦人科などでも同様だ。

    日本では、ほとんど手術をした経験のない人間を、業績ゆえに外科系の教授にすることがよくある。

    ある大学病院では、乳がんの世界的権威を外科教授として呼び戻し、紹介された患者たちに、胃がんや大腸がんの手術を始めた。

    内臓の手術に慣れていなかったため、不用意に血管を切って患者が死ぬなどのトラブルが続き、教授の手術のときは以降、血管外科の医者が待機するようになった。

    これではまるで、「何とかに"刃物"」だ。


    自由開業医制や自由標榜制によって、医師免許さえあれば自由に開業でき、そのさい、自分がやろうと思う診療科目を勝手に決めることができる。

    その科目にどれくらい習熟しているかは問われない。

    たとえば、小児の診療にぜんぜん携わったことがない整形外科医でも、小児科を標榜していいのである。


    出来高払い制や自家調剤制によって、健康な人にざまざまな検査をして病気を捏造し、山のように薬を処方して病気を作り出す(いわゆるレセプト病)。

    そのさい、患者への売値と、仕入れ価格との「薬価差益」を利用して儲けようとする。



    いかがでしょうか。

    医療の世界では、こんな信じられないようなことが、当たり前のようにおこなわれているのです。

    国民の多くはそのような事実があるなど知りようがありませんし、たとえそれを知ったからといって、どのように事態に対処したり改善すればいいのか、これといってなすすべがありません。

    医療ミスへの反応が対岸の火事のごとく、切迫した危機感に欠けるのはそのためです。


    じじつほとんどの人は、医療過誤は個々の医者、または病院の人為的なミスであって、制度や医療じたいは直接関係ないだろう、という受け止め方をしています。

    ましてや医学や医学理論に欠陥があろうとは、夢想だにしないのではないでしょうか。


    科学至上主義や、一世紀も続いてきた体制によって、医学にたいする信仰めいた既成概念ができあがってしまったためで、それはそれで仕方のないことかも知れません。

    ところがあにはからんや、この世間の常識に相反して、 医学理論そのものが、矛盾と誤謬に満ちたものだったのです。

    そしてそれこそが、医療ミスも含めて、現代医学が抱えるすべての問題の核心であると、私は考えています。

    といっても信じていただけないでしょうから、ここで、その誤った医学理論を生んだ科学の歴史を概観してみます。




    3.唯物科学の終焉

    近代科学はガリレオ、ベーコン、デカルト、ニュートンなどによって確立されました。

    地動説を支持したガリレオは、観察に加えて実験と数値測定を研究手段として導入し、ベーコンは帰納法を、デカルトは解析幾何学をそれぞれ創始して科学の方法論を定着させ、万有引力の法則を発見したニュートンは、これらの業績を総合して力学の一大体系を築きました。


    このニュートン力学の完成を機に、科学は目覚しい発展を遂げることになります。

    新しい発明や発見が相次ぎ、それらが産業界で実用化され、人々の生活は劇的に便利になっていき、やがて、蒸気機関や電気の利用による産業革命が起こりました。

    こうしてニュートン力学は19世紀に頂点を迎え、科学は文明社会において不動の地位を占めることとなり、「科学は絶対で万能である」という科学至上主義が世界に広まり、それがそのまま人々の人生観になっていったのです。


    じつは、当時の科学者はもともと、自然を精神世界と物質世界の両面から探求しようとしていました。

    ところが、デカルトの懐疑的思想が科学者に強い影響を与えていたため、科学的手法になじまない精神世界はしだいに置き去りにされ、ついに物質世界だけが研究対象とされ、精神世界、つまり「意識の世界」は、心理学や倫理学の社会科学として扱われるようになった、といういきさつがあります。


    デカルトやニュートンは、神や霊魂の存在を信じていたとされていますが、自然科学の探求においてはあくまで思考の合理性を重んじ、ヘーゲルの『弁証法』に由来する『要素分割還元主義』、または『二元論』と呼ばれる哲学的手法を編み出すにいたりました。


    それは、まず複雑な現象を要素別に細かく分ける、次に分けたものからわずかでも疑わしいもの、客観的ではないもの、数値に表せないものを除く、そうして残ったものを研究し、再統合するという分析的な手法です。


    この手法が科学の急速な発展をもたらしたことから、科学者は、物質世界は精巧な機械の集合体であり、人間を含むすべての生物は自動機械である、との確信を抱いたのです。

    こうして自然界のすべての仕組みは理解できるとし、ここに、西洋思想の真髄とされる機械論的世界観が、科学の主流概念となったわけです。


    ところが、20世紀の初頭になって、量子力学という、それまでの科学常識を根底から覆す科学理論が登場してきて、「物質の極限は波動であり、波動を固定して観測することはできない」と主張し、「この世界は機械論で解明することは不可能である」、と断定しました(詳しくは別途第七章に)。


    ボーア、ハイゼンベルグ、シュレジンガーなどが提唱した量子力学は、アインシュタインによって「非科学的である」と非難され、両者の間でながい論争が続くなど紆余曲折がありましたが、『コペンハーゲン解釈』、『ベルの定理』による理論的実証、さらには1982年のフランスのアラン・アスペや、1986年のイギリスのハンス・クラインポッペンの見事な実験によって、ついにその真実性が認められたのです。

    「現実は人間の意識が創造するものである(=この世はバーチャル・リアリティ)」、これが量子力学理論のエッセンスです。


    その意味するところをわかりやすくいいますと、私たちは、自然界のすべての事象は、自分が意識しようとしまいと、現実に実在していると思っています。

    しかしじつは、それらはすべて人間の意識がつくりだした幻覚であって、人の意識を離れて客観的、局所的に存在するものではない、端的なたとえでいえば、「誰も見ていないときは、そこに月は存在しない」と、量子力学は主張するのです。

    いうまでもなく、私たちの常識ではとても受け入れがたい主張ですが、これは、「波束の収縮」、または「波動関数の崩壊」といわれる現象で、自然界に同時的、非局所的に遍在する無数の超微粒子(原子核以下のレベル)の波の束が、「人が見る(観察する)」という行為によって、波から個へと現実化するプロセスとして、多くの精緻きわまる実験で立証済みの事実なのです。


    ようするに、人に見られるまでは宇宙全体に充満している波動が、人が見たとたん消滅して、個々の粒子(原子のレベル)にまとまり、物質として実体化する、といえばおわかりでしょうか。

    この現象を量子飛躍と呼ぶのですが、その難解さを平易なたとえで説明した、有名な「シュレジンガーの猫」のパラドックスは、観察するという意識と行為がなければ、この世は存在しないと考えざるをえないと論証しています。

    人間が研究しようとして観察するという行為そのものが、じつは自然を究明しているのではなく、想念によって客観的な実在をつくりだしているのだと、量子力学はいっているのです。


    この量子力学の結論は、相対性理論やビッグバン理論のような単なる仮説と違って、ミクロの物質(光子や電子など)を使ってじっさいにおこなった実験検証から得られたものであり、しかもそれによる予言は、これまで一度でさえ外れたことはありません。

     このことをぜひご記憶ください。


    これまでの科学は、厳然と実在する自然界を、客観的な対象として研究するというのが基本姿勢であり、科学者の誰一人として、研究者自身が対象の一部でもあり、その研究者の意識が対象に影響を与え、これを変えてしまうなどとは、よもや考えたこともなかったわけです。

    当然のことながら、量子力学の登場から70年もたった現在でも、科学者の大多数は、この従来の科学常識を根底から覆す、破天荒な理論に困惑し、苦悩しています。


    しかしその一方で、宇宙の構造、重力(万有引力)の正体、素粒子の振る舞い、常温核融合、高温超電導、サイ現象など、従来の科学では今なお説明できない現象が数え切れないほどあり、科学者は、まさに絶望的な幻想のふちに立たされているのも事実です。


    このジレンマから抜け出すには、量子力学への科学のパラダイムシフトが不可欠の条件となりますが、伝統科学に固執し、自分自身の立場を存亡の危機にさらしたくない科学者が多いことから、パラダイムシフトにはもうすこし時間がかかるのではないか、というのが専門家の共通した意見です。


    しかしながら、アスペなどの実験によって物質の客観性(物質は観測者に対しそれぞれ局所的に存在する)が否定されてしまった以上、比較的近未来に、伝統科学、つまりは『ニュートン力学』や『相対性理論』が葬り去られ、それらに代わって、量子力学が科学の主流となる可能性は高いのではないでしょうか。

    それが実現してはじめて、唯物科学の時代が終りをつげ、量子力学や『ブーツストラップ理論』が述べるような、全体的、包括的な科学が到来することになるのでしょう。

    ブーツストラップ理論とは、「物質は実在するものではなく、ただ、素粒子間の関係性のみが存在するだけである。

    この世界で生じる、あらゆる現象の全体と部分は対等、平等である」、というものです。


    アメリカの核物理学者フリッチョフ・カプラは、「この次世代科学は、東洋の神秘主義(仏教思想)に通ずるものである」と述べています。

    科学はこれまで、人間は脳、つまりコンピュータのようなもので思考するのだと考えてきましたが、そうではなく、心というプログラマーがべつに存在し、それが脳を操っているのだということ、そして、「この世」の実体は私たちの意識と無関係に形成されているのではなく、人間の精神と自覚そのものが「存在」を作り上げているのだということが、今や、現実に証明されつつあるのです。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

    つづく




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    先回のつづきです。

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     それでもあなたは医者を信用しますか?

    ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。

    最終更新日 2005年2月1日

    https://web.archive.org/web/20050228095921/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page2.html#5
    より
    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー


    5.生きている物質「モネラ」 
    6.消化・造血の仕組みも知らない医者
    7.医学常識、これだけのウソ!
    8.医者のイメージは虚像

     


    5. 生きている物質「モネラ」

    フィルヒョウやメンデル・モルガンの生命不変説にたいし、生命を動的・発展的に捉えるオパーリンやダーウインの考え方があります。

    ダーウインは『進化論』で、「自然環境に適応できるものだけが生き残れた」、オパーリンは『生命の起源』で、「生命は物質の集合、融合、分化発展というプロセスの中から発生する」と説き、それぞれ、生命の本質に迫る優れた理論を展開しています。

    ただ、これらの理論も詳細に見ていくと、肝心なところが欠落していることは明らかです。

    たとえば、メタン・アンモニア・水、その他一、二の無機物をフラスコに入れて火花放電すると、たしかに蛋白質ができます。

    この事実から、無生物から蛋白質が生み出されることは証明できるのですが、では、その蛋白質がどうして生命を持つにいたったのかという点については、オパーリンの説では説明不十分なのです。

    同じくダーウインも、その辺のところは明確な言及を避けています。


    ところが、この問題について、前世紀の偉大な哲学者であり、ダーウイン進化論の熱烈な信奉者であるドイツのヘッケルが、「モネラ」という概念を提唱しています。

    ふつう細胞は中心に核があり、そのまわりに蛋白質のかたまりであるコロイド状の細胞質があり、さらにそれを包む細胞膜がある、という構造をしています。

    そういうはっきりとした形態を整えた細胞にまで進化する前段階として、"核のない細胞"という存在を仮定してもよいのではないか、という考え方で、ヘッケルは、その核のない細胞を「モネラ」と名づけたのです。


    つまり細胞になりきっていないが、いずれ細胞に発展するであろうという、細胞の前段階の状態のもの、いわば「未完成の細胞」という発想です。

    現代医学・生物学はこのような考えにはまったく関心がありませんが、じつは、これは非常に重要な概念です。


    そしてこれと同じような概念を、ロシア(旧ソ連)の医者であり、生物学者であるレペシンスカヤ女史も、「生きている物質」と名づけて提唱しているのです。

    レペシンスカヤは、卵黄の表面に発生する赤血球に注目することでその概念をえました。


    ニワトリなどの卵が孵化するとき、よく見ますと、黄身の表面に赤い斑点がいくつも出てきます。

    それがお互いにつながって網目状になり、日がたつにつれて、その網の目は細かくなっていきます。

    しかもその網は単なる筋ではなく、中が空洞になっています。


    そのチューブの一部がやがてふくらんできて、拍動をはじめる、するとチューブの中を、血液が一定方向に移動するようになります。

    それを観察したレペシンスカヤは、とくに卵の黄身の表面に赤血球が寄り集まって、赤い点になっているところに注目しました。

    顕微鏡で見ると、立派な細胞の形をしています。

    そこでレペシンスカヤは、「これはいったいどこからきたのか?」という、重大な疑問をもったのです。

    そんなものは、もともと卵にはなかったことは事実です。

    卵の黄身しかなかったのに、孵化しはじめると赤い斑点がいっぱい現れてきたわけです。


    「細胞は細胞から」という説が本当ならば、この赤い斑点となっている細胞の、その最初の第一個目の細胞は、あらかじめ卵の中に潜んでいたと考えなければなりません。

    そうでなければ、「細胞は細胞から」という考え方に反することになるからです。

    でも、途中から赤い斑点が現れているのが事実ですから、はじめから赤血球が存在したなどということはありえないわけで、「細胞は細胞から」というフィルヒョウの考え方は、やはり間違っていたのです。


