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Channel: わたしんちの医学革命と雑多な情報
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宇宙の巡りは回り回って帰ってくる 地球人の医療産業江¥贈¥

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最近は助手達に書かせている・・

え? 勝手に助手にするな!!

 

あ、パートナーと言おう。

(それよりも、昔っからオマエが書いた記事ってあったっけ?)

 

転載元

致死量撒いても自然治癒

 

もう金の切れ目が縁の切れ目に時代が入った。

いや、時代が金の切れ目が縁の切れ目に入った・・か

 

 日本の医学教育では「自然治癒力」を教えないという(安保徹教授より)

だから、薬飲まなきゃ、あなた大変なことになりますよ~~(脅しかい)

 空かす、あらゆる薬は毒だ。

薬学博士も書いた。

残念ながらお薬には病を治す力を持ち合わせておりません


 

とね。

だが、止められない止まらない喝破えびせん♪

 だって~~お口が要求するんだも~~ん♪ (ポテチ談)

 

じゃあ、オマエのは?

と尋ねられて・・・

やっぱ、お口が要求するんだも~~ん♪  (呑兵衛談)

 

しかし、金の切れ目が縁の切れ目

 

40兆円プラス介護費などあわせて70兆円になると近未来予測

 

さて、 あなた、介護保険も健康保険もドンドン上げられてうなぎ上りの勢いに

ついに、おせわになりました・・・・

と離脱 (この世からもかな) 

 

まったくデタラメな西洋物質偏重医学にだまされ続けてきた現代人は、世界に先駆けて医療保険制度 ペケね の時代に突入するだろう・・・・か?

 

ひとは理性では動かない。 酒だ・・・あ、いや、  金だ。

金で動くから、金の切れ目が縁の切れ目なのだ。

  ぼく?

金でも酒でも簡単に動く野田。

あ、女は要らないゾ~   (嫌いなものは、酒とお金とオンナと鬼に言ってくれ)

 

偏執後記

・・・・

 

 

 


ケネディ、スタートレック、ナチスドイツ、宇宙人、その繋がり

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話題に事書かないですねえ~~

 宇宙人との繋がり・・・

ネディ、スタートレック・・のルーツ! サラ博士と共にSSPの根源をたどる 元記事
コズミック・ディスクロージャー: サラ博士と共にSSPの根源をたどる By  シーズン7 エピソード11: サラ博士と共にSSPの根源をたどる      ひとは物語が大好き。   この人生が物語なのに、その物語の中でさらに物語を読む それが、小説や映画やテレビのドラマ・・・ そして、宇宙人との交流などなど・・・・     そもそも、神自身が夢物語大好きにんげんだから・・  って。 神を人間にするな!    いや、神が人間になっている? いやいやいやいやいやいや、人間が神を想像した(創造した)    それよりも、医学神話という夢からはよう覚めなよ。   神を否定するから医学神話が活きるのかな?    自然治癒力(神の領域?)を否定しなければ医学は成り立たないというワケか・・   だから、薬が、手術が・・・   だけど、実際は治癒しているのは自然治癒力なんだな。    薬も手術も治癒力じゃ無いのね。      

朗報です! 「すでに夜は明けている」 そうですよ!

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夜から昼へと世界は転換した(すでにだそうです)

 「天狗のおじさん~、夜明けは近いね♪」(杉作少年)

「あ、いや・・・もう開けちゃったんだよ、杉作。もうわしの出番もなくなっちゃった

・・」 (天狗のおじさん)

 「夜明け前の暗闇」と言いますが、じゃあ・・・・今は・・・?
脂が・・・・・・・・消えて行くわけね(年ごろの青少年)

 

 

 

 本文からボクの気になった箇所

「神の裁き」とか「病原菌(ウイルス)」とかも、また「チョイ悪(どころじゃないか極悪)ET」とか、「悪霊」とか・・ 「鬼嫁」とか・・・・

 すべての恐怖はこういう事だそうですよ~

 

 

ーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

ここで、もういちど、力(パワー)というものについて述べてみましょう。

すべての恐怖は、何かが他の何かの上に影響を及ぼす力を持っているという信念に基づいています。

それは、肉体であったり、黴菌や法律や他人や環境であったり、ときには天上からあなたを見下ろしている厳しい神様であったりします。

人間にとって恐怖は自然な反応です。それは二元性と分離にどっぷりと浸されたたくさんの転生を繰り返す中で、経験によって身につけたものです。

恐怖は今もなお細胞の記憶の中に残されており、それがクリアされるまでは、人生のあちこちに、はっきりした理由も原因もなしに姿を表します。

 

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

ひらしぶりに転載です

え? (転載無しのってあったっけ)

それはいいのです。 

宇宙はすべて受け売りですから・・・(ホント?)

受け入れて活用するか捨てるかはあなたの自由選択ですが・・・

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

すでに夜は明けている アークトゥルスというのは、牛飼座の主星です。今頃(2月)は、真夜中を過ぎないと見えませんが、5月になると夜の九時頃東の空に見えるようになります。北斗七星の柄杓の柄をカーブに沿って3倍ぐら伸ばすとオレンジ色のアークトゥルスに届きます。それを更に同じくらい伸ばすと、白く輝く乙女座のスピカに届きます。春の星空は、明るい星が少ないので、アークトゥルスとスピカはひときわ目立ちます。そこで昔は、アークトゥルスとスピカは夫婦星(めおとぼし)と呼ばれていました。

そのアークトゥルスから来たという宇宙人のメッセージです。現代の地球の科学では、アークトゥルスから生物が地球にやってくるというようなことはありえないと思われますが、そういうことは抜きにして、メッセージを読んでみてください。このメッセージを届けてくれた存在が何者であろうと、あまり大した問題ではありません。このメッセージがあなたの心に何かを呼び覚ますとしたら・・・それが重要なことなのです。

  チャネラー: マリリン・ラファエル
  日付: 2017年2月12日
  翻訳: Dawn-Watcher  

こんにちは。平和と調和を期待するあなた達の意志に反するように見える様々な出来事に直面しながら、あなたたちが勇気を失っていないことに賛辞を贈りたいと思います。あなたたちが目撃している出来事は、あなたたちが前進するために不可欠なものなのだということを疑わないでください。目覚めるどころか、自己満足の状態からちょっとだけ前進するためにさえも強力な出来事を経験する必要のある人々がたくさんいるのです。多くの人が幻想の中に捕まったままだからです。

すべての人は、その人がどんな行いをしていようと、自分を何者だと信じていようとも、本当のエッセンスは神性そのものです。地球に住んでいる人はみんな、わざと分離の感覚を体験する道を選んだのです。それは一体感をしっかりと思い出すためです。けれども、多くの転生を繰り返すうちに、分離の状態の中で道に迷い、眠りに落ち、集合意識の中に二元性と分離という3次元の信念体系を作り出してしまいました。

すべてのことをよく見て感謝しなさい。あなたたちは、集団での目覚めと古い世界の崩壊を目撃しているのです。それは、人類が望み、そして、現実化させたものです。目を閉じていた人は目を開こうとしており、すでに目を開いていた人には、もっとよく見えるようになっています。けれども、目覚めのプロセスがどうあるべきかということで、予断を持たないようにしなさい。

地球に住む人々にとって、いまというのは非常に心強い時期です。なぜなら、「別の世界」から来る光と援助がかつてないほど強力で、しかもすべての人が利用できるようになっているからです。あなたたちは、この時期を利用して、個人的に進化し、また、あなたの言葉や行動やあるいは単に光を保持することによって、他の人々を援助しようとしたのです。

ここで、もういちど、力(パワー)というものについて述べてみましょう。すべての恐怖は、何かが他の何かの上に影響を及ぼす力を持っているという信念に基づいています。それは、肉体であったり、黴菌や法律や他人や環境であったり、ときには天上からあなたを見下ろしている厳しい神様であったりします。人間にとって恐怖は自然な反応です。それは二元性と分離にどっぷりと浸されたたくさんの転生を繰り返す中で、経験によって身につけたものです。恐怖は今もなお細胞の記憶の中に残されており、それがクリアされるまでは、人生のあちこちに、はっきりした理由も原因もなしに姿を表します。

あなたたちは、新しい時代が、これから来るのではなく、すでにここに来ているのだ、ということを受け入れるべきときです。あなたたちがもしこれ以上進化しようとするなら、どれほど慣れ親しんだものであろうとも、偽りの信念体系は捨てなければなりません。それはおとなになった子供が、おもちゃを捨てるようなものです。あなたたちの進化は探し求める時代を過ぎました。あなたたちはすでに到着しているのです。

良い体験もあったし、あまり嬉しくない体験もあったでしょうが、あなたたちは,たくさんの体験学習の転生を通り抜けて、進化の旅路のもっと開けた場所に到着したのです。もしあなたが、スピリチュアルな表現として、あなた自身のパワーを現実化させようと思うなら、3次元の信念体系から脱却するべきときです。

存在するすべてはただひとつです。あなたがこのひとつをどのような名前で呼ぼうとも関係ありません。それがなんであろうとも、それひとつしか存在しないのです。したがって、このそれが唯一の法則であり、現実であり、原因であり、源であり、材料であり・・・完全であり、全体であり、それ自身であるのです。真実においては、何者もあなたの上に力を及ぼすことはできません。なぜなら、あなた自身がすでにそのひとつの姿であり、あなたがその力そのものだからです。ただし、あなたがそれを信じないということさえなければ・・・・ですが。

この意味は、あなたの上に力を及ぼすとみえる外界のすべては、幻想であるほかはないということです。幻想は心によって作られます。善と悪が存在するという二元性の観念に縛られた心の中に生じます。存在するものはひとつしかないのですから、すべての人は同じ絵を見ています。

3次元の信念体系の現れは、恐怖か幸福か、ふたつの形を取ります。よい現れも悪い現れと同じように幻想なのです。存在するものはひとつですから、それはすべての人に同じように(恐怖においても幸福においても)働きます。その人が集合意識の傘の下から出てきて、自由な道を歩み始めるまでは。

一つの力しかないというのは絶対の真実です。けれども、その意識に到達しないうちに、到達したふりをするのは危険です。交通量の多い大通りに飛び出していって「神以外に力はないのだから、誰も俺を轢き殺すことはできない」と叫んだりしないでください。なぜなら、知識によって真実を知っても、それがすぐにあなたにとっての真実になるわけではないからです。真実を知ることは第一歩です。それに続いて、練習を積み、咀嚼し、消化し、自分の意識に融合し、努力なしにその意識で生活できるほどにならなければならないのです。