    じつは、赤い斑点となった最初の細胞は、卵黄のなかから生み出されてきたものです。

    卵の黄身というのは、私たちが卵黄球と呼んでいるブロック状のものからできています。

    これは核も細胞膜もないので細胞ではありません。

    その細胞ではないものから、赤血球という細胞が生み出されている、これはもう、卵黄球が赤血球へと発展していっている、としか考えようがないわけです。


    「卵黄は生命体? 物質?」ということは議論の分かれるところですが、今の段階では、物質(有機物質)だとみなす考え方が支配的です。

    そうしますと、卵黄球という有機物質から「生命」が生まれたということになり、レペシンスカヤが、卵黄球は「生きている物質」ではないかと考えたことは正しかったのです。


    無生物と生命体という大きく異なった存在を、連続相として捉える上での"つなぎの概念"として、この考え方はきわめて重大なポイントを示唆するものです。

    生命現象を固定的思想ではなく、発展的思想で捉えていこうとするには、ヘッケルの「モネラ」という概念、およびレペシンスカヤの「生きている物質」という、二つの概念を導入しなければならないのです。


    このような概念とまったく相容れない、フィルヒョウ理論に固執する現代医学は、生命現象の因果関係が説明できないという、医学としては致命的な欠陥があるわけです。

    現代医学とはいえ、その実態は100年以上も昔の古色蒼然たるもので、早急な改革が望まれることはいうまでもありません。

    森下先生は、「科学の目覚しい発展とは裏腹に、医学の本質的な部分は、ヒポクラテス(医学の祖と呼ばれる)のギリシャ時代からほとんど進歩していない」と述べておられます。




    6. 消化・造血の仕組みも知らない医者

    つぎに、ひき続き森下先生の学説を適宜引用させていただいて、現代医学、およびそれを実践する医者たちがいかに無知であるか、具体例を見ていきます。


    病気になって医者や病院へ行ったとき、必ず受けさせられるのが検査です。

    とくに最近は検査の重要性が強調され、医者もさかんに検査をうけるよう薦めています。

    しかし、いくらCTやMRI、エコー、内視鏡などのハイテク機器で検査をしても、はっきりいって病気の原因を突き止めることはできません。

    検査で見ているのは病気の症状であって、病気そのものではないからです。


    一方、画像による検査のほかに、生体から組織を切り取って調べる病理学や疫学の検査があります。

    組織を特殊な機械でごく薄い切片にする、それをアルコールで固定する、それに色をつけて顕微鏡で眺める、というようなことを行っていますが、これはほとんど無駄で無意味な作業です。

    そんな不自然な操作を加えると、細胞が異常な代謝を始め、切り離されたために、生体内の組織とはまるっきり違った状態に変化するのです。


    そもそも部分とか局所というものは、全体の中にあってこそ意味を持つものです。

    統合体の一部分という意味での局所は意味を持っているけれども、切り離されてしまったら意味はなくなってしまうのです。

    第一、全体の中の一部分であるからこそ局所といえるのであって、切り離された局所というのは言葉の上でも矛盾しています。

    そんなものは所詮存在しないのです。

    全体から切り離された局所はもはや局所でさえない、それ自体が独立した、まったく別物になっているからです。


    生命問題を扱うにあたっては、この全体と部分との密接不可分の関係を、しっかり理解しなければならないのです。


    一時的でしかも局所的な検査では、全体をたえず変化させている、人体の動的な基本構造はわかるはずがありません。


    じつは、病気を発生させる根本要因は、成分が刻々と変化しながら、全身の隅々を循環している血液が質的に悪化することにあるのです(五章と六章に詳述)。

    これを検知するには、血液が体のどこで、どのように造られているかを知っていなければならないのは当然です。

    ところがなんと驚くべきことに、医者のほとんど(95%以上)がその実態を知らないのです。


    トテモ信じられないと思う方は、かかりつけの医者にでも質問してみてください。

    ほぼ間違いなく、「血液は骨髄で造られる」というはずです。

    私自身、つい最近のテレビの健康番組で、テレビ出演が多いため有名になった医学博士が、臆面もなくそういっていたのを見たばかりです。


    血液は骨髄などで造られているのではありません。

    血液は小腸で造られているのです。

    胃のなかで、胃液や膵液によってあらかた消化された食物は、さらに腸の運動によって撹拌されてドロドロになり、それがしだいに絨毛組織(腸粘膜)のなかに取り込まれていき、腸の内壁をビッシリ覆っている絨毛上皮細胞と混ざり合って渾然一体となり、本格的な消化作用が行われます。


    この絨毛組織内の消化の工程が完了すると、やがてそこに、赤血球母細胞というものが現れてきます。

    これはその名のとおり、赤血球の母親ともいうべきもので、なかに数十個の赤血球をすでに孕んでいます。

    それらが新生の赤血球となり、腸壁のすぐうしろを通っている毛細血管内に放出され、血流に乗って全身をめぐっていきます。

    赤血球はやがて白血球に分化し(一つの物質がべつの物質へ変化、発展すること)、白血球はさらに、リンパ球と顆粒白血球に分化します。

    そして白血球のうちの顆粒白血球が、体の各部分の組織細胞を造っていくというのが、消化作用をめぐる一連の循環的な仕組みなのです(細胞分裂という事実はありません)。


    これに対して現代医学は、絨毛組織を単に栄養を吸収する役目を果たすに過ぎないもの、つまり食べ物が消化された後、たんぱく質はアミノ酸に、糖はブドウ糖にというように分解され、それらがこの膜を通して吸収されるだけ、と考えています。

    ようするに腸粘膜を静的、受動的な存在と見ているわけで、消化物をアメーバのように貪欲に自分の組織に取り込む(森下説)という、動的でダイナミックな実態とは、ぜんぜん異なった捉え方をしているのです。


    消化作用の本質は、食べ物をただ分解して栄養素を吸収するのではなく、食べ物という単なる物質を、血液という生命体へと質的に変化、発展させる組立作業であり、まさに驚天動地の働きなのです。

    この組立作業の過程で、食べ物が消化液の影響を受け、同時に消化管に存在する多種多様の微生物、および酵素などと渾然一体となって、絨毛組織の表面にべったり付着する、その状態にある食べ物がヘッケルの名づけた「食物モネラ」であり、レペシンスカヤのいう「生きている物質」なのです。

    そして、これがやがて「血球モネラ」というものに変化していき、最後の段階で、「赤血球」の誕生となるわけです。


    なお、断食をするなど、食べ物が摂取できないときなどに、体内の赤血球を一定量に保つため、骨髄組織が崩壊して血球に逆戻りすることがあります。

    これはいわば『代償性』の造血であり、本来の『生理的』造血とは無関係です。

    現代医学は、消化というものを一貫した連続相として捉えられないために(分割思考の宿命)、こうした見誤りを犯しているわけです。


    ここに食物=血液=体細胞という因果関係が成立するわけで、「人体は食物の化身である」、とはっきり断言できるのです。

    この重要な事実を知らないとすれば、医者としての資格が問われてしかるべきではないでしょうか。


    現実が示すとおり、西洋医学の医者で、病気予防や健康維持のための最重要対策として、食生活の指導を徹底して行っている医者はほとんどいません。

    そのためほとんどの医療現場において、病気の原因の表示箇所にすぎない症状をあれこれいじくりまわし、細かく分割、分類し、それらに無意味で紛らわしい病名をつけ、その場かぎりの処置をする、その過程で診断ミスが起きたり、薬の処方を間違えるといった、まさに的外れとしかいいようのない診療が行われているわけです。


    腸造血を医学教育で義務づけないかぎり、いつまでたっても慢性疾患の増加を食いとめたり、医療ミスの典型ともいえる医原病(医学、医者の無知な医療行為が原因で引き起こされる病気)の発生も阻止できないことは、火を見るより明らかです。




    7.  医学常識、これだけのウソ!

    造血問題以外にも、医学常識の誤りは数え切れないほどあります。

    つぎに、それらがじっさいに医療現場で適用され、その結果、的外れで危険な治療法が行われる例をあげます。

    じじつ、それが原因で患者を死亡させてしまうケースはしばしば報道されています。



    ★「高血圧は塩分の摂りすぎ」のウソ
    まず、塩分のナトリウムは体に不可欠のものです。

    栄養の吸収を助ける、細胞の形を正しく保つ、体液の量を調節する、腎臓で尿を作る、体の機能を統合、調整する神経系を正常に維持するなどの働きがあり、やみくもに減塩をしてナトリウムが不足すると、この重要な働きに支障をきたすため、体力や免疫が低下し、健康を損ねるどころか新たな病気を誘発したり、命の危険にさらされることさえあるのです。

    ○×式の頭しかない医者は、高血圧の患者に対し、とにかく血圧を下げることだけにこだわります。

    たいてい塩分のカットを指示しますが、患者がそれに従わなければ、「降圧剤」を処方するでしょう。

    このとき、ほとんどの医者が第一に選択するのが利尿剤です。

    これは、血圧が高くなるのは血管を通る血液の量が多すぎるため、手っ取り早く血圧を下げるには、体内の水分をできるだけ排泄して血液を減らせばいい、だから利尿剤で水分を多く出すという、なんとも姑息な、というより部分にとらわれた処置が取られるわけです。


    ここで明らかなことは、血液の全体量は減っても水分はもっと減るため、血液の濃度が高くなり、血栓を起こしやすくなるということです。

    利尿剤の副作用に脳血栓が指摘されているのは、このような因果関係があるからです。

    脳血栓で命を落とすより、血圧が高いほうがいいのです。

    ようするに減塩も降圧剤も、的外れな処置であることがおわかりでしょうか。


    それに、もし塩分過剰というなら、カリウムをほどよく補給することです。

    正確にいうと、ナトリウムとカリウムの比率が1対0.6であれば理想的で、これによって安全に、血圧が正常に保たれるでしょう。

    味噌汁の塩分を気にするより、ほうれん草などの野菜を入れた、具だくさんにすればなんら問題はありません。

    ナトリウムやカリウムは少々過剰に摂取しても、ふつうは適量だけが吸収されて、余分な量は腎臓から尿へ、速やかに捨てられる仕組みになっています。


    医者が栄養学を勉強していないことは事実ですが、この程度の知識はあるとは思います。

    ところが、栄養指導だけで終われば、医療保険の点数はゼロになり、医者は無報酬になります。

    好んでタダ働きする医者などいるはずがないわけで、これは医者個人のモラルというより、医療保険制度に問題があるといえます。

    医者が薬を出すしか能がないのは、現状では仕方がないのです。


    高血圧の治療には、利尿剤のほか、血管を収縮させる平滑筋の働きを支配する自律神経ブロッカーがあります。

    交感神経をブロックすれば、血管の締め付けが緩み、血圧が下がるだろうという考えですが、交感神経は平滑筋だけを支配しているのではありません。

    骨格筋もその支配をうけており、その上、一番無視できないのは脳への影響です。

    じじつ、交感神経の働きが鈍ると、うつ病を引き起こすことがあるのです。


    最近では多くの医者もこのことを知るようになり、神経ブロッカーの代わりに、比較的副作用が少ないカルシウム拮抗剤が使われているようです。

    しかし、これもやはり、血管を収縮させるカルシウムの作用を弱めるのが目的であり、問題は血圧に関係のある筋肉だけに作用するのではなく、ほかの筋肉の収縮力も弱めてしまい、全身にさまざまな悪影響を与えるということです(気力がなくなるなど)。


    血管を正常に保つための安全な方策は、カルシウムの摂取量を管理する、もっと具体的にいうと、カルシウムとマグネシウムの比率を2対1にすることです。

    マグネシウムには動脈を弛緩させる作用があり、これによって拮抗剤を使用しなくても、バランスが保たれるようになります。

    またマグネシウムには、ナトリウムやカルシウムを細胞の外へ出したり、血管筋肉を緩める働きがあるため、高血圧だけではなく、不整脈なども予防してくれます。


    しかし、なんといっても高血圧の最大の原因は、血液の質そのものにある、つまり血液がネバネバになることです。

    そしてそれは、肉や卵などの動物性蛋白食品の多食によって、血中のコレステロール、酸類、窒素化合物が増えると起きやすくなります。

    このことから、動物性蛋白食品を極力控えることが、高血圧予防の根本対策であることがおわかりだと思います。

     
    話が脱線してしまいましたが、ではなぜ、これほど間違った治療法が「医学常識」となってしまったのでしょうか。

    それは、「疫学」という学問に限界があるためです。

    疫学とは、伝染病の流行動態を研究する医学の一分野で、広義では、集団中に頻発する疾病の発生を、生活環境との関係から考察するものです。

    わかりやすくいうと、統計から病気の原因を考えるわけですが、このやり方には大きな盲点があります。

    ある病気が特定の地域やグループに多く発生しているからといって、そこに確実な因果関係があるとは限りません。

    このことについて、日本の「分子栄養学」の創設者である故三石巌博士は、著書でつぎのように述べておられます。



    「たとえば1981年に、アメリカ政府は疫学の統計を根拠にして、『エイズはホモセクシュアルの病気である』と発表した。

    エイズの分布がホモセクシュアルの人々に偏っていたためだ。

    しかし今では、エイズが誰でも感染しうる伝染病であり、ホモセクシュアルだけに特有の病気ではないことは誰もが知っている。

    これが疫学の持っている限界である。

    統計的なデータというのは、見方によって引き出される結論が違ってくる。

    しかも研究者は、統計から何か結論を引き出そうとする思いが強いため、自分の仮説を支えるような、都合のいいデータだけを採用し、都合の悪いものを無視することが珍しくない。

    したがって、疫学調査だけで病気の原因を確定することはできないのである。

    綿密な実験に基づく客観的な裏づけがなければ、仮説はどこまでいっても仮説でしかない」

    高血圧に対する塩分過剰原因説は、高血圧が多いとされる東北地方のある県で、一人当たりの食塩摂取量が、当時の栄養学者の見解である「一日10グラム以下」という基準を上回っていたため、短絡的に食塩が犯人であるという結論が下されたわけです。