自分を鞭打って、まだ力があるようにみえる恐怖に抵抗したりしないようにしてください。すべての人は、細胞の中に、過去の(過去世の)恐怖の体験の記憶を持っています。それはいま浄化されているところですが、浄化の途中で、それが不意に表面化することがあります。そのときは、パニックにならず、もとのところに押し込めたり、それから逃げたりせずに、それが通り過ぎていくのを静かに見守ってください。

一般的に言えば、恐怖、怒り、失望などの感情が現れたときは、単にそれを許容し、自分自身を愛で包み、その感情が自分自身の信念体系を深く調べる導きになっていることに気づいてください。「こんな風に感じるというのは、わたしが何を信じてているせいだろう? それは真実だろうか?」と。

ワンネス(ひとつであること)を認識する練習をはじめてください。もし、存在するものがひとつだけなら、そのひとつの外(そと)に存在するものは何もない(「外」というものは存在しないから)ということを憶えてください。ただひとつの神の意識の中には、完全、調和、平安、喜び、充足しか存在しません。なぜなら、ひとつだけで存在するものは、当然、自己充足性、自己保存性があり、それに敵対するものは・・・それが存在するとあなたが信じない限り・・・何一つ存在しないからです。

一人一人が外界にパワーを与えるのをやめると、恐れやその他のネガティブな感情は次第に消えていきます。それらの存在を支えていたのは、それが存在するという信念だけだったからです。これは、世界がすぐに自由になるという意味ではありません。けれども、あなたが自由になれば、あなたの光は自動的に集合意識の光を増加させます。なぜなら存在するものはただひとつだからです。

光というのは高い振動数の波動が目で捉えられたものです。けれども、エネルギーの波動はあらゆる振動数で感知されます。振動数の低い遅い波動は、重たく濃密なものに感じられます。そういう波動が簡単に感じられる場所があります。あなたは他の人が気づかなくても、そこへ入るとすぐに出たくなるでしょう。無条件の愛と真実の、高振動数の波動は、明るく透明な光として現れ、喜び、調和、平和として感じられます。あなたが、自分が何者であるかに気づけば気づくほど、あなたのエネルギー・フィールドは明るく精妙なものとなっていきます。

これが、天使やアセンデッド・マスターたちが光として感じられる理由です。また、聖人たちの絵で頭の周りに光の輪が描かれる理由です。それは進化した意識の高振動数のエネルギー場を表しているのです。いまこれをお話するのは、間もなくあなたたちが高い振動数のエネルギーや存在たちに触れたり見たりすることが多くなるからです。

あなたたちのエネルギーフィールドが精妙になるにつれて、高い次元の中のエネルギーの似た存在たちに同調する機会が出てきます。それらの存在たちについて、あなたたちはこれまで話を聞いたり本で読んだりするだけでした。そして、それらと自分たちは離れていて近づくこともできないものだと考えていました。あなたたちがそれらの存在に同調することができなかったあいだは、そのとおりだったのです。

環境に左右されずに真実にとどまることのできる能力は、見掛けの姿を溶かしてしまいます。あなたが感知することのできるものはすべて、実体は、ただひとつの神の意識の中にあるスピリチュアルなアイデアなのです。それ(神の意識)はいたるところに存在するので、何ものもそれから離れていることはできません。そのアイデアをどのように理解するかは、個人の意識の状態にかかっています。そして、個人の意識は、最初は単純に集合意識を反映するだけです。

神の真実は決して変化しません。神の法によって維持されています。それは単に存在するだけです。それがどのように解釈され、どのように生活に関わるかは、その人の心がどのように条件付けられ、プログラムされているかにかかっています。

たとえば、他人に対する暴力は、ほんとうは、ひとつの中のすべての存在の間にあるエネルギーの流れの低振動数の解釈に過ぎません。このエネルギーのつながりが分離の観念に強くプログラムされた心によって解釈されると、それは、低く歪み催眠術をかけられたものとなり、犯罪者はそれを無意識に解決法だと信じるのです。

進化の旅路のどこにいる人であろうと、すべての人は、平和と愛を探し求めています。なぜなら平和と愛がすべての魂の本質だからです。けれども、その平和と愛をどうやって實現しようとするかは人によって違います。殺人鬼でさえ、何らかの方法で、物事を良くしようとしているのです。

霊的な意味で強くなりたいという欲望が目覚めています。しかし、多くの人はいまだに3次元的な解決法を探しています。それは現在は仕方のないことです。なぜなら、多くの人は、「強くなる」道のほんの初心者にすぎないからです。けれども、まもなく、あなたたちは非常に忙しくなります。目覚めかけている多くの人が、あなたの知っていることを知ろうとして、あなたの光に惹かれて来るからです。

「現在の瞬間」の一つ一つに集中していなさい。外界の姿があなたの意識に入りこもうとして心のドアをノックしていても、構わずに真実につかまっていなさい。真実の光は神の法によって維持されています。それに対し、幻の世界はそれを信じる人の信念によって維持されているだけです。高い振動数は常に低い振動数を上書きして消去します。それが、あなたたちが世界の進化を支援する方法なのです。

世界の目覚めを援助する道を選んだあなたたちは、目覚めの道の先端にいるために、ときには孤独を感じたり、3次元世界だけが唯一の現実だと信じ切っている周りの人たちから、聞いてももらえず、認めてももらえないと感じているかもしれません。

そのような場合には、自分を守ろうとする誘惑を退け、単に微笑みを返し、地球の上の人生は、言葉や行動の力によって他の力を制圧するためのものではなく、唯一の力の中に目覚めるための旅なのだということを思い出しなさい。

死についてはどうでしょう。よく考える必要があります。人間は本当に死ぬことができるのだろうか? 本当に死んだ人があるのだろうか? あなたたちはみんな、地球にいる他の人たちもみんな、何百回も死にました。だから死なんてないのです。動物も同じです。彼らも進化するのですから。

もう新しい時代です。古い時代は終わりました。でも、それは、大声で叫んで蹴っ飛ばしてやらないと出ていかないのです。

見かけの姿に構わず、ありのままにありなさい。あなたがするように導かれることをしなさい。請願書に署名することであろうと、デモに参加することであろうと、単に静かに光を掲げていることであろうと・・・あなたがすることが何であろうと、それにあなたの意図を込めなさい。単に目に見える別のパワーに対抗するためではなく、他の人々が自分の内なるパワーに目覚めることを助けるためなのだという意図を込めなさい。

意図というのは精妙な、けれども強力なエネルギーです。それは、小さななことから大きなことまで、あなたがするすべての行いに含まれます。常に自分に問いなさい。「わたしの意図はなんだろう?」と。もしあなたが自分に襲いかかる力に抵抗しようとしているのなら、あなたは古いエネルギーの中にいます。もしあなたの意図が、自己の霊的な進化をすすめるためか、他の人がそうなるようにしようとしているのなら、あなたの行動は高い振動数の光によって支持されます。

どんなにつまらなく見えるものであろうと、あなたの発する言葉や行動は、あなたの意図によってエネルギーを与えられます。

その行動は他の人の目には同じようにみえるかもしれませんが、それが真理に基づき人を霊的に強化する意図から行われるなら、それは受容力のある人を誰でも高める力があるのです。

目覚めた人は道を示す人であり、あなたはその人なのです。

アークトゥルス人より。

2017年2月12日

 

ArcturianGroup Message via Marilyn Raffaele, 2/12/17

Posted:  February12, 2017 by Steve Beckow

http://www.onenessofall.com

 

2017/2/17

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

アイ分かった!

と早合点している ボク沈

 

はらにおちるまで時間が¥¥¥

残り少な¥¥¥い

 

 そうか~~ボクはわざとこうなっていたんだ~♪  ↓

 

地球に住んでいる人はみんな、わざと分離の感覚を体験する道を選んだのです。





「病気を治す薬はひとつも無い」のは本当なのかどうかを考えるとき

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実際はどうなんでしょうね。

確かに薬で一発で治ったように思える瞬間もあると思うんですが・・

そういう体験者は数多く数え切れないほどだとも思うんですが・・・

だからこそ、みなが薬を飲む、うつ、買うんでしょうけど。

そこにあえてですよ、正反対の論を。

研究者は常に常識から外れた視点で検討します悶寝。

 

あえて、この岡田茂吉の医学論文集より

 

研究者は批判精神が大切ですから (批判とはよくよく検討してみて選択することで、ハナから非難して研究もしないことではない、反対にハナから鵜呑みにして信じてしまうのも同質であります)

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

 

病気を治す薬は一つも無い

『新日本医術書』昭和11(1936)年4月21日執筆

 薬では、病気が治らないという事は、医家自身も常に痛感している事であろう。しかし、ただ、苦痛を緩和する効果はある。要するに、病気を弾圧するか、又は、麻痺に寄〔依〕って一時苦痛の感受を軽減し得るだけの事である。

薬剤とは、それ以外の何物でもないのである。


しかしながら、常に私も言うごとく、苦痛とは病気治癒工作の過程であるから、苦痛緩和はそれだけ、病気治癒を遅らす道理である。

のみならず、それに、薬剤の余毒が伴うのであるから、二重の不利を受ける訳である。実に薬剤による血液の汚濁は恐るべきものであって、それは、いかなる薬剤といえども、多少の血液汚濁は免かれないのである。


 血液汚濁の害としては、浄化力を衰耗させる結果、著しく活力を減退さす事である。故に、その結果として、病気に罹り易くなり、病気治癒の力が弱まるのである。それは、濁血程殺菌力が無いからである。


 かくのごとく、薬剤なるものは病気治癒を遅らせる事と、血液を汚濁させる害がある以上、他面、苦痛を緩和させるという益と比較してみる時、それは、害の方がはるかに優っている事を知らねばならないのである。



 しかるにも不拘(かかわらず)、近代人は無暗に薬剤を用いたがる。それは全く薬剤の害を知らないからであるから、一日も早くこの理を知悉(ちしつ)させなければならないのである。

近代人の罹病率や短命の多きと病気治癒の遅々たる事実は、少くともこれが原因である事は、争う余地が無いのである。


 二六時中、薬餌に親しみながら、これという病気もなく、といって健康にもならないという人は、大抵皆、薬剤中毒患者と言ってもよいので、そういう人は薬剤使用を廃止すれば、漸(ぜん)を逐(お)うて健康は恢復するのである。
 私は大いに叫びたい。国民保健は、薬剤廃止からである……と。
    (昭和十一年四月二十一日)

 

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

さてさて、研究者としては「昭和11年」というと、まだ赤ちゃんの時代でしたからねえ~

あ、嘘ですよ。

これくらいの嘘にだまされるようだと、論文の取捨選択も無理かなあ・・・

 

で、現代の薬理学の専門家の意見もありますので少し覗いて戴ければ・・

 参考

あっと驚く薬理学 - 9 ページ - Google ブック検索結果 https://books.google.co.jp/books?isbn=4774166995     「残念ながら(感情を入れている)、お薬には病を治す力を持ち合わせておりません」     やっぱり、昭和11年も平成29年も薬の本質は変わってなかったんですねえ(残念!)   あ、残念じゃないか!!  安心♪ かな、ある意味で。     薬剤廃止・・・・現状ではとてもとても無理でしょうかねえ~   個人としてはできるでしょうが、国とかとなると・・・   巨大な組織となった世界医薬産業がねえ~   というわけで、今回は取捨選択の論文でした( もっとも全部そうなのですが=研究者の姿勢です)        

これから亡くなる方へgood news(朗報)

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ん?

縁起でも無い!

いや、そこのアナタですよ、アナタ♪

エ~~イヤット~~~!  (なんだ?)

ヒトは生まれてから亡くなるまで突っ走る (猫まっしぐら)

 

ところが、みんなが嫌がる。死ぬのはイヤだ。

だが、例外なく死んで行く・・

 

だけど、本当は死は無い。肉体的に朽ちるだけだ。

それを認めたくないがために、せっせせっせと薬を飲み、サプリメントを飲み、酒を呑む(この場合は百薬の長として 笑い)

ところがこれが裏目に出るのだ。
その代表格が抗がん剤。 おめでたいことは薬で殺されても「ありがとうございました」と御礼する。

死にたくないがためにヒトはもがく、もがいてもがいて、それでも死んで行く(肉体だけよ)のだが、その「ヒトの死」について知っておくと、もっと楽に逝けるのだろう。

問題は逝くヒトよりも、残されたヒトにあるのだろう。

 

  σ(^_^;ボク は葬式もお墓も戒名もお経も要らないと思っている。(←自分の死に)

それは慣習だから、やってもやらなくてもよい程度であって、これをしないと「アンタトンデモない事になりますよ~~~~!!」(医猟でよく使う脅し文句と同じ)という宗教屋さんには、いっさい耳を貸さないのである。

戒名なんてのは生きている内に出家者が戴くものだったとか?

お墓が無い時代の方がずっと多かった。

葬式 いまのような壮大な式典をやるのは極々一部だけだった。

だいいち、骨も残らない死に方をしたヒトは過去に世界中で数え切れないほど居る。

この物質世界で出来上がった常識はあくまでヒトの都合であって、それこそ天からみたらどうなのかな?  

死んだら天国とか地獄とかに裁かれるなんてのも作り話だろうが、実際は自分の思考がそういう境遇に引き寄せられるのだろう。

それは生きている内の思考の癖が続くからだろう。

結局は自分なのだ、決めているのは。

 

ちょっと参考になるものを

 

そこで、弄ってみた(捜してみた)

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

Q&A 亡くなった人々への対応について Part 1 cecye.com/blog/2012/08/02/how-to-deal-with-deceased-people-part-1/ .



より

Q&A 亡くなった人々への対応について Part 1

 これは、現在の東洋の宗教観から見ると、少し過激な考え方も、かなり入っているような見解になるのですが、現在、地上の世界で生きている人が、亡くなった人々に対して、どのような態度をとるのが、霊的に、最も正しいのか、というと、大まかに言って、だいたい、以下のようなことが言えます。
 
 
1、地上の世界の人々は、すでに亡くなった人々のことを、あまり強く縛りすぎてはいけないし、また、すでに亡くなった人々も、地上の世界の人々のことを、あまり強く縛りすぎてはいけない

 まず第一には、現在、地上の世界で生きている人は、もうすでに亡くなった人々のことを、あまり強く縛るようなことはしてはいけないし、また、すでに亡くなった人々も、たとえ、いくら自分が、大変だからと言って、地上の世界で生きている人々のことを、あまり強く縛りすぎるようなことはしてはいけない、ということです。

 これは、現在の日本や中国のように、先祖供養の盛んな地域では、そう簡単には、なかなか受け入れられないような考え方になるのではないか、と思われるのですが、本当は、たとえ、誰か人が亡くなったからと言って、そうして亡くなった人の後に残された人々に対する、何らかの精神的なケアのようなものは必要であっても、もうすでに亡くなった人々に対する霊的なケアというのは、実際には、ほとんど不必要なところがあったのです。

 実際、今日、いろいろな所で行われているような、すでに亡くなった人々との霊的な交流では、そうして、残された地上の世界の人々、つまり、特に身近な存在であった、亡くなった人の伴侶や親や子供や友人などに対する、慈しみやねぎらいの言葉は、よく聞かれるのですが、それ以外の宗教的な感想、つまり、「お盆や彼岸の供養が効いた」、とか、「法事が最高だった」、などというような、霊界の人々の発言というのは、ほとんど聞いたことがないのです。

 ですから、こうした霊的な状況から、客観的に考えてみる限り、すでに亡くなった人々が、時折、地上に残した人々のことを、懐かしく思い出したり、深く考えたりすることはあったとしても、そうした亡くなった人々に対する、地上の世界での宗教的な行事による霊的な効果というのは、実際には、ほとんどない、というのが、現実なのではないか、ということです。

 特に、亡くなった人々が、非常に迷惑に感じていることは、時々、地上の世界において、その人のことを思って、ものすごく強い念いを向けて、読経をしたり、何らかの宗教行事を行ってくることなのですが、それというのは、これは、みなさんが、どこか遠くに、個人的な旅行や、仕事で出張に出かけた時のことを考えてもらうと、非常に分かりやすいと思うのですが、つまり、亡くなった人々というのは、死後、幽界や地上の世界付近の、何らかのごちゃごちゃに巻き込まれていない場合には、たいてい、ある程度、落ち着いた霊界において、次から次へと、いろいろな新たな知識を得たり、新たな体験を積み重ねながら、はっきり言うと、もう全く別次元の世界の存在になってゆきつつあるので、それゆえ、そうした時に、もうあまり興味も関心もなくなりつつある地上の世界から、非常に強い執着の念を込めて、いろいろなことを、強く念じて、しゃべりかけてこられたりすると、非常に迷惑な感覚を持つことが多かったようなのです。

 ですから、私が思うには、もし、みなさんの身近な人が亡くなった場合には、時折、その人の写真や思い出の品を見ながら、何となく、その人のことを思い出したり、その人のために、ちょっとした、祈りを捧げるぐらいのことはしてもいいのかもしれないのですが、それ以上のこと、つまり、あまり強い念を込めて、その人の名前を呼んで、一生懸命、読経する、とか、その人のために、何か高額のお金を払って、大きな宗教行事を行うようなことは、本当は、あまり必要ないようなところがあったのです
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 2

2、霊的に、ある程度、進化した惑星では、たとえ、誰かが亡くなったとしても、その後、その人が、次の「霊」としての人生に、完全に移行したことが、はっきりと分かった段階で、以前の、その人の肉体は、ほぼ何も残さないような形で処分してしまうことが多い

 次には、これは、現代の社会では、まだ、とてもではないが、あまり受け入れられないような考え方になるのではないか、と思われるのですが、実は、現在の世界で、非常にたくさんの土地を使って、作られている、「お墓」の存在というのが、霊的に見ると、本当は、あまり必要ないようなところがあるのです。

 そうは言われても、東洋では、亡くなった人を、火葬にする習慣があるので、多くの人々が、その時、残った骨を、できるだけ、丁重な形で、何らかのモニュメントの中に残しておきたい、というような気持ちを持つのは、私も十分に理解できるのですが、ただ、これは、冷静に考えてみれば、誰でも分かると思うのですが、亡くなった人自身としては、もうすでに、肉体を離れて、「霊」としての生活に入っているので、その際に残された「遺体」というのは、言ってみれば、全く必要のない、完全に抜け殻のような存在になってしまっている、ということなのです。

 ですから、実は、現在の地球のような低次元領域にある惑星であっても、霊的に、ある程度、進歩した惑星では、誰かが、何らかの理由で亡くなったとしても、その人が、次の「霊」としての人生に、完全に移行したことが、しっかり確認された場合には、その後、いつまでも、その人の遺体を残しておくと、いろいろ問題が生じることが多いために、何らかの手段で、ほぼ完全に、自然のままの「無」の状態にしてしまう、つまり、もっとはっきり言うと、全く何も残らないような形で、処分してしまうことが多い、ということなのです。

 ただ、現在の地球では、「それでは、亡くなった人も、残された人も、気持ちの整理がつかない」、ということになってしまうと思うのですが、しかし、霊的に、ある程度、進歩した惑星では、誰かが亡くなっても、「今、その人は、霊的に、どうした状況に置かれているのか」、というのが、わりと、すぐに分かると共に、もし、何らかの混乱に巻き込まれていると判断された場合には、すぐに、何らかの手が打たれることが多いために、多くの人々の感覚としては、たとえ、誰かが、肉体的に亡くなったとしても、その後、その人が、スムースな形で、霊界での生活に移行していることが分かったのであれば、その後は、必要な手続きの後、その人の残した遺体は、ほぼ何の跡形もない状態になるように処理してしまうことが多い、ということなのです。

 ところで、キリスト教圏だと、「最後の審判の時に、再び、生き返るから、その人の遺体を、どうにか、できるだけ、そのままの形で残しておかないと困る」、というような心配をする人がいるかもしれないのですが、これは、前にも少し述べましたが、要するに、それは、人間や生物の生まれ変わりが、全くない、という前提での話になるので、もし、人間や生物の生まれ変わりがあるのであれば、何も、最後の審判の時に、再び、ボロボロの死体を再生して、復活させて、生き返ってくる必要なんて、全くない、ということなのです。

 つまり、たとえ、最後の審判のようなものがあったとしても、人間や生物の生まれ変わりが、頻繁に起きているのであれば、何も、棺桶のふたを、ガタガタと、こじ開けて、生き返ってこなくても、どこかの幸せなカップルの間に、再び、可愛い赤ちゃんで、生まれ変わってくれば、それで済むことですし、実際、これは、最近では、もうすでに明らかになっているようなのですが、歴史上のイエスも、別に輪廻転生を否定していたわけではなかったようなので、元々のキリスト教も、本当は、そうした見解をとっていたのではないか、ということなのです
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 3