    しかしこのときの調査では、結論と矛盾する事実がたくさんありました。

    個別のデータでは、食塩の摂取量が少ないのに血圧が高い人、摂取量が多いのに血圧が低い人などがいたのですが、こういった個人差や、同じ東北地方でも、リンゴの生産地では高血圧は少なかった事実は、研究者にとって都合が悪かったために、例外として切り捨てられてしまったのです。



    ★「血糖値を下げれば糖尿病は治る」のウソ
    ものを食べれば血糖値があがるのは当たり前です。

    ただ、ブドウ糖が細胞のなかに取り込まれなければエネルギーとなって消費されず、血中に留まったままになります。

    ブドウ糖が細胞に入るには、膵臓で作られるインスリンというホルモンが必要です。

    ところが、生まれつきインスリンの分泌がよくない人、あるいはアルコールの飲みすぎなどで膵臓が弱っている人がいて、こういう人はタイプ?T型の糖尿病と判断されます。

    しかし、タイプ?T型は糖尿病患者全体の1割しかいません。

    残りの9割はタイプ?U型で、このタイプの患者は、インスリンにはまったく問題はありません。

    タイプ?U型はインスリン非依存型と呼ばれ、このタイプの患者の問題は、肥満、運動不足、栄養素のアンバランスなどの理由で、細胞膜のレセプターの感度が鈍いことです。

    レセプターがうまく機能しないと、インスリンもブドウ糖も細胞のなかに入り込めないのです。

    ところがたいていの医者は、画一的なマニュアルに従がって、とにかく血糖値を下げるということしか頭が回らず、インスリンの投与だけでよしとする、これが怖い結果をもたらすことになります。


    タイプ?Tの患者に対しては、血糖値にぴったりの量のインスリンを投与しなければなりません。

    もし少しでも投与量が多いと、血中の糖が激減して、昏睡状態を招く危険性があるからです。

    一方、タイプ?U型には、インスリン投与は問題を複雑にするだけで、治療にはなっていません。

    それどころか、インスリンが逆に余ってしまい、これが肝臓へ運ばれて中性脂肪になります。

    中性脂肪が血中にたまるとコレステロール値も高くなり、体のあちこちの血管にヘドロ層をつくっていき、動脈硬化、眼底出血による失明、腎臓障害などの合併症を引き起こすわけです。


    糖尿病への対策は、合併症を起こさないことです。

    血糖値が高いと診断されても、それが直ちに深刻な事態を招くわけではありません。

    合併症は、免疫やSODなど、活性酸素と闘う物質が不足すると起きやすくなります。

    そのような物質が体内に十分用意されていれば、合併症はそれほど簡単には起きないものです。

    そしてそういう物質を体内でつくるのが、カロチノイド、ポリフェノール、ビタミンCやEなどの微量栄養素と呼ばれるものです。



    ★ 「喫煙は肺がんの原因 」のウソ
    この学説(?)はもともと、ネズミにタバコを吸わせる実験に由来しています。

    人間に換算すると、なんと200本ものタバコを口に無理やりくわえさせ、数日間続けて吸わせたのです。

    確かにネズミには肺がんが発生しました。

    しかしこれは、ネズミにはタバコを吸う習慣がないという、当たり前の事実を無視しています。

    ネズミは想像を絶するストレスを感じたはずで、必ずしも、喫煙そのものとの因果関係が実証されたわけではありません。

    また、肺がんが発生したのは100匹中、わずか数匹だったのです。

    その程度の率なら、タバコを吸わせなくても肺がんは発生します。

    そういう意味では、この実験結果は、むしろ喫煙と肺がんには因果関係はない、ということを証明したという見方もできるわけです。

    そしてなんと、この実験を根拠にして喫煙と肺がんを直接結びつけたのは、国立がんセンターの疫学部長だった人物です。

    いかに権威や肩書きが当てにならないか、まさにそれを象徴するような話ではあります。


    人間も大量のタバコを吸えば、たしかにビタミンCは減ります。

    しかし、それが直接肺がんの発生の原因になるわけではありません。

    じつは、肺のなかにもちゃんと肺胞マクロファージという、活性酸素除去酵素が存在します。

    これがいわゆるスカベンジャーと呼ばれるもので、ゴミや不純物を取り除く役目を果たしています。

    そしてスカベンジャーを最も酷使するのは、タバコよりむしろ大気汚染なのです。

    タバコを吸わなくても、汚染された空気を吸っていれば、そのほうが肺がんのリスクが高まることが、最近の調査で明らかにされています。

    そして、肺がん治療に必ずといっていいほど使用される抗がん剤は、この大切なマクロファージだけではなく、それを含めた免疫細胞全体の働きを低下させ、がん細胞を殺すより、逆に増殖するという、なんとも皮肉な結果を招くことになるのです。



    以上のことから判断するだけでも、高血圧、糖尿病、肺がんに限らず、あらゆる病気の原因について、現代医学が誤った解釈をしていることは疑うべくもありません。

    そして本当の原因がわからないため、やることがことごとくピント外れになっているわけです。


    じつはアメリカで、1976年から2年間かけて、国防費に匹敵する巨費を投じて世界中の医学専門家を結集し、病気の原因を徹底的に究明調査したという事実があるのです。

    その結果は意外にも(むしろ当然だったのですが)、「ほとんどすべての慢性病は食源病である」という結論に達しました。

    ようするに、病気の原因は食べ物の誤った摂り方にある、と結論したわけです。

    これを世界に発表したのが当時の上院議員であるマクガバーンで、以来、『マクガバーンレポート』と呼ばれて広く知られるようになったのです。


    もちろん、日本政府や厚生労働省も、このレポートのことを知らないはずはないのですが、なぜかこれまで、国民には一切公表していません。


    私は、もしこれを公表すれば、体制としての医学界の崩壊につながりかねないとの判断から、故意に情報操作をおこなって、情報の攪乱を図っているのではないかと推測しています。

    昨今の医学理論や、栄養学情報が混沌の坩堝と化しているのは、そのあたりの事情を雄弁に物語っているのではないでしょうか。

     
    この章のテーマであるフィルヒョウ(=ウイルヒョウ)理論、細胞分裂、造血箇所、血球分化(体内のすべての細胞は赤血球からできる)などの生理学的事実については、森下先生のご先輩である、岐阜大学農学部、東邦大学医学部教授の故千島喜久男博士の「革新生命科学理論」をぜひご覧ください。

    現代医学理論がいかに間違ったものであるか、よくご理解いただけると思います。




    8. 医者のイメージは虚像

    私たちが医者に対して抱いている先入観は、どうやら、現実とは大きくかけ離れているようです。


    ほとんどの人は、医者になるには高度な学力が必要とされ、医科大学では長期間(8?10年)、厳しい教育と訓練を受けなければならない、それを習得したことを証明するのが医学博士という肩書きであり、仮にも医者と名がつく以上、当然必要な専門知識は持っているはず、と無意識に信じています。

    もし医者がそうした教育によって、臨床医療に十分役立つ知識や技術を習得しているなら、それは正しい認識といえるかもしれません。

    しかし、医者が学ぶ医学理論が基本的に誤っていることは、これまで見てきたとおりですし、西洋医学には、病気(主として慢性疾患)にたいする臨床学的な治療理論など、本来存在しないのです。

    そしてさらに、問題はそれだけではありません。


    じつは、現在行われている医学教育は、何とか病気を探し出そうとしたり、故意に病気を作り出して利益を上げようと企む(これを創造医療といいます)、巨大金儲け企業集団によって仕組まれたものです。

    当然、国と医学界もそれを後押しし、その目的にあったカリキュラムや指導方針が実施されることになります。

    たとえば、つぎがそのことを裏づける実態であり、明らかな証拠でもあります。


    ふつう、大学ではどの学部でも、学問を論理的に考え、あらゆる問題に疑問を持ち、独創性をはぐくむための知識や方法論を学ぶのが通例です。

    ところが驚いたことに、医学部だけはそうではないのです。

    学生が自由な発想をしたり、問題点を議論するなどということは、むしろタブーにさえなっています。

    いわば思考停止のような状態で医学理論をストレートに受け入れ、教官の質問には条件反射的に、紋切り型の返答をするよう指導される、ようするに独断と偏見そのものの医学体系を無理やり詰め込み、学生が判断力を行使できない授業になっているわけで、その実態は、まさに医者の洗脳教育にほかならないものです。


    また、冒頭の『医療ミス』でも指摘されているように、医学部で行われる試験のほとんどはマークシート方式です。

    そのため、学生は医学用語などの単語はおろか、短い文章でさえ書かされることはまずありません。

    理論は頭のなかで理解しているものと、暗黙の前提で試験が行われるからです。

    医者の処方箋や、カルテに書いてある文字が下手くそで読みづらいのは、じつはこれが原因だったのです。

    看護婦や薬剤師は処方箋が読みにくく、間違った薬を出してしまうことがよくあります。

    もしこれが原因で事故が起きても、医者が直接責任を問われることなどありません。

    医者がカルテをわざと殴り書きする理由には、明らかな意図があるのです。


    ご存知のとおり、カルテは病院に長期間保存されます。

    判読が困難な文字のカルテは、時間がたってから調べても、誰が指示を出したのか、記録を書いたのか、突き止めることはほぼ不可能です。

    殴り書きをしておけば、医者は医療ミスの訴訟が起きても責任から逃れられる、そこに本当の狙いがあるわけです。

    これは医者の本性を垣間見た、一つの決定的な証拠ではないでしょうか。


    このような医学教育では、物事を正しく判断し、確固たる倫理観を持った医者が育つはずがありません。

    こういった問題の原因の一つとして、分子栄養学の権威、ロジャー・ウイリアムズ博士はこう語っています。



    「医学界は一種類の医学、つまり現代医学しか知らないため、すべての大学の医学部は基本的に同じことしか教えられない。

    細分化しすぎたカリキュラムはすでに飽和状態になっており、新しい理論を研究したり、試そうとする余裕さえない。

    その結果、医学は、既存の理論が不変の真理だとする因習に縛られやすくなる。

    科学の一分野が正統派として不動の地位を築くと、それはもはや科学ではなくなる。

    真理の探究をやめてしまい、重大な過ちを犯しやすくなるからである」

    医者はまた、長期間の教育を通して、医学にかんしては、自分はオールマイティであるがごとく振舞うすべを身につけています。

    たとえば、患者が処置に疑問を抱いたときなど、医者が決めゼリフのように使う、「医学的知識のない方には、説明してもわかりません」という言葉には、その傲慢な態度が如実に表れています。

    これをあえて口にする医者は、単に権力を患者に押しつけているだけで、じっさいは知識がないことを、私たちは見抜かなければなりません。

    医学や医療の個々の問題について、人にわかりやすく説明できないということは、それらを理解していないことを証明するものだからです。


    こうしたことからも、医者が日ごろ私たちが妄信しているような、学識があって信頼できる、正義感の強いイメージとは程遠い人物であることがわかるはずです。

    ただし、すべての医者がそうだといっているのではありません。

    念のため。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

    つづく

     





     


    0 0

    2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。

     

     

     ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

    それでもあなたは医者を信用しますか?

    ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。



    最終更新日 2005年2月1日
    より

    https://web.archive.org/web/20050228100652/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page3.html

     2.凶器と化した薬
     
      1.「副作用」より怖い「本来の作用」      
      2.天然の化学物質との違い       
      3.製造・販売・使用を直ちにやめよ       


    1. 「副作用」より怖い「本来の作用」

    現代医学理論の誤りについて、おわかりいただけましたでしょうか。

    またそれは、一世紀以上も前の時代錯誤的な代物であるにもかかわらず、科学の名のもと、矛盾や行き詰まりを平然と黙殺、隠蔽して、欠陥医療が続けられているのが現状です。


    閉鎖的な医学界の因習がもたらす弊害のなかでも、薬害はその最たるものです。

    薬についての真実の情報を公開しないため、被害が広範囲に及ぶからです。

    このことは、薬を自由に買える個人単位の問題であると同時に、病気を治療する医療現場における問題でもあります。

    「薬は病気治療の最重要武器」とする誤った医学教育を受けている医者じしんが、薬の処方学を勉強していない、この事実を知っている人は少ないのです。


    しかしじつは、ほとんどの医者は、薬の選択や使用法を、医薬品メーカーにまかせっきりにしています。

    医薬品メーカーから通達される「適応対象」をたよりに、医者はそれとなく薬を使い分けているだけです。

    そんな医者が、手探りで処方する薬をおいそれと飲むなど、あまりにも無防備ではないでしょうか。

    医者の知識に関係なく、薬の成分や組成じたいに問題があること、安全な薬など、ただ一つとして存在しないことを知らねばなりません。

    そういう危険な薬について、つぎに詳細に見ていきます。


    現在使用されている薬の約80%(あるいはそれ以上)は、およそ50年くらい前から開発されたものです(海外ではもっと以前から製造・販売されたものがある)。

    すべて化学合成によって製造されており、その成分は、人体にとって明らかに異物や毒です。

    ただ毒害がストレートに出ないよう、うんと希釈するか中和剤を混ぜて、『対症効果』をあげるように調整されています。


    対症効果ですから、痛みや不快症状を一時的に抑制する作用を持っているだけで、病気を治す効果などみじんもありません。

    つまり薬は、本来期待されるべき目的を果たすものではないのです。

    それにもかかわらず薬を信頼し、常用する人が多いのは、次のような事情があるからです。

          
    「食で治らぬ病は医者でも治らぬ」という古来からのいい伝えどおり、かつて人々は食べ物で病気を治していました。

    ところが近世になって、病気は病原体によって引き起こされ、食べ物では病原体は撲滅できないという西洋医学の思想が主流となり、薬の開発が始められるようになったのです。

    やがて薬事法が制定され、医薬品メーカーがそれに乗じて、「科学的研究に基づいて作られる、病気治療に即効性がある」などと喧伝したため、薬は急速に普及しました。

    一方、生活スタイルの合理性と利便性を求める傾向が進むなか、人々が、食べ物で病気を治すなんて時代遅れで、非科学的で根拠に乏しいと思い込むにいたって、薬への依存が定着してしまったわけです。