3、長い間、一部の裕福な人々を除き、多くの貧しい人々は、日々、生きてゆくだけで、精一杯だったので、盛大な葬式や供養を行ったり、立派な墓を作るようなことは、全く出来なかったのだが、近現代に入り、多くの人々が、やっと、ある程度、豊かな生活を送れるようになると、その精神的な反動で、あちこちで、盛大な葬式や供養を行ったり、きれいな立派な墓を建てるようになった

 それでは、現代日本のように、どの人も、どの人も、誰かが亡くなるたびに、片っ端から、できるだけ立派なお墓を建てようとしてゆくような状況に関して、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、私が推測するには、おそらく、次のようなことになります。

 まず、これは、現代人の感覚ではなく、一昔前の多くの人々の感覚に合わせてみないと、なかなか、よく分かりづらい感覚になってきてしまうのですが、特に日本のように、戦後、急速に、何もかもが豊かになって、多くの人々が、そこそこ、リッチな生活ができるようになったような国というのは、それは、言葉を変えると、ほんの一昔前までは、ほぼ8~9割の人々は、単に貧しいだけでなく、生活も非常に不安定で、毎日、何とか生きてゆくことだけで、精一杯の時代が、非常に長く続いてきた、ということなのですが、そうした状況では、とにかく、今生きている人間のために、何かすることが、第一優先になってしまうので、もし、誰かが、大怪我をしたり、大病にかかった場合は、もうすぐに死を覚悟しなくてはならなかったし、それから、もし、その後、その人が亡くなってしまった場合には、大金と時間をかけて、手厚く葬るなんて、ほとんど出来ずに、たいていの人々の場合には、家族や親族達の心配や悲しみは、ともかくとして、この世的には、「まあ、最低限のことをしたら、お金も時間もかかって、とても大変なので、適当に、大勢の死者が埋めてある所に、一緒に埋葬しておけばいいか」、とか、「葬式をして、火葬にしたら、もう後は、骨しか残らないから、近くの簡単な親族共同墓地のような所に、一緒に入れておけばいいか」、というような具合に、はっきり言うと、どの人も、どの家も、かなりお粗末、というか、かなり適当な、かなり心残りの死者の弔(とむら)いしかできなかったような時代が、非常に長かったのです。

 ですから、多くの人々の潜在願望としては、「我が家も、お金があったら、武士やお金持ちのように、きれいな立派な石造りのお墓に葬ってみたいな」、とか、「いつも適当な供養ばっかりだったから、自分の家も、一度でいいから、武士や貴族みたいに、盛大な葬式をやって、それから、何回も何回も、立派な法事をやって、ものすごく丁重に、亡くなった人を葬ってみたいな」、とか、「無縁仏の墓地みたいな所じゃなくて、ちゃんと名前や戒名が書いてあって、しっかり管理されてる、お墓を作ってみたいな」、というような気持ちが、何百年、何千年と、溜まりに溜まっているようなところがあったために、近現代に入り、多くの人々が、そこそこ、物質的に豊かになってくると、やがて、ここぞとばかりに、それまで自分達としては、全くやったことがなかったような、言ってみれば、生きている人間には、ほぼ不必要な超贅沢、つまり、もうすでに亡くなってしまった人々のために、「きれいな立派な墓を設ける」、とか、 「ものすごくお金のかかるような、盛大な葬式を行う」、とか、「何度も何度も、丁重に法事を行う」、というようなことを、あちこちで、たくさん、やり出すようになっていったようなところがあるのです。

 日本の場合、それは、明治以降、普通の庶民が、だんだん、裕福になってゆく時代と、それから、特に戦後、ほぼすべての日本人が、かなり物質的に豊かな生活ができるようになった時代に起きた、ということなのですが(それ以前の時代の人々のお墓は、いったい、どこにあるのか、ということすら、全然、分からないようなものが、とても多いです)、そう考えてみると、ちょうど今頃の時期というのは、そうした感覚のピークを過ぎた辺りの時代になっているので、最近は、多くの人々、特に若い人の感覚としては、だんだん、そうした、お墓や葬式や供養というものに、あまり強い関心を示さなってゆきつつある、というような、ちょうど時代の曲がり角に当たるような状況になってきているのではないか、ということなのです
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 4

4、霊的に進化した惑星では、「死の象徴」に当たるような、「墓」を作る習慣や、亡くなった人の魂を、何度も何度も、地上の世界に呼び寄せ、引き戻すような霊的な働きを持つ、「葬式」や「供養」を行うような習慣は、ほとんど存在していない

 さて、こうした観点で、もう一度、お墓というものについて、考え直してみたいと思うのですが、特に、ここ百年ぐらいの間の時期というのは、こうした事情で、多くの人々の潜在願望の実現ということで、非常にたくさんの、非常にきれいな、しっかりとした、お墓が作られたり、非常に盛大な葬式や供養が営まれてきた、ということなのですが、実は、先ほども述べたように、霊的に見た場合、その人の霊が、肉体から、完全に離れてしまった後、いつまでも遺体を、地上の世界に置いておくと、いろいろ問題がある、と述べたのと、ほとんど同じような理由で、お墓の存在に関しても、霊的には、ほぼ不必要なところがあった、ということなのです。

 お墓が不必要な理由としては、大きく三つあるのですが、まず第一には、本当は、霊的には、亡くなった人に用事があるなら、亡くなった人に、直接、コンタクトすればよいはずなので、基本的に、そうした、もうすでに亡くなった人の魂の抜け殻にあたる、遺体、及び、遺体を置くためのモニュメントというのは、全く不必要なところがある、ということです。

 第二には、お墓というのは、霊的には、「死」の象徴、もしくは、「死」のモニュメントのような扱いを受けることになるので、本当の「幸福」や「生命」の尊さを尊重する、宇宙的な霊的な価値観では、ほとんど尊重されていない、ということです。

 第三には、これは、現在の地上の世界では、まだ、あまり知られていないのですが、実は、お墓を作る習慣というのは、前にも述べたように、この世界が、次元陥没して、低次元宇宙に属するようになってから、出来た習慣であるので、現在の地球が、まだ高次元宇宙に所属していた時代には、そうした、お墓を作る習慣自体が、全くなかった、ということです。

 それでは、いったい、どうやって、高次元宇宙の人々は、人生の最後を迎えていたのか、というと、それは、わりと簡単で、その時代の人々は、自分が、その世界で、学ぶべきことや、やるべきことを、しっかりと果たした段階で、パッと消えるような形で、より高次元の生命の世界に還り、人生の区切りを迎えていた、ということなのです。

 それが、現在の地球のように、低次元宇宙での生活を送るようになってからは、この世界には、突然の思いがけない「死」というものが存在するようになった、ということなのですが、こうしたことからも、よく分かるように、実は、「死」という概念、それから、そうした「死」という概念に基づく、「墓」という存在自体が、霊的には、まるで、一つの「死の宗教」のような扱いを受けるようなところがあったのです。

 つまり、他の動植物には、そうしないのに、人間の場合にのみ、死んだら、墓を建てたり、祭ったりするような宗教習慣があるのは、本当は、霊的に非常に盲目になった人々、つまり、死んだ後に、その人の魂が、どこにいるのか、ということすら、よく分からなくなった人々が、大量に出てくるようになったことと、非常に深い関係がある、ということなのですが、実は、こうした、死者の墓を作り、死者の葬式や供養を、一生懸命、行わせるような習慣を作らせたのは、光の勢力の側の神仏とは、全く関係なくて、闇の勢力の側であった、ということなのです。

 ですから、霊的に、ある程度、高度に進歩した惑星では、基本的に、たとえ、誰かが亡くなったとしても、その人の霊が、霊界に、しっかり移行したのが確認された段階で、遺体に関しては、その後、いろいろ霊的に呪縛されたりしないように、ほぼ完全に姿形がなくなるような形で、丁重に処理して、物質的には、なくしてしまうと共に、当然、そうした、その人の「死」に関わるような墓を作ったり、その後、何度も何度も、その人の魂を、地上の世界に引き寄せ、呼び戻すような霊的な働きを持つ、葬式や供養のようなものに関しても、原則、一切、行わないような形になっている、ということなのです。
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Q&A 亡くなった人々への対応について Part 5

5、霊的に見ると、現在の宗教形式における「葬式」や「供養」は、あまり意味がないようなところが多いので、それよりかは、できれば、生前の段階から、できるだけ正確な「霊界」の知識を得ておくことと、自分の心に、できるだけ正直に、後悔のない人生を送ることの方が、遥かに重要である

 それでは、結局、霊的宇宙的に見た場合、葬式に関しては、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、これも、現在の地球の宗教的な常識では、かなり変わった物の見方になってしまうのですが、大まかに要約すると、以下のような感じになります。

 まず第一には、これは、考えてみれば、全く当然の話なのですが、現在の時点では、かなり信頼の置けそうな一部の霊能者の話や、それから、臨死体験の報告から、冷静に考えてみる限り、この地上の世界において、肉体的な死を迎えて、「霊」としての生活に移った人々の感覚としては、「地上の世界での葬式や供養を、ものすごく、ありがたがっていた」、とか、「宗教家の儀式は、本当に最高で、それで、いっぺんに成仏してしまった」、というような話は、残念ながら、ほとんど聞いたことがないので、霊的な実態としては、誰かが亡くなった後に、宗教的な葬式や供養というものをやっても、実際の霊的な効果というのは、ほとんどないのではないか、ということです。

 第二には、これも考えてみれば、非常に不思議な話になるのですが、亡くなって、霊としての生活に入った人にとっては、初めてのことばかりなので、多少、ドギマギするような状況になるのは、ある程度、当然としても、基本的に、その人自身の感想としては、「あれ、さっきまで、大怪我で体が痛くて、大変だったのに、今は、体が痛くもないし、ものすごく軽いや」、とか、「自分が思った場所に、パッと移動できるんだ」、とか、「こちらからは、地上の世界の人々の様子が、はっきり分かるのに、地上の世界の人々からは、自分のことが、全然、見えないなんて、不思議だな」、などという具合に、言ってみれば、霊界や、霊との生活と言っても、ただの他人事の霊界物の話ではなくて、もう実際の実体験になってしまっているのです。

 ところが、残念ながら、現在の地上の世界の宗教では、そうした霊界の実態や、霊としての日常体験というものを、あまりよく理解していないことが多いようなので、お坊さんが、「南無(なむ)○○・・・・」、と、非常に尊いと言われるお経を読んだとしても、これは、客観的な風景を想像してもらうと分かりやすいのですが、「南無(なむ)○○・・・」、と、お坊さんが、お経を、一生懸命、読む側で、すでに亡くなって、霊となった人は、「あれは、どういう意味なのかな?」、とか、「仏様や神様は、どちらから来るんですか?」、とか、「みなさんは、心配しているけど、私は、この通り、死んでも、ピンピンしていますよ」、とか、「誰か一人でいいから、私の気持ちが伝わるといいのにな~」、とか、「もし、みんなに、自分が見えたら、最後のお礼と、お別れを言うのに・・・」、などというように、結構、冷静に、あれこれ考えていることが、多いようなのです。

※その点、霊となった人にとっては、キリスト教の神父(牧師)の話の方が、普通の言葉なので、分かりやすいようなのですが、結局、「霊界」と言われる所に行くと、生前、聞いていた話と違うことが多いようなので、結構、びっくりすることが多いようです。

 そうすると、いったい、どういうことが言えるのか、というと、これは、霊的には、かなりはっきりしていることなのですが、できれば、多くの人々が、生前において、やっておくべきことは、ある程度、趣味程度でもよいから、何らかの宗教に入信するというよりかは、あまりごちゃごちゃしていない、ある程度、理知的で、すっきりとした、霊界の様子や、霊としての生活についての簡単な知識というものを、あらかじめ、知っておくべきことだった、ということと、それから、もう一つは、後から、あまり心残りになることがないように、できれば、若いうちから、「自分が、これだけは、どうしても、やってみたい」、と思ったことは、たとえ、少々、失敗しても構わないから、とにかく、一度はやってみる、ということなのではないか、ということなのです。

 それというのは、これは、霊界の事情が、ある程度、分かるようになると、誰もが、非常に痛感するようになることなのですが、とにもかくにも、多くの人々が、亡くなった後に、困ったり、悩んだりしている内容のベスト3に上げられるようなことが、今述べたようなこと、つまり、自分としては、死ぬ前は、「死後の世界なんて、全然、訳分からない」、とか、「そもそも、死後の世界なんて、ある訳ないじゃない」、などと、かなり馬鹿にしていたにも関わらず、いざ、自分が亡くなってみると、霊界や、霊としての生活と言っても、はっきり言って、地上の世界と、大して変わらないくらい、かなりはっきりしたリアリティーと、それから、秩序正しさと、統一された世界観が支配している世界であった、ということに気付くので、その時、多くの人々が、つくづく考えるのは、「なぜ、自分は、地上の世界にいた時に、こんな簡単な真実について、何も知らなかったのだろうか?」、というような疑問や嘆きであることが多いようなのです。

 それと、もう一つ、多くの人々が、よくつぶやく嘆きや後悔の内容は、自分としては、常に、一生懸命、よく学び、よく働き、よく生きてきたつもりであったが、いざ、死んだ後に考えてみると、「なぜ、自分は、あの一番、言いたかったことや、やりたかったことを、先延ばしにして、結局、何も言わず、何もしなかったのかな?」、とか、「本当は、ちょっと、エイッっと、一発奮起すれば、簡単にできたのに、なんで、自分は、それをしなかったのかな?」、などというような嘆きや後悔というのが、意外と多いものなのです。

 その結果、そうした嘆きや後悔の念を強く抱えた人というのは、その後、霊界に還っても、わりと短期間のうちに、何らかの機会を得ると、再び、地上の世界に生まれ変わってくることになるのですが、これも、よほど心の奥で強く望んだことでもない限りは、再び、地上の世界のいろいろな誘惑や障害に負けてしまい、そうした人生が終わると、なぜか、また、同じような嘆きや後悔の念を持つことも、結構、多かったりするものなのです。

 それゆえ、私は、誰かが亡くなった後に、盛大な葬式や供養をやるくらいなら、できれば、それ以前に、地上の世界で生きているうちから、これは、別に何らかの宗教に属さなくてはならない、というような意味では、全くないのですが、霊界や霊の生活について、書かれた、わりと信頼の置けそうな本を、最低でも、数冊程度は、読んで、そうした霊界の予備知識を得ておくと共に、それから、もし、突然、地上の生命が終わったとしても、決して、後悔することがないように、「これだけは、自分がやりたい」、とか、「一度でいいから、やってみたかった」、ということに関しては、できるだけ積極的にトライしてみることが、とても大切なのではないか、というように、率直に感じております。

 さて、そうすると、現在、営まれている葬式の未来像というのは、いったい、どのようなものになってゆくのか、というと、もし、多くの人々が、わりと簡単に、亡くなった人とも、普通にコミュニケーションできるような状況になっているのであれば、たとえ、誰かが亡くなったとしても、エンエンと大きな声で泣いて、悲しむ必要は、あまりなくなってくるでしょうし、それから、あまり格式ばった儀式をやっても仕方ない、ということになってくるので、おそらく、現在のような形で、スピリチュアルな知識が、自然と普及していった暁には、せいぜい、やっても、スピリチュアル(霊的)な要素を持った、亡くなった人の「お別れパーティー」のような催しをする程度のものが、だんだん主流になってゆく、というような流れになってゆくのではないか、というように、素朴に考える次第です

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

 

毒素とは何か? 薬の効能と治癒の違い 

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毒素と言っても、動物には毒となってもヒトには毒にならないもの

逆にヒトには毒になっても動物には毒にならないもの

とありますが、もちろん、ここはヒト(人間)にとっての毒のことです。

これについては内海聡先生の本に詳しく書いてありますね。
また医学界の水戸黄門様、船瀬俊介先生の本とか・・・

いずれにしても、毒とは人体にとって有害となるものです。その有害物質が体内に入って毒素となる。こういうわけですが・・・(どういうわけ?)

岡田茂吉の医学論文集より抜粋

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

毒素とは何か


『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 病気の原因は体内に溜った薬毒の固結が、溶解排除される苦痛である事と、医学はその苦痛を逆解し、溶けようとする毒素を固める事であるが、それには毒を体内に入れて弱らす事である。

というのは毒素排除すなわち浄化作用なるものは、人間が健康であればある程旺盛なものであるからである。

そこで浄化作用を停止する事で、それには健康を弱らす事である。

その理を知らない人間は、昔からその毒を探し求め飲ませたところ、からだが弱り、浄化が弱り、苦痛が軽減したのでそれで治ると思い、有難いものとして薬と名付け、病気の場合これを唯一のものとして用いたのである。

これについて有名な漢〔蘭〕方の名医杉田玄白のいった事は、「薬は毒である。

治病に薬を飲ませるのは、毒をもって毒を制するのだ」との言葉は至言である。

ただいささか徹底しない点は、毒をもって毒を出さないようにするといった方がなおハッキリする。

この理によって毒の排除を止めるに毒をもってする以上、古い毒素の上に新しい毒素を追加するので、古い毒の固りの外に新しい毒の固りが増えるから、最初より浄化が悪性となる。

それに対しまた新しい毒を入れるから、段々毒が増えてゆき、からだは弱る上に弱るので、浄化の力も弱くなる。

こうなった人は顔色悪く、風邪引き易く、元気なく、常に医者と薬に浸りきりになり、生ける屍のごとくなって、年が年中苦しみ通しであって、一人前の仕事など到底出来ない哀れな者である。

しかもそうなってもその原因が分らないから、相変らず次から次へ医師を取換え、新薬を探し求め、灸や禁厭(まじない)、民間療法、信仰等に遍歴しているが、それでも根本が分らないため、散々金を使った揚句(あげく)、苦しみながらあの世行となるので、この因はといえば医学の誤りであるから、この罪悪こそ驚くべく恐るべきもので、結果からいえば医学は悲劇の製造元であるといってもいい。

後略

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

上記は原理的な話ですね。

いまでは精神作用が一種の毒素のような働きをして体に大きな影響を与えるということが分かってきました。

ゆえに薬や毒物だけの世界じゃなくて、生き方や考え方も大きな原因になっていると言うのです。

したがって、「薬や毒物」だけを焦点にしても片手落ちなのかも知れません。

そこはおのおの方がお考えなってご研究をどうぞ■D\(^^

 

むかし、万能薬みたいな抗生物質が登場して、なんでもかんでもこれでスッカリよくなったという時代があったようですね。

しかし、原理原則から言えば「浄化作用停止によく効いた万能薬」のようでした。

その証拠に、いま抗生物質の危機が叫ばれていますものね。

 

 

え?格調高い論文にたいして、オマエのはあまりにも丁重だ? いや低調だ?

余計な解説入れるな?

 

そうはいきません!!

 

 

 

 

現代医学は固め療法  何を固めるの?