    しかし実際問題として、私たちは薬の恩恵に浴しているでしょうか。

    食べ物で病気を治していた頃の人々より健康になったのでしょうか。

    薬の生産量の増加に比例して病気の種類も多様化し、以前には見られなかった難病が数多く発生していることは、FDA(米国食品医薬品局)の調査機関や、その他多くの研究グループによる統計がはっきり示しています。


    分子矯正医学の世界的権威であり、ノーベル化学賞・平和賞を受賞したアメリカの故ライナス・ポーリング博士は、「現代病の多くは薬によって作り出されている。

    この事実に早く気づくべきだ」と警告しているのです。

    分子矯正医学とは、栄養素の種類や分量を調節することによって、分子レベルで細胞の正常な代謝を促すもので、現代医学とは一線を画しています。


    化学物質は複雑な化学構造からなっているため、体内に長期に残留して排泄されにくいだけでなく、服用すると、まず一番に肝臓、腎臓、脳を直撃して、さまざまな障害を引き起こします。

    症状としての現れ方、つまりその場所、時期、度合いなどは、その人の体力、体質、年齢、免疫や自然治癒力のレベル、栄養状態などの違いによって千差万別です。

    これが一般に『副作用』といわれるものですが、ことはそう単純には終わらないのです。


    医薬品メーカーは副作用について、「薬を飲む人の体の状態や、飲んだ薬の組み合わせによって起こる」、「飲む時間、量、回数など、服用にさいしての注意を守らないから起こる」などと説明しています。

    しかしこれは、きわめて巧妙な事実の隠蔽であり、明らかに問題のすり替え、いい逃れです。

    そして、肝心の薬が本来持っている作用については、いっさい明確には公表していません。


    じつは、薬には人工の化学物質特有の作用があり、それは臓器や体表面など、比較的自覚しやすい体の固定組織への影響だけでなく、神経系や免疫系といった、流動組織にダメージを与える可能性を考える必要があります。

    ところが、薬が免疫に及ぼす作用については、現代医学ではまだ未知の部分が多いため、医薬品メーカー側にも、十分な資料があるわけではありません。

    しかし逆に、だからこそ、それは大きな危険性をはらんでいるのではないでしょうか。

    いやじつは、それはすでに解明されているのです。




    2. 天然の化学物質との違い

    分子生物学において、1970年代にアセチルコリン、ノルアドレナリンなどの神経伝達化学物質が発見されて以来、それらが時速360キロのスピードで細胞間を疾走し(全身へ50分の1秒で到達)、レセプター(細胞壁の膜)を中継して、恒常性を保つためのさまざまな目的をもったメッセージを発信、受信していることがわかりました。


    なんと細胞どうしがコミュニケーションをとりあい、体内の異常をすみやかに察知したり、修復したりしているのです。

    しかもそれは関連する細胞の調和とバランスを見計らいながら、絶妙のタイミングで行われます。

    あたかも、それぞれの細胞が意志をもって行動 しているとしか思われないような現象が、現実に起こっているのです(怪我をしたとき、自然に治るのもその一例)。


    まさに神業ともいうべき人体の驚異の一つですが、分割思考の現代医学は、こういった全体的、統合的な生体機能のメカニズムに、ほんの最近まで気づきませんでした(自律神経が白血球の働きを支配していることが、約8年前に、新潟大学大学院・医科歯科総合研究科の安保徹教授によって解明されたばかり)。

    それにもかかわらず、つまり免疫についての知識不足のまま、医薬品メーカーは、ただ体内の化学物質の成分だけを分析し、その結果得られたデータをもとに、それら天然の化学物質を、模倣して作るという愚行を犯し始めたのです。


    ところがその愚行の産物には、とんでもない作用がありました。

    人体にとって異物である薬は、免疫システムによって抗原とみなされ、当然、免疫反応の攻撃をうけます。

    それでも薬は意図された目的を果たすために、その周辺すべての細胞のレセプターを先回りして一方的に占拠し(神経伝達をブロックし、鎮痛効果をもたらす)、免疫系や神経系を強引に混乱させ、抑制してしまうのです。


    つまり体と親和して「話し合う」のではなく、逆に体を襲撃する、といえばおわかりでしょうか。

    化学的組成は似ていても、この点が体内の天然の化学物質と決定的に異なるわけです。

    その結果はいうまでもなく、体内のいたるところで異常が発生し、思いがけない病気が誘発される危険性を秘めることになります。

    これが薬の本来の作用であり、それはどんな薬にもあります。


    免疫系や神経系は、自然の英知が与えたすばらしい生体防衛機構です。

    科学が今後どんなに進歩しても、このシステムをコントロールする天然の化学物質と同じものを発明したり、製造することは絶対に不可能です。


    私たちは、最高の"薬局"をすでに体内にもっているのです。

    それをわざわざ妨害する乱暴で不器用な人工薬剤は、文字通り「百害あって一利なし」であり、そんなものを使用するなど、どう考えても理にあうはずがないのです。

    薬物治療はまさに『化学的ロボトミー』(薬による前頭葉切除)であり、人間の尊厳を明らかに奪うものです。




    3. 製造・販売・使用を直ちにやめよ

    副作用の話に戻って、肝臓や腎臓は毒物の代謝機能を担っているため、薬を飲むとそれらの細胞の免疫システムが発動され、抗体反応として吐き気、めまい、倦怠感、催眠、発疹、発熱などの症状が現れます。

    このとき、すでに病気にかかっていたり、体力やほかの臓器(脳、心臓など)の生理機能が弱っている場合は、そのままショック死に至ることも珍しくありません(いわゆるアナフィラキシーショック)。


    これが比較的早期に現れる副作用で、それとはべつに、じわじわと長い時間をかけて体を冒していく副作用があります。

    この場合、自覚症状がほとんどないため、副作用が進行している事態になかなか気がつきません。

    そして無意識に薬を飲み続けているうち、ある日突然異常が起きてしまい、すでに手遅れだったというケースもよくあります。

    これが副作用なのか、先に述べた本来の作用なのか、症状からだけで区別するのは困難です。


    これは決して他人事ではありません。

    たいていの人が何の疑いもなく飲んでいる、 ごく普通の風邪薬でさえ、重大な副作用が出ることがあります。

    もちろん 死亡例もかなりあるのですが、あまりピンとこないのは、医者や製薬メーカーが報告義務を怠っていたり、死亡の原因を「病死」と偽って報告したり、患者側もまさか副作用とは気づかずに、泣き寝入りしているなどの理由によるものです。

    薬はまさに『静かな凶器』であり、本当に恐ろしいものなのです。


    不幸なことに日本では、薬を多く処方する医者ほど、「いい医者、親切な医者」だと錯覚する悲しい現実があるといわれています。

    これではまるで、自分の命を犠牲にして医療機関の経営に寄与し、薬害の拡散に一役買っているも同然です。


    意外なことに、西洋医学の本場といわれるアメリカには、日本の医者なら猛反発しそうな、『ドクターズ・ルール』という権威ある医師用テキストがあります。

    次がその主要項目です。



        できればすべての薬の使用をやめよ、困難ならできるだけ多くをやめよ
        薬の数が増えれば副作用はネズミ算式に増える
        4種類以上の薬を飲んでいる患者は、医学知識の及ばない危険な状態にいる
        高齢者のほとんどは薬を中止すると体調がよくなる

    ところが日本では体制擁護優先のもと、国が対策を怠っているため(薬事法規制が緩慢、医学教育の誤りを放置するなど)、依然としておびただしい量の薬が患者に与えられています。


    ちなみに日本の薬剤費は世界一(年間医療費全体の三分の一にあたる7兆円)に膨張し、国民一人当たりで換算すると、イギリスの3.2倍、アメリカの1.6倍、ドイツの1.5倍となっています。

    さらに、国際的に効能が認可されている薬は500種であるのに対し、日本ではなんと、その30倍の15,000種が認可されているのです。


    このままでは、薬害が今後も増え続けることは必至です。

    今こそ行政や医薬品メーカー、医者、医療関係者のすべてが薬害の実態を率直に認め、無益で危険きわまりない薬品の製造・販売・使用をやめるべきです。

    しかしそのためには、需要と供給の必然性、経済の動揺や混乱の回避、大企業の経営保護優先などの問題を考慮しなければならず、一朝一夕に実現することは無理かもしれません。


    できれば私たち一人ひとりが、薬に対する認識を高め、安易に薬に頼らないことが、問題解決の近道ではないでしょうか。

    これについては後述します。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー




    づつく

     

     

     


    0 0

    以前紹介したことのあるHPでしたが、いつの間にか消滅していました。

    それがunexpected(ひょんの)ことから発見したweb上の魚拓です。

    内容に、いまでもビックリする人がいるかと思いまして・・・ギョ拓にしました。

     

    2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。

     

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     

     それでもあなたは医者を信用しますか?


    ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。

    最終更新日 2005年2月1日

     https://web.archive.org/web/20050228095921/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page2.html#5      


    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     


     2.凶器と化した薬
     


      4.免疫・自然治癒力の正体とはたらき 
      5.薬害の本当の犯人とは? 
             


    4. 免疫・自然治癒力の正体とはたらき

    免疫や自然治癒力は、言葉こそよく耳にするわりには、一般に軽視される傾向があります。

    しかし、さまざまな悪条件のなかで、私たちがそう簡単に病気にかからないのは、それらが正常に働いているからにほかなりません。

    たとえば私たちの体内では、毎日、数千個から数万個ものがん細胞が出現しています。

    にもかかわらず、そうやすやすと発病しないのは、免疫にかかわる白血球の成分であるNK細胞が、がん細胞を見つけだし、殺してくれているからです。

    現代医学は免疫のメカニズムがまだよくわからないため、病気と症状とを明らかに混同しています。

    そして薬で症状が消えると、それで病気が治った、あるいは治せると錯覚しやすいわけです。

    いや、げんにそのように信じているのです。


    症状というものは、免疫や自然治癒力が働いていることの証しです。

    つまり症状は、体を正常な状態に戻そうとしている一時的な現象(いわゆる自然療能の発露)だと捉えるべきで、それを病気そのものと誤って解釈するから、薬という概念が必要になってくるのです。


    また、バクテリアやウイルスなどの病原体が、外部から人体に侵入してきて病気を引き起こす(現象の見誤り→第四章で解説)という考えから、まだ仕組みがよくわかっていない免疫に頼るより、手っ取り早く病原体を退治すればいい、このような論理が、次から次へ新しい薬品を開発する大義名分ともなっています。


    しかし、新しい薬品ができるたびに薬剤耐性菌が増殖し、病原体とのいたちごっこになり、際限のない闘いを強いられる、それを繰り返しているうち薬品の純度が強化され、正常な細胞にますます大きなダメージを与えることになります。


    医薬品メーカーは、「副作用をなるべく軽減する研究や努力もしている」などといっていますが、そんな矛盾したことができるはずがありません。

    純度が高い、つまり効き目が強い薬は、副作用も強くなることは避けられないのです。

    その明白な事実を何とか隠すために、難解な理論をでっち上げたり、いい繕ったりしているのが実情です。

    こうして現代医学は問題をかえって複雑にし、取り返しのつかない迷路に足を突っ込んでしまっているわけです。


    それもこれも、やはりもとをただせば、人体の基本構造を理解していないことに起因しています。

    ようするに造血の仕組みがわからない、すると病気の原因が体内にあることに気づかない、けっきょくは原因を外界に求めざるをえない、という悪循環です。


    前章でご説明した食物=血液=細胞、これが体の生理構造の基本中の基本です。

    それを医者や医学者が知らない、これはじつに由々しき問題です。

    紛れもない事実ですから、ぜひご自分でお確かめください。


    血液と細胞は別のものとして、切り離して考える現代医学は、同じ分割思考パターンによって、赤血球と白血球も別のものと考えています。

    じつは、この二つは同じものです。

    誤解のないように正確にいいますと、赤血球から白血球が誕生、生成されるのです。

    この事実は動かぬ証拠として、森下博士によってカラーフィルムに撮影され、記録されています。

    白血球は、「流動」、「分割」、「発芽」といわれる三つの方式で赤血球から新生され、それがさらに顆粒白血球とリンパ球に変化していきます。

    リンパ球とは、赤血球の細胞質から核が独立したもので、それを新たな細胞膜が包んだものが顆粒白血球です。


    これを知らない現代医学は、白血球は骨髄で、リンパ球はリンパ腺で作られるなどと、苦し紛れに事実に反することを平気で主張しています。

    そのために、つまり血液の生成や分化という連続相を分割して見ているから、白血病の正体がわからなかったり、がんの発生のカラクリもわからないわけです。

    じつは、白血病は白血球の、がんはリンパ球の、それぞれの細胞が病変することから引き起こされるものです。


    免疫とは、白血球(つまり顆粒白血球とリンパ球)の成分である好中球、マクロファージ、ヘルパーT細胞、キラーT細胞、B細胞などが、それぞれ"警備"、"捕獲"、"戦力増強"、"抗体ミサイル"などと称される役割を果たし、それらを統合して異物や細菌や病原体を攻撃し、殲滅するというものです。