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一口に言えば現代医学は固め療法である。

なんて言っても、なんのことだい? と思われるでしょうね。

わが研究会は鵜呑み厳禁のうえで、見も聴きもしないで捨て去る行為は禁止という規則がありまして、、 (研究会の会員って誰?って聞かれてもね~~ 答えない悶寝)

 

まあ、資料提供者の言い分など無視しておのおの方の自由研究にお任せするのが趣旨なので。

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

固め方法と溶かす方法

『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 以上のごとく現在までの療法という療法は、ことごとく固め手段であるから、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事がよく分ったであろう。

そうして薬剤以外の方法としては彼(か)の電気、レントゲン、種々の光線療法等、いずれも固め方法であり、氷冷、湿布、塗布薬等も同様であるが、ただ灸点、鍼(はり)、吸瓢(すいふくべ)だけは右と異(ちが)い、刺戟によって浄化中の毒素を患部へ誘引し、一時的苦痛緩和を狙ったもので、もちろん治るのではないから、灸など毎月というように定期的に据えるのはそのためである。

このように今日までのあらゆる療法は浄化停止であるから、病を治すのではなく、結局治さない方法でしかないのである。


 この理によって真の病を治す方法は、右とは反対に固結した毒素を溶かして体外へ排除させる事で、それ以外真の療法はないのである。

それを理論と実際とによって、これから詳しく解説してみるが、それについて前もって知っておかねばならない事は、人間なるものの実体である。

これを医学では一個の物質と見なしているが、もちろん医学は唯物科学から生れたものである以上、そう見るのも当然であるが、この見方こそ誤謬の根本である。

というのは人間が単に物質のみであるとすれば理屈に合わない事になる。

何となれば人間には意志想念という目にも見えず、手にも触れないものでありながら、確かに存在しているからで、こればかりはいかなる科学者といえども否定は出来ないであろう。

とすればこの無なるものが、実は人間を自由自在に操っている本尊様という事になる。

近来医学でも精神医学といって、精神的に治す方法を試みているが、これが案外奏効するので、漸次関心を持たれて来たという話である。

してみると医師の中にも、人間は物質のみでない事を認識された訳である。

以上のごとく人間は肉体以外見えざる心があり、心を包んでいるものを私は霊と名付けている。

従って霊と肉体との両者併合によって成立っているのが人間である事は余りにも明らかである。

ところが医学は右のごとき人間の本体である霊を無視し、体のみを研究して来たのであるから、一方的跛行的であって、言い換えれば肝腎な主人公たる魂を無視して、その配下共を対象とした訳である。

つまり肉体は外殻で中身ではない。

中身とは見えざる霊であるから、これを主としてこそ真の医学は成立つのである。

医学がすべての病原を細胞〔菌〕のみに持ってゆくのもそのためである。

ではなぜ科学は霊を認めなかったかというその原因こそ、霊は肉眼で見えず、機械でも測定出来なかったからである。

というのは全く現代科学のレベルが低いにもかかわらず、それに盲目であったため科学を実価以上に信じ、科学で把握出来ないものは一切無と決めてしまった。

つまり科学過信の結果である。

従って将来科学が幾層倍進歩した暁、霊の確認はもちろんだが、ただそれまでにいかに誤った医学による多数の犠牲者が出るかを想う時、一日も早くこの迷盲を目覚めさせなければならないと痛感するのである。

という訳でこの発見が現在科学の水準より余りに進み過ぎているため、容易に信じ難いのである。

とはいうもののこの説こそ不滅の真理である以上、遅速はあろうが必ずや、全人類理解の時の来るのは、さまで遠くはないと思うのである。


 ここで後〔前〕へ戻るが、病の根本である霊の病とは何かというと、これこそ霊へ発生した曇りであって、これを除去する方法を浄霊というのである。

すなわち霊の曇りがなくなれば、体へ映って濁血は浄血となり、最も濃厚な分だけ種々の排泄物となって体外へ出て病は治るのである。

そうして濁血の古くなったものが膿であるから、彼(か)の排泄物には膿と濁血と、両者混合のものとの三種あるのもそういう理由である。


 以上のごとく濁血が霊の曇りの原因としたら、一体濁血は何によって作られるかというと、意外も意外これこそ薬剤であるから、初めて知った人は開いた口が窄(すぼま)らぬであろう。

ところが今日までそれを知らないがため、薬剤をよいものとして使用して来たのである。

しかし薬毒は医学でもある程度認めてはいたが徹底しなかった。

すなわち医学では自然に排除されるとしていた事である。

それについて次に説明してみるが、本来人間の食物としては五穀、野菜、魚鳥、獣肉等ことごとくは、人間の嗜好に適するように出来ており、その味を楽しんで食えばそれで必要なだけの栄養が摂(と)れ、生が養われるので、これが自然である。

この点生殖と同様で、子を造る目的ではなく、他の目的によって自然に出来るのである。

このように食うべき物は自ら決っており、体内の消化器〔機〕能もそれだけを完全に処理するようになっているので、他のいかなる物も処理されないのはもちろんであるから、薬は異物である以上処理されず、大部分は残ってしまう。

しかも浄化を停止するだけの強い毒である以上、その毒分は残り血液中に吸収される。

これが濁血である。

この理を知って医師も患者も既往(きおう)を顧みれば必ず分る。

この病気は何年前、何十年前に、アノ病気の時服(の)んだアノ薬、アノ注射のためであったと気が付くのである。

というのは薬毒の執拗(しつよう)なる容易に解消するものではないからで、この例として私が五十二年前肋膜炎を患(わずら)った時の薬毒が今も残っており、数年前から私自身毎日のように溶かしており、近頃は大分減ったが、それでも少しはまだ残っている。

今一つは三十七年前歯痛のため約一ケ年間、毎日のように薬を塗(つ)けたための痛みも今なお残っており、これも毎日浄霊しているくらいであるから、薬毒の恐ろしさは到底想像すらつかないものである。

このように薬毒は一生涯の悩みの原因となるばかりか、全部の解消はまず困難といえよう。

この理によって我浄霊法とは薬毒溶解排除の方法であって、現に薬毒が減っただけは快方に向うにみても判るであろう。


ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

この最後の方の「浄霊」について

 その当時の浄霊であって、現在そのまま通用するかは不明です。
自分で確かめるしか在りません。

それはどこにも行かず、そこでそのまま試すだけでよいのです。

え? 信仰? 信者? 信じる?

 一切無視してやってみてください。

練習する、繰り返し練習する (過去記事に書いた覚えがありますので検索を)

 

そういう時代に入っていますよ、きっと。(きっと?)

 

 

「クスリに殺されない47の心得」を読んで・・・なんだ、当たり前だのクラッカー

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当たり前だのクラッカー だと思っているのは極少数、思い込みのakyooん♪ですからね。

みんなが知っていると思っていたら、なんと!そうでは無かったようです。

 

クスリに殺されない47の心得 体のチカラがよみがえる近藤流「断薬」のススメ   アスコム

この本を読んで

「なんだ、当たり前だのクラッカー」だと思ったひと  ← 極小数派(akyooon含む)

「え~~! そうだったの~~~!」 だと思ったひと  ← 大多数派

「バカバカしい、トンデモ論だ!」と思ったひと  ← 一部多数派 (医療業、その他)

 

 そこで、本を読めない不自由な方 (文盲を含む)に

音声読み上げクスリに殺されない47の心得 C

 誤読もありますので、誰かに本を読んで貰って後で確かめてください。

 

(03/25)クスリに殺されない47の心得 A

Bもありますので、探してみてください

 

 

 

 

 

 

 


現代医学に鉄ついを下す論」は果たして・・・

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これほど、現代医学批判論があったでしょうか?

現代医学は九割不要論 など現在は知れ渡って来つつありますが、それでも「キチ外」と称されるほどのトンデモ医学論と(普通は)思われているようです。

昭和28年の論文ですが、じつは昭和の10年頃から同じようなことを書いていた岡田茂吉氏はあまりにも極論だったのでしょうか?

 

取捨選択眼を駆使してお読みください。

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

 

  『医学革命の書』

    現代医学論

  昭和28年(1953)年執筆

     この著を編纂(へんさん)するに当って、私は非常な決心をした。

 というのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人(なんぴと)も驚嘆せずにはいれないからである。

 これほど進歩したと思い、世界万民が謳歌し、信頼している現代医学に対し、私は真向(まっこう)から鉄槌(てっつい)を下すのであるから、人類救済のためとは言いながら、まことに忍び難いものがある。

 しかしながら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私といえども絶対者の命に従わざるを得ないと共に、現在病魔のために地獄の苦しみに呻吟(しんぎん)しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬にある以上、到底晏如(あんじょ)たるを得ないのである。

 ゆえにもし現在のままの迷蒙を続けるとしたら、人類の将来は果していかになりゆくや、思うさえ慄然(りつぜん)とするのである。

 
     そうしてこれをかくに当っては、まずその根本から明らかにせねばならないが、それにはまず現代人の科学至上観念である。

 序論にもある通り科学さえ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、そのため事実よりも学理の方を重視し、いかなる発見創造といえども、既成学理に合わない限り拒否して取上げないとする偏見であって、これが文化的と思っているのであるから困ったものであるが、むしろこれこそ文化の反逆でしかない。

 何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを取上げる、ここに文化の進歩があるのである。

 ところがそれを頭から否認するという丁髷(ちょんまげ)思想であって、この代表ともいうべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはないはずの新しい封建である。

 という訳でこの著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、しかし事実が何よりの証拠である。

 それは今日のごとく医学が進歩したにかかわらず、至る所病人の氾濫である。

 ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞くところで、現代人残らずといいたい程何らかの病気をもっており、真の健康者はほとんど皆無といってもよかろう。

 これらにみても分るごとく、もし現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者のことごとくは失業者とならねばならないはずであるにもかかわらず、事実はその反対であるとしたら、ここに疑問が生ずべきだが、一向そういう気振(けぶり)はみえないどころか、益々迷路を驀進(ばくしん)している有様で、その危うさは到底観てはいれないのである。

 従って私はこれから徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添えてある以上、いかなる人でも飜然(ほんぜん)として目覚めない訳にはゆかないであろう。

 
     そうして現代人の病気を恐れるのはなはだしく、一度病に罹るや早速医師の診療を受ける。

 ところがこれがまた意想外であって、治るようにみえてもそれはある期間だけの事で、根治とはならない。

 そのほとんどは慢性か再発かのどちらかである。

 これを常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのはこれも迷信のためである。

 そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。

 もちろん入院すれば多くは手術を伴うから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験するところであろう。

 右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさえ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決っている。

 その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事もしばしばあるが、ほとんどは泣寝入りである。

 
     ところが手術も受け、あらゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は費い果し、二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さえ往々あるのは、よく新聞に出ているが、そこまでゆかないまでも病気が原因となって、色々な忌わしい問題を惹起(じゃっき)するのは衆知の通りである。

 今日あらゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言いたいくらいである。

 それに引換え我浄霊医術によれば、いかなる重難症でも短期間に、しかも僅かの費用で快癒するので、これを医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶っているからである。

 ここにおいていかなる無神論者といえども、今までの不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

 
     次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何がために生まれ、誰が造ったかという事である。

 これこそ昔から誰もが最も知りたいと思っている問題であろう。

 もちろん人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主すなわち神が造ったものに違いないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。

 というのは人間は神の御目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きている限り健康で活動出来るのが本来である。

 しかるに何ぞや、病気に罹るという事は異変であって、そこに何らか真理に外れている点があるからで、この点に気付き是正すれば治るのが当然である。

 ところがこれに盲目なるがため、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れているからである。

 
     そうして今日までの病理は、大体左のごとくである。

 すなわち漢方医学においては、五臓の疲れまたは不調和のためであるとし、西洋医学においては黴菌感染によるとしている。

 このどちらもまことに浅薄極まるものであって、いささかも根本に触れていない迷論である。

 しかも後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであろうが、それは事実が語っている。

 今日医師は患者から訊(き)かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めているであろう。

 つまり病気の真因が分っていないからである。

 そうして医学における誤謬の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。

 すなわち医学は苦痛そのものをもって人体を毀損(きそん)し、健康を破り、生命を脅(おびやか)すものとしており、苦痛さえ除れば病は治るものと解している。

 この考え方こそ大変な誤謬であって、今それを詳しくかいてみよう。

 
     そもそも病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それがある程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。