    この免疫システムが正常に働くことによって、がん、白血病に限らず、その他の慢性病にもかからないよう体が防衛されるのです。


    たとえば風邪を引くと熱が出ます。

    発熱は代謝レベルを上げますから、ひどく体力を消耗させ、しんどいものです。

    しかし、発熱は免疫の正しい反応と見なければなりません。

    なぜなら、体温が上がると白血球が増えやすいからで、それは直ちに免疫力の強化につながります。

    つまり発熱という現象は、体内の不純物(異物や病原体など)に対処するための態勢を整えているシグナルなのです。

    また、しんどくて食欲がなくなるのは、体が余計なエネルギーを消費しないよう、中枢神経へ命令が出ているからです。

    体を動かしたり、内臓が消化や吸収をおこなうにも、多くのエネルギーを必要とします。

    そういう活動をすべて一時的にやめ、不純物や体内で発生した病原体との闘いに全力を傾けるために、これらの不快な症状が現れる、このように判断するのが正しいわけです。


    このとき、解熱剤や抗生物質を服用するのは、まさに愚の骨頂です。

    せっかく免疫が働いて風邪の原因を撃退しようとしているのに、無理やり熱を下げて代謝レベルまで下げてしまい、その当然の結果として体の抵抗力を奪い、免疫の邪魔をする、これでは風邪の根本原因を除去できないのは、あまりにも自明の理です。

    そればかりか、薬の副作用のせいで、別の症状や病気を引き起こす危険さえあります。

    とくに抗生物質は、大切な腸内細菌を殺すため、おなかの調子がおかしくなったりします。

    すると今度は胃腸薬が必要となってきて、それがまた別の副作用を引き起こす、こうして薬漬けの悪循環が始まることになるのです。


    医者は風邪に対しては、必ずといっていいほど解熱剤や抗生物質を処方します。

    これがいかに誤った処置であるか、もう説明の必要はないでしょう(解熱剤や抗生物質では風邪は治らないのは実証済み)。

    だから風邪を引いても医者へ行ってはいけない、薬を飲んではいけない、この道理、もうおわかりですね。


    「では風邪を引いたとき、どうすればいいんだ?」という声が返ってきそうなので、絶対安全で、しかも100%風邪が治る方法をご紹介しましょう。



        まずその日は絶食し、寝床に入ってじっと体を休めます
        部屋を暖め、熱があれば、タオルを水に浸して額に乗せます。

    タオルが暖かくなったら、また水で絞ります 
        脱水状態にならないよう、水分(白湯がいい)をこまめに補給します。

    かんきつ類の果物を少量食べます 
        就寝前に、少量の味噌にねぎとしょうがをみじん切りにして加え、これに熱湯を注いで飲みます 
        咳、鼻水、頭痛などの症状があっても我慢して、薬は飲んではいけません

    これでぐっすり寝て、翌朝目を覚ませば治っているはずですが、万一治らなければ、もう一度同じことを繰り返せばいいのです。

    遅くても、二、三日で治ります。

    薬の誘惑に負けると、かえって病気そのものがこじれてしまって、本当の意味での回復が長引くことを、ぜひ知ってください。


    血液生成の話に戻って、このプロセスを一元的に見ることによって、免疫の健全性は、つまるところ赤血球の質的レベルによって決まる、だからその赤血球の材料になる食物が、いかに大切かということが明らかになりました。

    一方、生体の防衛に不可欠のエネルギーである自然治癒力は、細胞が正常な代謝を行うことによって生み出されます。


    こうしたことから、免疫も自然治癒力も、その大元になっているのは血液と細胞であり、両者が互いに関連しあって、合目的的に生体を維持していることがわかります。

    その過程において、一つの物質が別の物質に分化(変化、発展するという意味の専門用語)したり、またもとの物質に逆戻りしたり、分化の途中のままであったりと、たえず変化、流動を繰り返しながら、ときには一時的な休止状態の様相を示すこともあります。


    固定的で排中律的な現代医学は、この流動的な生命現象の、ある特定の瞬間の様相だけを見て解釈しようとするため、移行状態にある中間相を見落としがちです。

    たとえていうなら、白と黒との間の灰色の部分を軽視して、白と黒という、現象の明確なポイントだけを峻別する志向性があるわけです。

    しかし、じつは生命現象の灰色の部分にこそ、しばしば因果関係を知る上で、重要な秘密が潜んでいるのです。


    免疫細胞の生成過程や活性化なども、その灰色の部分でめまぐるしく展開されているため、現代医学がなかなか気づかなかったのも当然であり、やっと最近になって、安保教授らによってその仕組みが解明されたことは、現代医学にとって、まさに僥倖だったとしかいいようがありません。

    こんな言い方は、安保教授に失礼に当たるかもしれませんが・・・。

    しかし現時点では、免疫理論が医学界ぜんたいに浸透するまでに至っていないことから、免疫をよく理解し、その知見を臨床現場で活用する医者は、きわめて少数派です。

    いわんや自然治癒力については、その実態は何もわかっていないのが実情なのです。

    以下、自然治癒力についてご参照ください。


    細胞はその一つ一つが呼吸をしています。

    細胞が呼吸をすることによって、有機物を単純な化学構造の物質、つまり水や炭酸ガスに替えていく、その過程でエネルギーが生み出される、という仕組みです。

    細胞が健全な呼吸ができないと発酵現象を起こし、これががん細胞などの腫瘍や、炎症に発展していく可能性があります。

    そして、この細胞の代謝に不可欠なのが酵素です。

    現代医学は、酵素は何万種類もあって、すべてを解明するのは現実に不可能であるとしていますが、正味の働きという観点からすれば、酵素の種類は、ほんの二、三であることがわかっています。


    じつは、ピレマーという化学者が、血液中にプロバージンという酵素を発見し、これがあらゆる物質にたいして代謝作用を促進することを突き止め、この酵素を『非特異的生体防衛酵素系』と命名しているのです。

    また、ピレマーが発見したプロバージンのほかに、組織中に余分な過酸化水素が発生するのを阻止し、細胞の正常な代謝を助ける、カタラーゼという酵素の存在も確認されています。


    じつは、これらの物質こそ、自然治癒力の正体だったわけですが、この呼吸酵素というのは大変デリケートなもので、化学物質に触れると必ず阻害されます。

    薬、つまり化学薬剤のすべて、ダイオキシンなどの環境ホルモン、農薬、食品添加物、体内で発生する活性酸素などは、呼吸酵素を確実に破壊します。

    これらのことは現在、すでに生化学や分子生物学の分野では常識になっているにもかかわらず、現代医学はその事実にそっぽを向き、認めようとしないのです。


    また酵素には、その働きを活発にするマグネシウムイオンの助けが必要とされています。

    マグネシウムは植物や野菜に広く含まれるミネラルで、とくに野性味の強い薬草、つまりハーブに豊富に含まれています。

    病気の原因は病原体だとする現代医学には、このような知識もなければ、関心さえありません。

    そのため、植物に含まれるミネラルが、自然治癒力という、細胞のエネルギーを生み出すうえで重要な役割を果たしているなど、夢にも思うはずがないわけです。


    アンドレボーザンという農学者は、「人間の体は土と一体である」(身土不二)という有名な言葉を残しています。

    アンドレボーザンは、土壌の質を研究するうち、農薬、特にカリ肥料を使用すると、農作物からマグネシウムが抜け落ちることに注目した結果、土中のミネラルバランスが狂うと、野菜や植物のミネラルバランスも狂うことがわかったのです。


    生産効率最優先のバイオや農薬によって、ビタミンやミネラルの含有量が激減していることが、農水省の実験テストで判明しました。

    これら微量栄養素の欠乏が慢性病を引き起こす誘因になることは、もう30年以上も前に、分子矯正医学によって実証されています。


    病気になってから薬で対症療法を行うのではなく、病気を未然に防ぐための、こうしたより本質的な病気対策に、国や医学界は率先して取り組むべきだと思います。

    しかし国や医学界にはそのような動きは一向になく、依然として薬の普及や販売促進、とくに新薬の開発にますます力を入れているのが現状です。

    これでは、本当の意味での国民の健康など、露ほども考えてはいないといわれても仕方ないでしょう。

    いやむしろ、国民を騙していると思われる節さえあります。


    最近、「病気を予防しましょう」と、医学界や厚生労働省が、マスコミを通してさかんに呼びかけていることは、たぶんお気づきだと思います。

    しかしこれを聞いて、「なるほど、それは大切なことだ」と思うのは、ちょっと人がよすぎます。

    なぜかといいますと、国や医学界の合言葉を実践するため、大半の医者が薦めるのは、人間ドックや定期検診だからです。

    とにかくこまめに体を検査して、悪いところを早く発見しようというのですが、これは予防ではないのです。

    予防と早期発見とは、意味がぜんぜん違います。

    その違いは、ちょっと冷静に考えれば、一目瞭然ではないでしょうか。


    病気が早期に発見できたからといって、その時点で、すでに病気が発生していることには変わりありません。

    つまり、人間ドックなどで予防できるのは、病気がさらに悪化することだけなのです。

    それになにより、予防が的確にできていれば、早期発見など、する必要はないのです。

    一方で病気の予防を叫び、一方で人間ドックの普及に力を入れる、これは目的と手段が完全に矛盾した、いとも無責任な言動といわざるをえません。


    こういいますと、予防対策は個人的にするのは困難だとか、予防しているつもりでも、万一ということがあるから、早期発見は必要であるという意見が出てきますが、そういった考え方は、じつはある種の錯覚が原因となっています。

    詳しくは次章で説明していますが、ここではとりあえず、病気(慢性病)は治療できないものであること、早期発見のための検査は、ほとんど無意味であることを申し述べておきます。


    そもそも現代医学は、病気予防にかんする明確な学問体系を持っていないことから、医者は本気で、病気が予防できるなどと思ってはいません。

    第一、もし人々が病気予防に真剣に取り組み、みずからそれを実践し、その結果、病人が激減するようなことになれば、医者は開店休業に追い込まれ、その存在価値もなくなるわけで、病気予防という観念は、医者の本音と矛盾するものであることは明らかです。


    人間ドックについては、それ自体が信用できないものであることを、どうしても知っておく必要があります。

    たとえば、早期発見のつもりがすでに手遅れだったケースや、「異常なし」と診断されたにもかかわらず、数ヶ月もたたないうちに死亡したというケースはざらにあります。

    がんが"早期発見"されたときには、がん細胞の数は、すでに10億以上にもなっているのが普通です。

    また、急性心不全で死亡した人の約6割が、人間ドックで調べたときの心電図では異常なしと診断されていたなど、考えられないような事実がひんぱんに報告されているのです。




    5. 薬害の本当の犯人とは?

    危険で不要な医薬品(95%以上)の製造をなぜ禁止できないのか、第三節で少し触れたつもりですが、じつは、もっと根本的な理由があるのです。

    それは、国の薬務行政が禁止を断行する立場にない、もっとはっきりいえば、国が、医学界や医薬品メーカーと「グル」になっているということです。

    グルとは言葉が悪くて申し訳ありませんが、事実ですからそういうしかありません。


    日本医師会や、医薬品メーカーからの政界への献金は莫大な政治資金になっており、そのために政治家は、医師会や医薬品メーカーのいうことに、はっきり「ノー」とはいえないのです。

    その結果、国民の命さえ顧りみない権力構造が生まれ、それが因襲となって、悪循環が繰り返されることになります。


    その生々しい実態は、数年前に、毎日新聞社・社会部から出版された「厚生省の『犯罪』」という本に詳しく書かれていますから、ぜひお読みになることをお勧めします。

    いうまでもなく、権力構造をめぐる利権は、医薬品の売り上げによって生じるものです。

    ということは、問題の根本を解決するには、国民が医薬品を買わなければいいわけで、私は、国民が「薬の不買運動」を起こすことを提案したいのです。

    これは同時に薬害からの自己防衛にもなり、一石二鳥の効果をもたらすことになるのではないでしょうか。

     厚生労働省の許しがたい体質については、第四章5節でも改めて取り上げます。


    薬の怖さをもっとおわかりいただくために、前章でご紹介した『医療ミス』のなかの薬害の実例と、それについての解説をここに転載させていただきます。



    1. 74歳の女性が一昨年、胸椎の圧迫骨折で入院した。

    退院後に痛みを訴え続けたため、痛み止めのロキソニンが一日3錠処方された。

    8ヶ月飲み続けたところ、胃に穴があいて吐血し、血液が器官につまって窒息死した。


    【解説】 ロキソニンやアスピリンは痛み止めによく使われる「非ステロイド系消炎剤」で、解熱剤や血栓予防としても用いられる。

    副作用として、胃・十二指腸潰瘍や消化管出血がある。

    New England Journal of Medicine(アメリカで最も権威ある医療ジャーナル)によると、この薬剤による消化管出血で死亡する人は毎年16,500人にのぼる。

    人口が半分の日本では、単純計算で8,000人となる。

    非ステロイド系消炎剤を服用する場合、この種の事故は不可避である。

    ロキソニンは、医家向けの解熱鎮痛剤では売り上げがトップであり、この種の薬害は数多く発生している。

    本件の場合、胃に穴があく前に、おそらく腹痛を訴えていたはずである。

    それを聞いていたら、医者は薬を中止すべきだったわけで、そうでなければミスがあったといえる。

    ロキソニンよりやや安全なアセトアミノフェンがあるが、量が増えると肝不全が発症するという問題がある。

    アスピリンやロキソニンと比較すれば安全という程度だ。

    世の中にまったく安全な薬は存在しない。

    したがって事故防止のためには、ある程度の痛みは我慢するという方策も考える必要がある。



    2. 50代の女性が顔や首に発疹が出て痒みがあったため、近くの皮膚科医院で受診し、塗り薬をもらった。

    この軟膏をつけるとよくなるので、疑いもせずほとんど毎日使い続けた。

    ところが一年たったころ、顔の皮膚がただれはじめ、みるみるお化けのようになってしまい、結局仕事も辞めざるをえなくなった。

    国立病院の皮膚科にいくと、「薬の副作用です。

    その軟膏を使うのをやめなさい」といわれた。

    この軟膏にはステロイドが入っていて、長期間、しかも顔などに使いつづけるのは非常識とのこと。

    べつの薬を処方され、皮膚ケアの方法も指導してもらい、少しずつよくなっているが、すっかり治るには一年以上かかる。


    【解説】 話だけからは、最初の発疹が何であったか不明である。

    アトピー性皮膚炎が発症した可能性もある。

    ステロイドは本来、人の細胞が分泌しているホルモンで、生体の生存に不可欠の物質だ。

    その類似物質を合成して飲み薬、注射薬、座薬、軟膏などにしたのがステロイド製剤である。

    その効き目は顕著で、膠原病、気管支ぜんそくなど、多くの病気の診療はステロイドなしでは考えられない。

    その反面、長く続けると誘発感染症、続発性副腎皮質機能不全、糖尿病、消化性潰瘍、膵炎、精神変調、うつ、痙攣、骨粗しょう症、大腿骨および上腕骨の骨頭無菌性壊死など、重大な副作用が生じる危険性がある。

    ステロイドは効き目が顕著なため、医者も患者もなかなかやめられなくなりがちで、かつては、危険性の認識なしに処方を続けた皮膚科医がたくさんいた。

    現在でも危ない使い方をしている医者が少なくないので要注意だ。



    3. 85歳の男性が腹痛と下痢で受診したところ、感染症といわれ点滴をうけたが、その直後に死亡した。

    鎮痛剤も使われていたが、どんなことが考えられるか。


    【解説】 ふつうは腹痛と下痢で死ぬことはない。

    点滴の直後というから、薬によるアナフィラキシー・ショックが生じたのだろう。

    いわばアレルギー反応の劇症型で、いろいろな薬で生じるが、純粋な輸液成分だけでは生じない。

    何かの薬が入れられていたはずだ。

    本件では感染症と診断されているところから見て、点滴には抗生物質が入っていたのではないか。

    鎮痛剤というのは、おそらくロキソニンや、やはり非ステロイド系消炎剤のボルタレンなどだろう。

    ショックがおきると血圧が低下し、呼吸しなくなるが、的確な対処によって救命できる。

    ただし一刻を争うので、そばに医者がいないと難しい。

    したがって、抗生物質などショックを起こす可能性がある薬剤を点滴するときは、担当医はしばらくそばにいるべきである。

    本件ではナースが点滴して、医者がそばにいなかった、医者はいたけれども、対処法を知らなかったなどの可能性がある。

    そもそも細菌による感染でなければ、抗生物質は効かない。

    腹痛と下痢の場合、ウイルスによるものがほとんどで、かりに細菌性のものでもふつうは輸液だけで十分である。

    抗生物質を使うと腸内細菌が死滅して、べつの細菌がはびこる可能性がある。

    したがってこの男性は、不要な治療のために死亡した可能性が高いといえる。



    4. 2歳9ヶ月の女児は先天性の心疾患を持っていたが、ふつうの生活を送っていた。

    ところが風邪をひいて二日目に、近所に小児科でセファメジンなどの点滴をうけた日に、容態が急変して死亡した。


    【解説】 セファメジンは抗生物質なので、前のケースと同じくショックが起きた可能性がある。

    ただ点滴直後に生じたのではないようで、それから考えると抗生物質が原因ではない。

    風邪に非ステロイド系消炎剤を使う医者が多いので、それによるショックも考えられる。



    5. 3歳の男児が日本脳炎の予防接種をうけた翌日の夜明け前、40度あまりの高熱を出してうわごとをいいはじめた。

    救急病院へ運び込んだが、嘔吐や痙攣を起こしているのに1時間も待たされ、簡単な診察と投薬(痙攣止めと解熱剤の座薬)だけで、入院は断られた。

    自宅へ戻っても熱は一向に下がらず、手足は冷たくなり、うわごとを頻繁にいうようになった。

    午前11時に再び救急車で病院へ向かったが、途中呼びかけても返答がなく、意識はなくなっていた。

    病院で人工呼吸器をつけるなどしたが、午前4時過ぎに死亡、死亡診断書には「ライ症候群」とあった。


    【解説】 日本脳炎の予防接種後には、39度以上の発熱が時々みられ、脳炎や脳症が生じることもある。

    本件では予防接種のあと、べつの薬を使ってないとすれば、最初の高熱や痙攣は予防接種によるものだろう。

    ではライ症候群とは何か。

    ライ症候群の原因は種々の有害物質で、なかでも非ステロイド系消炎剤によるものが一番多い。

    ボルタレンのような強力な非ステロイド系消炎剤は、大人が鎮痛目的で使用した場合にもライ症候群を起こすことがある。

    発熱時に解熱目的で非ステロイド系消炎剤がよく使われるが、子供はもともと脳組織が未成熟なうえ、熱の影響で脳組織が弱っているだろうからライ症候群になりやすい。

    ライ症候群になると、重症度にもよるが、おしなべて3割程度が死亡し、生存者の半数に脳神経系の後遺症が生じる。

    そういった理由から、子供の発熱には解熱剤をなるべく使わない。

    使うとしても、比較的安全とされているアセトアミノフェンを使うというのが世界の常識になっている。

    しかし、日本の医者たちにはこの常識が欠けている。

    本件でも解熱剤が使われているが、おそらくボルタレン座薬で、それでライ症候群が生じたのである。

    この子供に座薬が使われたのは、北関東の県庁所在地にある県の救命救急センターだから、よその医療機関の状況はおして知るべしである。



    本題に戻って、免疫や自然治癒力は、血液と細胞の働きによるものです。

    ですから健康を維持する大原則は、その原料である食物への十分な配慮と同時に、症状をいちいち気にして薬に頼らないことです。


    できれば、薬とはキッパリ縁を切るべきです。

    重ねて強調しますが、薬は免疫を低下させ、自然治癒力を破壊する作用をもっているのです。

    薬で病気そのものが治るなどということはまずありえませんし、それどころか、逆に病気を作り出す原因となる可能性のほうがはるかに高いのです。

    こういった薬による『治療医学』、つまり『対症療法』の問題点や限界について、先述の安保教授はつぎのように述べています。



    「抗生物質や抗がん剤に加えて、消炎鎮痛剤、ステロイドホルモン、制酸剤、血圧降下剤、精神安定剤など、多くの薬剤の開発競争が続いている。


    薬の開発は、おもに化学や薬学の純粋なサイエンスの力でなされるので、医学の進歩より薬の進歩のほうがはるかに早い。

    たとえば、化学物質は基本構造を一定にしたままで、側鎖を変えると作用が変化するので、研究所で大々的な開発が進められる。


    開発された薬は対症療法の大きな力となり、使われ続ける。

    降圧剤や向精神薬などがとめどなく処方され、対症療法がどんどん進歩していく。


    じっさい医療の現場では、仕事に疲れた中高年男性や、肥満や運動不足の中高年女性、そして精神的に悩める多くの男女が、病気になって外来に列をなしている。

    また多くの老人たちが、仕事で通勤でもしているかのように病院に通っている。

    どこの病院の待合室にも長い行列ができている。


    医者は、遅くても昼の1時か2時までには外来を終えたいので、患者からろくに病状やいきさつも聞かないで、すさまじい勢いで薬を処方し続ける。

    大病院の場合はこれに多くの検査が加わる。

    とても患者から病気の成り立ちを聞きだす暇はない。


    働きすぎの猛烈サラリーマンが、毎日何時間、どのような仕事をどうがんばってしているのか聞き出すこともなく、ただ症状にあわせて、降圧剤など数種類の薬が処方される。


    しかし血圧は下がっても、仕事量を減らすアドバイスはしないから、患者はやたらと疲れて元気がなくなり、さらに体調を崩すことが少なくない。


    このように、薬剤が進歩すればするほど、対症療法の力が増し、原因を無視した治療に磨きがかかる。


    現代医学が破綻し始めている理由の一つは、薬の進歩に、病気の本質を知る考えが追いついていないことにある。

    医療内容が確実に悪化していく危険性をはらんでいるのである」

    それでもなお薬に頼ろうとする人が多いのは、薬を飲むと一時的に症状が収まったような気がして、それをつい、「病気が治っている兆し」と錯覚してしまうからです。

    しかしじっさいは、それは単に、脳細胞を麻痺させる薬理効果(冒頭に説明した神経伝達をブロックする作用)にすぎないもので、決して病気が治っているわけではありません。

    これさえよく理解すれば、安易に薬を求める習慣はやめられるのではないでしょうか。

    ただし急性症状が起きた場合、発作や激痛を止めるための, 特殊な鎮痛剤の一時的な使用はやむをえないでしょう。

    急性疾患の問題については、次章でご説明します。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー



    つづく

     

     

     


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    以前紹介したことのあるHPでしたが、いつの間にか消滅していました。

    それがunexpected(ひょんの)ことから発見したweb上の魚拓です。

    内容に、いまでもビックリする人がいるかと思いまして・・・ギョ拓にしました。


    2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

     それでもあなたは医者を信用しますか?

    ようこそ「医療の大疑問」 のサイトへ。

    最終更新日 2005年2月1日

     

     

    https://web.archive.org/web/20050228101045/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page4.html

     

     

     

    ーーーーーーーーーー記事ーーーー(病院名には勝手ながら、●を入れました:::akyoon)

     

     3.医療ミスの必然的要因

     1.診断ミスが起きる素地         
     2.私の体験ー許せない診断ミスと治療放棄       
     3.無意味で危険な検査      




    1. 診断ミスが起きる素地

    病気になれば当然のこと、病気かどうかわからなくても、何らかの症状があれば、たいていの人は医者や病院へ行きます。

    一方、長い間病気にかかったことがなく、自分は健康だと思っていても、不安を煽る医学情報の影響などから、人間ドック、その他の検査目的で、医者や病院を訪れる人が増えています。

    現代病のほとんどは慢性病です。

    慢性病は正式には、『慢性退行性疾患』といわれるように、組織細胞が退行していく、つまり衰え崩れていく病気です。

    病気はじわじわと進行しますが、発病してすぐに死ぬということはまずありません。

    いわば執行猶予期間があるため、「医療を信頼し、その処置に従っておればまず間違いない」という、安堵感があるのでしょう。


    このような状況で、一つ大きな盲点があります。

    それは、問診や検査結果でわかった症状を、医者がどう判断し、診断に結びつけるかという問題が、見過ごされやすいということです。


    このときの医者の対応について、コーネル大学生理学教授エリック・キャッセルは、「病気の本当の原因を探ろうとするのではなく、あらかじめ分類された病気のカテゴリーのなかから、既知のどの病名に当てはまる症状なのか、ただそれを見つけ出そうとしているにすぎない」と指摘しています。

    まさにそのとおりですが、じつは、症状から病名を特定するのは至難の業なのです。


    ありふれた病気でさえ、同じような症状が異なる病気(病名)を表していたり、逆に、異なる症状が同じ病気のものであったりというケースに、医者はよく直面します。

    そういったさまざまな症状を識別して、間違いなく病気を特定できるかどうかは、医者個人の知識によって大きく左右されます。

    もちろん、症状の解釈の仕方によっても、診断の結果は異なってきます。

    こういう場合、医者の主観によって、病気、病名が決められてしまうことがよくあります。

    じつはここに、診断ミスの真因が隠されていたのです。


    医者を無条件に信頼したり、何でも医者に「おまかせします」では、このような問題があることに気づきにくいわけです。

    キャッせルが指摘するまでもなく、急性症状は別にして、「医者が病気の根本原因を知らない」ことは本当です。

    ですから、医者のいうことや診断結果を頭から信じたり、鵜呑みにしないよう注意することが大切です。

    それはまた、診断ミスから身を守る対策にもなります。


    第一章でご説明したとおり、生命はたえず流動し、循環し、変化するものです。

    そういう動的な現象の表れである症状を一時的に固定し、部分的な静止状態で判断しようとする(画像診断)ことに、そもそもミスが生じる原因があるのです。

    病気の根本原因はあくまで血液の質的悪化です。

    ですからそれさえ知っておれば、いちいち症状にこだわる必要はないのではありませんか。

    むしろ症状はそのままにしておいて、とにかく、血液の性状を改善していくことが先決です。

    それにともなってほかの条件もおのずとよくなり、やがて病気そのものが自然に治っていきます。

    症状をむりやり除去しようとして、あれこれ攻撃的な治療をするから、かえって病気が悪化するのです。


    ところで、とくに症状がない場合、そのまま放っておいても安心なのでしょうか。

    もちろん、そうではありません。

    年齢、その他の条件にもよりますが、今はなんともなくても、体の奥深くで知らず知らず、病気が進行している可能性がないとはいえないからです。


    慎重で几帳面な人は、病気予防のつもりで医療機関を訪れますが、残念ながら、医者でも検査によっても、病気の兆候を察知することはまず不可能です。

    とても信じられないと思われるでしょうが、これから順を追ってお読みいただければ、必ずおわかりになるものと確信しています。


    まず、主要な検査手段である血液検査が、検査の名に値しないものだということです。

    現在の医療技術では、たったの30項目くらいしか分析できません。

    また成分値だけではなく、血液の質そのものを測定するには、600項目におよぶ分析が必要とされています。

    しかし、そんな機能を備えた測定装置は、いまのところどこにもないのです。

    そのうえ、生体内の血液と採血した血液では、最初からすでに質の違いがあります。

    じつは、採血した血液は、その時点からすでに異常な代謝をはじめており、そこにはさまざまな夾雑物が混じっています。

    ときにはウイルスやバクテリアが混入していることもあり、そんなものが正確な検査の対象にならないことは、医学知識のない人でも容易にわかるのではないでしょうか。




    2. 私の体験ー許せない診断ミスと治療放棄

    検査の話をつづける前に、私事で恐縮ですが、ここで私がこうむった診断ミスとその結末を、ありのままお伝えします。


    ある日突然、仕事中に腹部の激しい痛みに襲われ、茨木市にある、友●会総合病院という中堅の救急指定病院へ搬送されました。

    とりあえず血圧と心拍を計ったあと、痛み止めの点滴をしただけで、その日は終わりました。

    翌日から、血液検査、胃カメラ、エコー、CT、 MRI、カテーテル、肛門から内視鏡を挿入して大腸を調べるなど、ありとあらゆる検査がおこなわれ、その間ずっと私は、症状からくる痛みと、検査という二重の苦痛を必死で堪えました。