 これを吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、この苦痛を称して病気というのである。

 ゆえに病気とは体内清浄作用の過程であるから、これによって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、これが真理である以上、この著を読めば必ず納得されるはずである。

 ところがいつの頃どう間違えたものか、これを逆に解釈して出来たのが医学であるから、この逆理医学がいかに進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

 
     右のごとく医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、この考え方によって進歩発達したのが現在の医療である。

 そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、これを停止するには健康を弱める事である。

 そこで弱らす手段として考え出したのが毒を服(の)ませる事で、それが薬であるから、薬とはもちろんことごとく毒である。

 すなわち毒をもって浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るから、それを治ると錯覚したのであるから、世にこれほどの無智はあるまい。

 従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなくむしろ治さない方法である。

 ゆえに医師も治るとは言わない、固めるというにみても明らかである。

 
     右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるようにし、排除を速(すみや)かならしめ、無毒にする事であって、これが真の医術である。

 これなら再発の憂いも罹病の心配もなくなり、真の健康体となるのである。

 ところが一層厄介な事は、右のごとく毒素排除を止めるための薬が毒素化し、これが病原となるので、つまり病を追加する訳である。

 この証拠として医療を受けながら、余病といって病が増えるのが何よりの証拠である。

 本来なら治療をすればする程病気の数は減るはずではないか。

 それがアベコベとしたら、これほど理屈に合わない話はあるまい。

 知らぬ事とは言いながら、医学はいかに迷蒙であるかが分るであろう。

 
     以上のごとき逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、服(の)むと中毒するくらいの薬なら一層効くから、近来のごとく注射流行となったのである。

 また近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼(か)の有名な漢〔蘭〕方医の泰斗(たいと)杉田玄白先生は「病に薬を用いるのは、毒をもって毒を制するのだ」といったのはけだし至言である。

 従って熱、咳嗽、吐痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、ことごとくは排毒作用であり、腫物、湿疹、疵(きず)や火傷後の化膿等も同様であるから、実に結構なものである。

 ゆえに何病でも何ら手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行われ、速かにしかも確実に治るのである。

 

    (注)
    泰斗(たいと)
     その世界での権威者。 泰山(中国で一番重要な山)、北斗(七星)から取られた

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

論文のように、すべてがそれに当てはまるわけでは無いでしょうが。。。(そのまま死に逝くひともいるだろう)

またその当時の「浄霊法」が現代にも等しく効果のあるかどうかも疑問のあるところで、それは個人が実際に確認(どこそこへ入会するとかの事では無く、無条件で試してみること)しなければ分からないわけです。

ただ、治療法は抜きにしても、『自分自身の治癒力』を信頼することが一番の柱だとは思いますが。

基本は「そのひと自ら治す(治る)力に任せた方が順調だということのようです。

たいていの人は黙ってみていられない(自分も他人のも)わけで、何かしらの治療法を選ぶわけです。

そして、大多数の人が浄化作用停止方法(代表が薬物治療方法)に走るのでしょう。

しかし、本当の治療とは浄化作用を邪魔しない方法だけを「治療」と言うのであって、そうでない方法まで「治療」と称するのでややっこしくなるわけです。

 治していないのに「治療」



「医学の発見について」  残念ながら・・・ちょっと浅いかな・・と

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年代不詳となっていますが、スプレプトマイシン(抗生物質の一種)が出た頃ですから昭和2?年頃だと思われます。

内容についてはもちろん取捨選択が必要ですが

  現代医療についてこれだけの批判論を書いていたので、これが「未発表」になっていた理由でしょうか?

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

医学の発見に就て

未発表、年代不詳

 最近中村医博が死人の眼球を利用し角膜移植によって、盲眼を治癒し成功したという報告があり、それをよく聞かれるからここに解答するのである。


 白内障等にて水晶体が曇った場合、程度艶消硝子(つやけしガラス)のようなものであるから、透明硝子を入れ替えれば一時見えるのが当然である。

しかし時日が経つに従ってまた元通り見えなくなるのである。

何となれば白内障の原因は前頭内にある毒素が、浄化作用によって眼球から排除されようとして集溜するものであるから、一時消失してもいつか元通りに再び集溜するのである。

それは原因である頭脳内の毒素が皆無にならない限り、そうなるのは当然で、しかも頭脳内の毒素は案外に多量であるものであるからである。

従って根本的に治癒するには現在眼球に集溜せる毒素と、前頭内に残存せる毒素との両方を排泄されなければならないのである。


 今日まで医学における新療法または新案は例外なく一時的効果であって、決して永久的効果はただ一つもないのである。

例えば手術にしても一時治癒したように見えても事実は再発するか、または他の病源が新たに作られるかどちらかで、決して発病以前の状態にまで全治させる事は不可能である。

これは医家も充分知っているはずである。

これを二、三の例を挙げてみるが、彼(か)の扁桃腺除去によって扁桃腺は起らないとしても、淋巴腺や耳下腺炎が起りやすくなり、頭脳にも影響してその活動力が鈍化し、根気が薄くなり、集中力が薄弱になるのは、吾々が常に経験するところである。

また盲腸炎手術の結果は腹膜炎、肝臓障碍(しょうがい)、萎縮腎等を起しやすく腹力が弱まり労働力が減退し精力が衰える事はこれまた常に見る所である。

また腎臓病の療法として、一方の腎臓を剔出(てきしゅつ)除去する結果、残りの腎臓は二重の負担がかかるから障碍が起りやすく全身的にも精力の減退は著(いちじる)しく、まず一人前の人間としての生活力はなくなるのである。

その他胃癌直腸癌の手術など、成功して廃人同様となり生命も数年を保つに過ぎないのである。

しかしながらこれらの手術について医学がいつも言う事は、数ケ月しか保てない生命を手術によって数年延びるとすれば差引き有利ではないかというのであるが、これがまた大変な間違いで、吾らの経験上数年保つ寿命を手術のために数ケ月に短縮される方がずっと多いのが事実である。

これに目覚めない医学にいつも長大息(ちょうたいそく)するのである。


 次に薬剤についていうが彼の肺結核の特効薬としての薬剤であるが、昔はクレオソート剤を唯一のものとして盛んに用いられたもので、これは防腐剤で肺臓の腐敗を防止するというのであるから、いささか滑稽で今日は電柱等の防腐剤として用いられている。

近年に至りセファランチンが一時推奨(すいしょう)されたが、ペニシリンが出てこの方法が流行の勢を示したが、最近はストレプトマイシンが代って流行するかと思えば、昨今それ以上の特効薬が出来たという事である。

これらによって見ても判る通り、新薬を試験するや、一時的効果に幻惑され、有頂点となって発表し宣伝するのであるが、もちろん一時的で持続的効果がない事が判り、たちまち放棄せられ、次から次を求めるというのが真相である。

故に今後何十何百の特効薬が出ても、全部無効果である事を吾らは断言して憚(はばか)らないのである。




ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 現代では白内障の手術は一般的になりましたし、その成功率もかなり高く一般人としては「医学の進歩」の賜物だと思われています。

が、根本原因は頭の方にあるというのですが・・・

 

抗生物質の華々しい登場時期にかかれたものらしいですが、その後の抗生物質への耐性菌出現で現実になってきたようです。

 

また、扁桃腺除去、虫垂手術等も最近では医学者が指摘するようになってきました。これらの部位は人体に不要どころか重要な器官だったと。

岡田論は昭和初期から基本は同じですから(医学論に関してだが)、すでに数十年経っているわけです。

取捨選択で何を取り入れ、何を捨てるかは自由ですが、この論文に関してはかなり必要なのでは無いかと、ボクは考えています。

 

 


「病気を治す方法」について。 唯一の方法は無いが中心はひとつ

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治癒の中心は自分自身の力です。

ただ、放っておくという事になりますが、これには時間がかかります。

それに耐えられないので(本当は耐えられるのだが)ひとは何らかの療法に頼ります。

今までは薬物療法(毒素療法)が主でした。

そして、現在でも主役です。 薬で楽になるという効果は否定できないからです。

 

しかし、真の治療方法では無いことは現代の薬理学の方で分かっていることです。

 

さて、当面の苦痛をどうしのぐか・・・・・

たとえ当時の効果抜群の浄霊治療であっても、全部が全部、楽になったか・・・

それは100パーセントではなかったと思います。

「浄霊治療」の効果があるなしに関わらず、やはり治癒の主役は自分自身の力です。

それが生命力であり、内在する神の顕現ですねえ~~

 

しかし、それも間に合わないほどの体質のひとは浄化してこの肉体を去ることになります。

それがひとつの覚悟なのでしょうが、覚悟が出来ないひとの方がずっと多いわけでして、どうしても薬物に依存する方向へ

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

病気を治す方法

   『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 以上によって病気なるものの実体は大体分ったであろうが、ではそれを治すにはどうすればいいかという事である。

前項のごとく放置しておけば治るのは間違いないが、それでは非常に時日がかかる。

というのは毒素が少量であれば速かに治るが、そういう人は極く稀で、大抵な人は薬毒が充満している。

もっとも政府も医師も小学校時代から薬を服めと教育し、奨励し、これが文化のあり方としているのだからたまらない。

今日薬剤特に新薬がいかに売れるかは、新聞広告欄を見ても分る通り、第一位を占めている。

かてて加えて先天性薬毒も保有している以上、今日の人間は人間の形をした毒の塊であるから、ともすれば病気に罹り易く、その都度(つど)薬と来る。

という訳で戦々兢々として日を送っている。

しかもそういう人に限って矢鱈(やたら)に薬を服み、衛生にも充分注意していながら弱々しいのは、昔から養生家程弱いと言われている通りである。

また当局は当局で医学の説を金科玉条と信奉している。

そのためヤレ帰宅したら手を洗え、含嗽(うがい)をしろ、風邪を引くな、暴飲暴食を慎め、無理をするな、睡眠を充分採れ、黴菌を恐れよなどと注意怠らず、結核検診、各種の予防注射は固より、子供は寝冷をするな、生水を飲むな、食物をよく噛め、よく睡れなどと、ザッとかいただけでこのくらいだから、現在生活の煩雑さは生きているのが嫌になるくらいである。