    鎮痛剤はほとんど効きませんでした。


    絶飲・絶食と点滴、たえず襲ってくる激痛発作、そしてまたべつの痛さである検査の繰り返しで、地獄のような日々が続きました。

    でもやがて絶飲・絶食によって、痛みが出る回数はやや減りました。

    それでもそれが出たときは、やはり耐えられないほどの激痛でした。

    そんな状態が2週間も続いたころ、ようやく、『虚血性大腸炎』と診断されたのです。


    しかし、この診断にたいして、病名がわかるのがあまりにも遅かったこと、激痛は胸の辺りにあること、一日に10本以上もの鎮痛剤や座薬を使っても痛みがほとんど消えないこと、痛みの原因についての説明が何もなされないことなどから、私ははっきり、「おかしいな」と感じました。

    友人や妻もそう思うといったので、この病院は信頼できないということになり、ついに私は転院を決意しました。


    転院先は尼崎市にある、有名な●西労災病院です。


    ところがこの大病院でも、やることは最初の病院とまったく同じだったのです。

    そして、くる日もくる日も一向に病名がわからず、痛みは少しましになったり、また強くなったりで、病態が回復に向かっているようには思えませんでした。

    そんな状態が延々と続くなか、なんと今度は、転院から二ヵ月半もたってから、やっと私の病名が、『急性アルコール性膵炎』であることがわかったのです。

    そうです、最初の病院とぜんぜん異なる診断だったわけですが、私はこのとき、「この診断も信用できない」、と思ったものです。

    しかしその後の経過から、それが正しかったことは私も納得できました。


    しかし病名がわかったあとも、治療らしいことは何もおこなわれず、妙なことに、また同じ検査を繰り返すばかりなのです。

    それについて主治医に質問したところ、「膵臓は胃の真後ろにあって、画像が見にくいから」とのことでした。

    ようするに、先端機器で3ヶ月もかかって調べても、膵臓の病変の様子を捉えられなかったということです。


    あるとき、若い医者が数人エコーモニターの前に集まって、苦しんでいる私を尻目に、「あっ、ファータ(膵頭)が見えた、あれがファータだ、あれ、あれ」といって、興奮気味に囁きあっていたことがありました。

    私はこのとき、自分の膵臓が、研修医たちの勉強の材料にされていると直感したことを、今でも覚えています。


    その後も同じ検査が繰り返され、やはり時折襲ってくる激痛に、私はもう耐えられなくなりました。

    いっそのこと死んだほうがよほど楽だろうと、「自殺」の仕方を考え始めた矢先に、主治医から、所見が告げられたのです。

    主治医はこういいました。

    「強烈な消化・溶解作用を持つ膵液が、膵臓じたいだけではなく、その周辺組織にまで漏れ出し、胃、胆嚢、十二指腸などを溶かし始めている、その結果、仮性嚢胞という、激痛の原因となる厄介なものができてしまった」と。


    結局、痛みを取り除くには手術しかないという結論が示され、私のほうから手術を依頼する形になってしまいました。

    私は、膵液の流出をなぜ阻止できなかったのかという点に疑問をもったのですが、主治医は専門用語を羅列するだけで、そのことに直接触れてはくれませんでした。

    つまり、痛みの原因が膵臓であることがわかるのに、あまりにも日数がかかったことを認めたくなかったわけです。

    過ぎたことを詮索してもしようがないと思い、あとは、すべてを医者に任せるより仕方ありませんでした。

     手術は膵臓の一部、胃の3/4、胆嚢と十二指腸全摘というものです。


    手術で痛みは除去できたものの、これがあとあと、ある意味では、もっとつらい苦痛を強いられることになりました。

    退院後今日までずっと、手術の後遺症である激しい動悸や息切れ、吐き気、めまい、不整脈、極度の疲労感などに間断なく苦しめられ、きびしい食事制限によって体力が衰退しつづけ(文字通り骨と皮の状態です)、社会復帰は絶望的という人生を、送らなければならなくなってしまったのです。


    手術は自分から頼んだ以上、今さらそれに対して抗議することはできません。

    しかしながら、こういう結末に至ったのは、明らかに医療側(つまり医者)に責任があります。

    一つには、最初の診断ミスは、正真正銘の医者の知識不足によるものであること、もう一つは、それが原因で病名がわからなかったため、適切な処置が何もできなかったことです。


    許せないのはつぎです。


    最初に運び込まれた病院では、私が激痛で顔を引きつらせ、断末魔のような声を張り上げてのた打ち回っているのを見れば、医者でなくても、これが急性症状の勃発であることはわかったはずです。

    急性症状の勃発はしばしば命の危険があるため、処置は一刻を争わなければならないのは当然です。

    ところが、そんな緊急事態であるにもかかわらず、2週間も無意味な検査を繰り返すだけで、セカンド・オピニオンを求めるなどの情報収集を怠り、病名がわからないまま、症状を長期間放置したということです。


    やったことといえば鎮痛剤の注射、点滴、座薬ぐらいなもので、それらはどれも、一時的に激痛をやや緩和したにすぎません。

    激痛はすぐにぶり返し、そのつどまた、鎮痛剤の使用が繰り返されただけで、痛みの元になる原因は除去できなかったのです。

    病名がわからなければ正しい処置ができないのは当たり前で、とにかくもっと早い時点で、私に、「病名がわからない」ことを正直に伝えるべきだったのです。

    そうすれば自分自身で情報を探し、もっと信頼できる病院をあたるなど、私にも対策は残されていたはずです。


    そして二番目の病院では、最初の病院からのカルテなどで、症状や検査結果は知っていたにもかかわらず、また同じ検査を繰り返し、2ヶ月以上も病名がわからなかったということです。

    関西労災病院ほどの病院なら、私の症状が「急性アルコール性膵炎」という急性疾患のものであることくらい、もっと早く調べていたら、突き止めることができたはずです。

    そして急性疾患を長期に放置すれば、症状が悪化して、手遅れになることは十分予見できたことも明らかです。


    じつは、手術は避けることができたのです。

    その後、私自身でいろいろ調べたところ、痛みのそもそもの原因は、アルコールの飲みすぎによる、アミラーゼという酵素の過剰分泌であること、そして、もっと早く的確な診断ができていれば、アミラーゼの過剰分泌をすみやかに抑え、あとは時間をかけて保存療法(内科療法のこと)を根気よく続けることによって、膵臓を元の状態に戻すことができた、ということもわかりました。


    そういう意味で、医者たちは知識不足だったうえ、急性症状の長期放置がもたらす結末は十分予測できたにもかかわらず、迅速な処置を怠ったことは明白です。

    したがって私個人としては、こういった行為は刑法でいう「未必の故意」に相当し、本質的には立派な犯罪ではないかと思っています。


    しかしながら、医療行為にたいしては(特例の限界があるため)、そのような刑法上の判断は、おそらく適用されないでしょう。

    そして、手術じたいは成功したこと、手術は私のほうから依頼したこと、死亡には至らなかったこと、つまり救命処置はとられたと判断されることなどから、これが医療事故とみなされるかどうかさえ疑問です。

    また過去において、私のようなケースが立件されたことがあるのか、それも今のところ不明です。


    じつは、医者の明らかな過失を確信するようになってから、私はこれら二つの病院と、診療に当たった医者たちを告訴することも考えました。

    しかし今述べたような事情と、そんなことをしても自分の体が元通りにはならないことから、提訴する気持ちは失せてしまいました。

     ただ、私自身のためではなく、医療ミス根絶のために、自分の体験を、できるだけ多くの人々に知っていただく必要はあると思っています。




    3. 無意味で危険な検査

    アメリカの医療情報によりますと、臨床検査は患者の利益になるより、逆に不利益になることが多い、検査データの不正確さはもはやスキャンダルと呼ぶべきものになっている、などの認識が広まっています。


    そこで、全米疾病対策センター(CDC)が全国の医療機関の検査の実態を調査したところ、検査ミスが発生する割合は、なんと全体の4割以上もあったことが判明しました。

    そしてそのうち、血液検査(ヘモグロビン、血清電解質)のミスは3割もありました。


    同センターはさらに、鎌状赤血球性貧血が確認できない割合、伝染性単核症(白血球増加症)の誤診がそれぞれ3割以上、正常な検体を白血病と誤診したもの2割、確実に異常と誤診したもの2.5割、などというショッキングな事実を公表しました。

    日本ではこのような調査が行われた例がないため、詳しいデータはありませんが、おそらく数字はもっと高いものと推測されます。


    血液検査(採血)によって、体が直接被害をうけることはないかもしれません。

    しかし、検査結果がいい加減なものだとわかれば、好んで痛い目にあう必要もないでしょう。


    医者が検査を積極的に薦めるのは、患者を確保するのが目的だという専門家の意見があります。

    ハイテク医療機器を科学技術の進歩の結晶のように思っている人が多いのですが、じっさいには上記のような問題や、数値の誤差が生じるなど、さらには医者がデータを誤読したり、診断そのものを誤るという問題がいぜんとして残っています。


    医者が儀式的に(患者の信頼を得る手段として)取り扱うさまざまな医療機器のなかでも、最も普及していて、もっとも危険なものがレントゲン装置です。

    とにかく見えない体のなかを透視できるため、これを自在に操る医者や技師に、患者が畏敬の念をいだくのも無理からぬことでしょう。

    医者は患者側のこういう心理をちゃんと見抜いています。

    そしてそれを、自分がやりたいことができる下地を作るのに利用するのです。

    それに陶酔する医者は、にきびが発生するカラクリから胎児の成長の神秘まで、ありとあらゆる検査にレントゲン装置を使いまくっています。


    レントゲン検査がなぜ危険なのか、一般の人は考えたこともないのではないでしょうか。

    それは、とくに日本においては、医療の実態について体制が事実をひた隠しにして、国民にすべてをオープンに公表しないからです。


    たとえば、小児白血病が、胎児のときの医療被曝、つまりレントゲンと深い関係があることはすでに実証されています。

    2,30年前に頭部、首、胸の上部に放射線を浴びた人たちのなかで、甲状腺機能低下症が何万という単位で発症していますし、甲状腺がんは、歯科医のレントゲン検査10回で浴びる放射線量を下回る線量の被爆でも、発症することがあるのです。


    アメリカではこれまで多くの科学者が、議会でつぎのように警告しています。



    「たとえ低線量の放射線でも、人体に照射すると遺伝子を損傷して、現世代だけではなく、それ以降の世代にわたって大きな影響を及ぼす危険がある。

    X線は糖尿病、心臓病、脳卒中、高血圧、白内障といった、いずれも加齢に伴う病気の原因になることは、もはや疑う余地はない」。



    がんや血液の異常、中枢神経系の腫瘍の原因が放射線にあると指摘する研究は、ほかにもいくらでもあります。

    病院や診療所、歯医者で受けた医療被曝が直接の死因と見られる死亡者は、年間5,000人以上にものぼると推定されています。


    最近の調査では、胸部レントゲン検査はじっさいの治療には無意味であることや、マンモグラフィーという乳がん検査の診断が正確さを欠くことは、実習を受けた医者も、何も受けていない医者も同じだと報告しています。


    これらのことを知ったうえで、さらに注意をしなければならないのは、医者によっては、わずかな症状の異変を根拠にして、病気を捏造する場合があるということです。

    これはとても許されるべき行為ではありませんが、いずれにしても、現代医学は病気の診断すら的を射ていないわけで、安易に医者や病院へ赴く前に、熟考すべき問題がいくつもあることを知っていただきたいのです。

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    つづく

     

     

     

     


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    以前紹介したことのあるHPでしたが、いつの間にか消滅していました。

    それがunexpected(ひょんの)ことから発見したweb上の魚拓です。

    内容に、いまでもビックリする人がいるかと思いまして・・・ギョ拓にしました。


    2004年(平成16年)が最終更新となっていましたので、今から約十二年前の話ですが、現在においても貴重な論文だと思われますが、その後の状況の変化もありますので、最終的な取捨選択権は、もちろん!貴方にあります。

     

     

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    最終更新日 2005年2月1日

    https://web.archive.org/web/20050228101045/http://www12.plala.or.jp/kusuri/page4.html

    より

     

    ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー





    4. 慢性疾患と急性疾患の混同視

    慢性病には、じつに多くの種類があります。


    がん、糖尿病、肝臓病、腎臓病、心筋梗塞、高血圧症、神経痛、肥満、自律神経失調症など、すべて慢性病と考えられています。


    こういった病気の分類について、森下博士は次のように述べています。



    「現代医学は、それらの一つひとつに異なった発病のカラクリがある、という考え方をしている。

    そして、それぞれにいかにも難しい理屈を並べ立てて、治療法も複雑化する一方だが、それで病気を治せるようになったかというと、否である。

    むしろ反対であって、一時的に症状を抑えるテクニックは優れていても、病気そのものは一向に治せない。

    かえってこじれた状態に追い込んで、いよいよ慢性病を治りにくくし、寿命までも縮めてしまっている。

    つまり、現代医学の考え方は間違っているわけだ」。



    このように、病気を細かく分類するのが現代医学の特色でもあるわけですが、本質的に見ると、病気はただの一つとみなすべきなのです。

    いいかえれば、病気の成り立ちはすべてに共通しているわけで、この点を正しく捉えていないと、慢性病対策はかえって複雑で困難になってしまうのです。


    第一章でもおわかりいただいたように、発病の決定的因子は、「食べ物の誤った摂り方」にあります。

    森下博士はさらに続けて、

    「現代医学は、食べ物は、たとえて言えば自動車を動かすためのガソリンであり、機関車を動かすための石炭だと考えている。

    ようするに、燃料にすぎないとみなしているわけだ。

    当然、食べ物が材料になって血球が作られるとは、夢にも思っていない。

    食べ物は食べ物、血球は血球であって、両者はまったく別物だと、間に壁をこしらえて考えている。

    むろん、腸で血球が生み出される『腸造血』などということは知らないし、私どもが腸造血説を唱えても、まったく認めようとしない」、

    と語っておられます。


    日本を代表する名医の言葉に、全国の医者は謙虚に耳を傾けるべきだと思います。


    幸か不幸か、国民皆保険というものがあるために、私たちは、病気予防という問題にたいして、関心が薄くなる傾向があります。

    「医学のことはわからない」、「医者や専門家に任せておけばいい」、「病気になったらなったときだ」という意識がその表れです。


    医療改革の一環として、「インフォームド・コンセント」や「セカンド・オピニオン」が話題になっていますが、患者側の意識の向上がともなわなければ、それらは逆に、医療従事者に悪用されかねません。


    たとえば、患者に知識がないのをいいことにして、複雑な理論や専門用語などで患者を煙に巻く、といったことは現実によく行われています。

    意識をたかめることは、医療事故にあわないための重要な対策です。

    また、医療情報をめぐる「常識の罠」にはまらないよう、注意することも大切です。


    次の例から、その意味がおわかりいただけるのではないでしょうか。


    昨年の四月でしたか五月でしたか、「スーパー熱血医師、患者を救う!」というテレビ番組がありました。


    日本テレビの徳光アナが、心筋梗塞で命を落とすところだったのが、三つの奇跡が重なって助かったというものでした。

    奇跡とは、知り合いに医者がいたこと、処置が迅速だったこと、そしてその医者が、「神の手を持つ男」として、世界的に有名な外科医だったことでした。


    血流が悪くなって冠状動脈が詰まったため、バイパスを作る手術が行われました。

    心臓関係の手術には、ほかにバルーン(風船)やステント(筒)を挿入する冠動脈形成術、動脈硬化部を削り取るアテレクトミー、ロタブレーターなどがあります。

    これらは部分的な修復手術といわれるもので、がんのような、処置の施しようのない病変細胞や、腐敗、壊死した患部をまるごと切って捨ててしまう切除手術、除去手術も、最近はひんぱんに行われています。


    いずれも高度な技術が要求されるもので、とくに手先の器用な日本の外科医のなかには、世界を舞台に活躍する人もいるため、「日本の医療はやはりすばらしい」、「病気になっても安心だ」といった、安易な信仰を生むのではないか、懸念されるところではあります。


    じつはこのとき、テレビ映像のインパクトに圧倒されるあまり、視聴者は大きな錯覚に陥っているのです。

    冷静に考えればすぐに気づくはずですが、これはけっして病気そのものを治そうとしているのではなく、いわば、一時的な応急処置を施しているにすぎない、ということです。


    もし病気の根本原因を放置したままだと、いずれそのうち別の箇所で、同じ症状が勃発しないという保障はないのです。

    もしこの番組を見た多くの人が、「心筋梗塞が治った」という印象を植えつけられたとしたら、じつに困ったことだと思います。


    誤解をなくすには次の認識が必要です。


    病気とは慢性疾患のことで、このケースのように、突然、発作や激しい苦痛が起きるものは急性疾患です。

    急性疾患はすでに病気の段階を通り越して、体内の負傷、つまり怪我となったものですから、手術はその怪我を修復するだけで、それでもとの病気が治るわけではありません。

    重症の場合は手術もやむをえないかもしれませんが、そうでなければ、急性症状に到った原因を突き止め、その原因を除去する対策や処置を考える必要があります。

    しかしほとんどの場合、医者も患者も、手術で病気が治るものと勘違いするため、原因の究明ということを怠りがちです。

    手術で一時的な延命はできても、それとて、大変な危険と隣り合わせであることを覚悟しなければなりません。

    つまり手術しだいでは、そのまま一命を落とすこともしばしばあるということです。

    ですから大切なことは、そういう事態に到るまでに、慢性状態をそれ以上悪化させないよう、できればはじめから病気にならないよう、日常的に予防対策を心がけておくべきはいうまでもありません。


    手術を決断する前に、肉体は細胞の寄せ集めでもなければ、内臓も単品の合体ではないことをよく考えるべきです。

    なぜなら、体はすべてがそろって全体の調和を保ち、規則正しい生体リズムを生み出しているからです。


    一例をあげますと、子宮に問題があってそれを摘出したとします。

    術後、やがて腰骨に異常がおき(ずれたり曲がったりする)、これが子宮に移行して子宮の神経異常を引き起こし、いずれ腫瘍やがん、筋腫などを作る原因となる場合があります。


    切断された神経の流れは元に戻らないまま、全体としての生体リズムは、今はもうない臓器に向けて、正確なパルスを送り続けます。

    これが時の経過とともに、新たな問題を発生させないといえるでしょうか。


    「患部」という部分だけにとらわれ、それを処置してすべて終わりとしても、もとの病気は治らないばかりか、長期にわたってさまざまな後遺症で苦しめられるという、悲惨な結果を残すことを知らねばなりません。

    命の危機に瀕している場合を除いて、手術は軽々しくやるものではないのです。


    もうおわかりのように、「はっきり目に見える症状に対する処置」、ズバリ、「対症療法」が西洋医学の本領であり、その特色は、外科手術を中心とする攻撃的で危険な治療法です。


    もともと西洋医学とは、戦争や交通事故、犯罪や喧嘩や工事現場での負傷、日常生活での転落、転倒による怪我、はたまた先天性の肉体上の奇形、変形、臓器の欠損や機能不全などの治療が専門だったわけで、慢性疾患、つまり病気というものに対しては、処置理論や治療手段などの学問体系は持っていなかったのです(現在も持っていない)。

    まして病気予防や、健康維持対策などはもっとも苦手とする分野であり、そういった問題を西洋医学の医者にゆだねることじたい、最初から明らかな見当はずれだったのです。


    ところが、いつの頃からか急性疾患が増加しはじめ、それによる体内負傷の治療を西洋医学が手がけるようになり、人々がこれを「病気の治療」と勘違いしてしまった、そのために慢性病を侮り、急性症状が勃発するぎりぎりの時期まで対策を怠っている、というのが実情であるわけです。




    5. 健康体を切り裂く悪魔的所業

    この勘違いゆえに、痛ましい悲劇が繰り返されています。

    医者を信頼するあまり、検査によって「がん」と宣告され、医者が、「でも、小さいうちに見つかってよかったですね。

    すぐに手術で切り取ってしまえば安心です」とでもいえば、「ありがとうございます。

    ぜひ、お願いします」、というのがよくあるケースです。


    化学療法や放射線療法を薦める場合もありますが、イメージ的に手術のほうがすっきりするのか、患者から手術を希望することが多いといわれています。

    そしてそのような決断が、血も涙もない、医者の非人道的な行為を許すことになるのです。

    それは、つぎの例からも断言できます。


    こういったケースでは、通常、二つの可能性があります。


    一つは、いわゆる「がんもどき」と呼ばれているケースです。

    これは第一章でご紹介した「医療ミス」の共著者、慶応大学の近藤医師が手術療法を批判されている言葉で、単なる炎症か良性の腫瘍を、故意に「がん」と診断するもののことです。


    検査や診断のさい、医者はなるべくオーバーな病名をつけようとします。

    たいした病名でなければ、診断に必要な検査料や投薬料などが保険で認められないため、診療報酬請求をカットされる恐れがあるからです。

    もう一つは、本当のがんである場合、見つかったものは小さくても、ほかの臓器などに、すでに転移してしまっていることがよくあります。


    最初のケースは論外ですが、二つ目の場合も、手術は無意味で不要なのです。

    なぜなら、すでに転移していれば、手術をしても再発は避けられないからです。

    そして、不幸にも手術をされてしまった患者は、以降ずっと、いや恐らく死に至るまで、手術の後遺症がもたらす苦痛に苛まれ、「いっそがんで死んだほうがよかった」ということになり、その無念さは、いくら悔やんでも悔やみきれるものではありません。


    こうした場合、つぎのような風評が流れ、それがやがて既成事実になってしまうことがあります。



    「〇〇医師は名医だ。

    彼が手がけた手術で患者は病気を克服したし、ほとんど再発もない。

    5年治癒率も非常に高い」、「なるほど、それはその通りだ。

    一方、××医師はだめだなあ。

    再発するということは、手術は失敗だったわけだな」。



    いうまでもなく、〇〇医師は「がんもどき」に対して、××医師は本物のがんに対して手術をしたということです。


    さらにこれが、あとあと何を意味することになるか、考えただけでも空恐ろしくなります。

    がんは慢性病です。

    根本原因を取り除かないかぎり、手術で治ることなど絶対ありえません。


    先ほどの例からも明らかなように、急性症状の勃発に見舞われたら、はっきりいって手遅れです。

    ですから繰り返しになりますが、慢性病が進行しないうちに、いや、できれば病気にならないうちに、しっかり予防対策をしておかなければなりません。

    そしてそれは、自分自身でしかできないのです。


    いかに高名な学者であれ、医学博士であれ、優秀な医者であっても、あなたに病気が発生するのを阻止することは不可能です。

    長年にわたって日ごろから積み重ねてきた、あなたの生活習慣のなかに病気の原因が作られていくわけですから、他人がそれに直接関与できないのは、あまりにも明白な事実です。


    病気そのものは治療するものではありません。

    病気の根本原因である血液と細胞の異常な状態は、主として食生活を改善することによって、少しずつ、元の正常な状態に戻していくしか、ほかに選択肢はないのです。


    どうか、このことをくれぐれもお忘れなく。


    一言つけ加えるならば、先の近藤医師は、がん治療専門の外科医や多くの医者からひんしゅくを買ったり、攻撃されたりしています。

    金儲けのためには患者を人間とも思わず、非情な行為を平然とおこなうそれらの医者のなかには、「頼むから、波風を立てないでくれ」と、ひそかに近藤医師に嘆願する者もいるそうで、医者の倫理観は、もはや遠い過去のものになってしまいました。

     

    ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

     

    魚拓はつづく

     

     


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    連休中の楽しいときに、こんな話は聞きたくない!!

    と言われると・・・

     

    それが禿げ増しになってしまい、もっともっと言わなければ!!

    と、勘違いしたまましんで逝け~~♪ 人間です。 (単なる屈折した天の邪鬼じゃないかい)

     

    以前素晴らしい医療の本質を突いていたHPが消えていたのを残念だと思っていたら

    なんとweb魚拓として復活できるのを発見。

    この連休中も多くの国民が楽しく遊びまくって、飲み食いまくっているさなか・・・

    不本意ながらも、病院に隔離されたまま癌との戦いを余儀なくされている方も居られることでしょう。

    もっとも癌と闘ってはいけないのですが・・

    もしもネットが見られるようでしたら、ここは消えたHPの音声魚拓として残っているので、耳だけで済みます。

     

    ここです

    http://www.voiceblog.jp/akyoon/1056121.html

     

    昔、国会で審議された特別委員会での証言も残っているのですが、「今の癌医療は根本がマチガッテイル。ゆえにこのまま進んでも将来は癌が減るどころか増える一方だろう」との趣旨の発言をしていた松下、もとへ、森下博士の証言。

    これは医学界からはトンデモ論とか迷信、インチキ論、はたまたオカルト論(たいていは自分たちの都合の悪い論とか、アタマがついて行けない論に付けるのだが 笑い)として、排斥、無視されてきた千島森下学説という新医学論です。

     

    ここまで来るに年数がかかりすぎたのですが、今じゃほとんどの医師達は自分たちは現代の癌医療は受けないと言う。まして癌研究のトップ連中(癌医学界の重鎮たち)は、「今の癌治療は無効だということは常識ですよ (笑いながら)」と

    笑えないのは未だにそんな事にも耳を貸さず、目もくれず、癌の最大治療に自ら進んで飛び込んでいく  「人間誘蛾灯」(稲田氏の造語) 

    http://www.voiceblog.jp/akyoon/1056121.html

    音声魚拓を聞いてみて、それでも未だ「人間誘蛾灯」に飛び込みたいのなら、

    それはもう、ご自由です。

     

     

     


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