これが文化的生活としたら、一種の牢獄であろう。

この最大原因こそ病なるものは、健康のための神の恩恵である事を知らず、逆に病気を病魔と言い、闘病などといって敵視しているのを、吾々からみれば迷信地獄に陥ちて苦しんでいる人々としか思えない。

それに引換え吾々の方では病を大いに歓迎している。

例えばお陰様でやっと風邪を引きました。

先日は酷い下痢と嘔吐があって、それからとてもからだの工合が好くなりましたとか、やっと熱が出たからもう大丈夫だと、仕事に取掛るというような有様を見たら腰を抜かすであろう。

これこそ病の根本が分っているためと、必ず治るという自信があるからで、この境地こそ文字通りの安心立命を得た幸福者である。

ゆえにこの世界から薬剤全部を海へ投げ棄てるとしたら、その時を限りとして病は漸次この世界から消滅するのは、断言して憚(はばか)らないのである。


 以上は現代医学に対し、大胆率直にその真相を暴露したのであるが、ではこの誤謬を是正するにはどうしたらいいかというと、それははなはだ簡単である。

すなわち私の説に従い、病気に罹った場合自然療法か、または浄霊療法を行えばそれで解決するのである。

これについて今までの統計によるも、最も治り難いとされている結核の治癒率が九十三パーセント、他の病気は九十七パーセントという好成績を挙げている。

しかも右の少数失敗者の原因は、薬毒が余りに多量のためであるから、そうでないとしたら百パーセントは確実である。

また浄霊法の最も誇るべき特長は、施術の場合医療と異(ちが)って、肉体に一手も触れない事である。

そうして浄霊の主眼は薬毒解消法であり、薬毒が減っただけは治るからよく分る。

といっても医学迷信に固まっている現代人は、容易に信じられまいから、充分納得のゆくよう詳説すると共に、本人手記の百の実例〔略〕をも添えてある以上、理解されないはずはないと思う。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

 

 

「細胞の意志」 お! これはホンモノ らしいゾ~

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まだ読んでいないのですが

チラッと覗いた「私の目(節穴)」はゾクゾク~~っとしたのです。

 細胞には意志がある。

なんともビックリですが、世の中はそういうものなんですね。

 おそらく、細胞で出来ている生物はもちろん、

無生物とさえ言われているウイルスでさえなんらかの意志があると思っています。

この地球は微生物の海、空から海の底まで、土の中と・・微生物だらけの地球。

そして、その微生物たちに護られ(時には廃棄される 苦笑)ている生物たち。

人間はその中で活きている、しかも60兆個と言われる体の細胞ひとりひとり(擬人化語)が意志を持って、交響曲を奏でている・・・・♪

そして、これだけexcellentであるボクが居る¥  

自画自賛です。(え?爺が自讃)

 

団まりな氏は「細胞には意志がある」とハッキリと示してくれているようです。

(まだチラリ覗きなのですが・・)

ついでに、ひとはなぜ細菌と一緒に出来ているのか?
そして、時には細菌が病気を引き起こしたり、ウイルスが侵入して(初発は発生するという説もあるが)病気を引き起こすのか?

岡田論によれば、それらは「浄化作用の手助け」だという。
必要時に現れ、不要になれば去ってゆく。そういう天狗のおじさんみたいな微生物が「病原性微生物」の存在理由だという。

普段は体内には100兆個以上の細菌が住んで共生しているそうだし、細胞には細菌と合体したようなものとかウイルス遺伝子がひと遺伝子となっているような細胞もあるという。

もしも、(おそらく「もしも」じゃないだろうが)細胞に意志があるのなら、当然のこと、常在細菌との「話し合い」はもちろん、常在じゃ無い(病原性と言われるような)微生物、病原性細菌とか病原性ウイルスとか言われている彼ら(彼女?)とも「話し合い」がされていると思うのだが

医か我でしょうか?

医学者達にはこういう微生物をテロ余話張りしているが、テロを作り出した張本人だったのではないのか  なあ~~? 

欧米諸国がテロ組織を育て、それをばらまいてから、掃討するという一種の仕掛けみたいに(笑い ←わらうばあいか)

細胞に意志があり、ウイルスや細菌にも意志がある。

キミ達がいてボクがいた。

ボクがいてキミ達がいた。

そこには付いたり離れたり、一生の仲間と通りすがりのような仲間(バイ菌とか病原ウイルスとか)とも話し合いが持たれているのでは無いだろうか?

こんど尋ねてみよう・・・

 

細胞には意志がある。そして60兆もの同志がそれぞれの役割を果たしているという。その立場も千差万別。

キッスをする唇を形にする細胞たち、ウンコを排泄するために臭い場所(肛門)に位置する細胞たち・・・アソコに位置して伸びたり縮んだりする細胞たち、その隣に位置してご主人様が他人様の細胞を訪問する時には、いつも入り口付近で待機している細胞達・・

それぞれの立ち位置をお互いに守って体全体を維持していくいじらしくも賢い細胞、、

彼ら60兆の細胞にはそれぞれ意志があるという。

そういう細胞に生まれてか死ぬまで付き添って、活力を与えてくれる共生細菌、そして、いざというとき(体内の汚染度が増して浄化される状況)には、「悪者」として登場してくれる浄化担当の細菌、ウイルスたち・・・・

お互いに意志があり、「話し合い」が行われているに違いない。

マチガイナイ!  (と、ボクが言うとまちがいなんだろうけど・・)

 

団まりな 氏を検索すると出てきます。

そして、その結果この本を借りてきました (痴呆の図書館より)

細胞の意思 〈自発性の源〉を見つめる (NHKブックス)  細胞は神の意志なり (akyoon談) NHK出版

バイ菌の中で生息するボク達人類はバイ菌人間だった

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細菌の最近学は休息の進歩を継げているという。

あ、誤字だらけじゃないか!!

 

 いつも言うようにバイ菌から逃げたら阿寒。

だって、ボク達、バイ菌人間なのだから。

しかも・・バイ菌だらけの世界にどっぷり浸かっているのだし・・・

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

人類は細菌が圧倒的優勢である世界の小さなシミにすぎないとも言える。私たちはこうした考え方に慣れる必要がある。

 ウイルスも存在する。厳密に言えば生物ではない。生きた細胞に侵入しそれを利用することによって複製する。インフルエンザや風邪、ヘルペス、HIVなどのウイルスは、ヒトに対して「害悪をなすもの」と考えられている。しかしウイルスの大半は、私たちヒトに無関係な存在である。ウイルスの主た
星の数より多いかも知れない。それらが海のなかで無数の細菌に寄生して生きている。何十億年にもわたって水中にいる間に、細菌とウイルスは、お互いを負かすための軍拡競争をしてきた。それは、風刺雑誌『MAD』に連載された「スパイ対スパイ」という古典的マンガを思い出させる。事実、細菌感染によって引き起こされる病気の治療法として、細菌を殺すウイルスである「ファージ」の活用が検討されている。そのことについては、本書の最後で触れる。

 多くの微生物がこの世界に棲み、この世界をかたちづくっている一方で、本書の主要な焦点は細菌にあり、また、私たちが細菌を薬剤によって無差別に殺戮した場合に何が起こるかということに置かれている。もちろん、悲惨な症状をもたらすマラリアの原因となるマラリア原虫などの真核生物も存在する。それがもたらす問題はまた異なるものである。病気を引き起こすウイルスについても同様である。ウイルスは抗生物質に反応しない。それは後日のテーマとする。

 微生物はどこにでも存在する。海には数え切れないほど多くの微生物が暮らす。とはいえ、いくつかの推定値がその遍在性に具体性を与えている。少なくとも二〇〇〇万種類(おそらく現実には一〇億種類くらい存在する)の海洋微生物が、海洋生物質量の五〇から九〇パーセントを占める。海表面から海底までに一本の中空の柱を立てて、そのなかの海水の微生物数を推定すると、一〇の三〇乗(ノニリオン)個の微生物が存在すると考えられている。一〇億×一〇億×一〇億×一〇〇〇。これは、アフリカゾウニ四〇〇億頭分の重さと等しい。

 国際海洋微生物調査TGMM)は、世界中の一二〇〇箇所から1〇年以上にわたって海洋微生物を採取している。調査によれば、海洋にはこれまで考えられていたより1〇〇倍以上多くの種類(属)が存在すると推定され、観察されたどの場所においても、いくつかの種類の細菌が数と活動性において優位にあることが明らかになった。しかし驚くべきことは、どのような場所にあっても多くの種類の細菌が存在するということである。それは、一回限りの単独個体を含む一万個体くらいの数(細菌にとっては大した数ではない)として存在していることが多い。
国際海洋微生物調査によれば、海洋中の多くの稀少な微生物は、今はじっと待機しているが、環境が彼らに有利に変化すれば、いつでも繁栄し優勢になるという。同じ考え方は、私たちの体内に住む微生物にも当てはまる。長期間にわたって少数の個体で潜伏し、突如として繁栄する能力は、微生物の特徴とも言える。

 多くの海洋微生物は、いわゆる好極限性細菌である。彼らは、マントルから出た硫黄やメタンや水素を豊富に含む熱水が冷水に出会い、煙突のような円錐形を形成する熱水排水口に棲む。そこは酸と重化学物質が混合した場所だが、そこで細菌たちは酸素と太陽光を欠きながらも繁栄しているのである。同じことは、ワイオミングのイェローストーン国立公園の間欠泉や熱湯のなか、あるいはカリブ海の島国トリニダードで発見されたタールの湖でも見られる。細菌は南極の巨大氷河のなかや北極海の氷山の下にも生存している。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

要するにボク達は微生物の海の中でうごめいているのね。

鹿も、馬い具合に体の中にも100兆個以上(もっともっといるかも知れないが)の細菌がいるという、要するにボク達みんなが「バイ菌まみれなのだ」 はい♪

だから、他人様から「バイ菌野郎!」などと呼ばれても、「ああ・・・そうだけど。それがどうしたの?」と言えば良い。

しかも除菌だのと言ってむやみやたらに手を洗っている「バイ菌野郎」を見たら、声に出さなくてもいいけど「あらら~常在菌が君を守っているのに、それも除菌しちゃっている~~♪」と嘲笑ってやろう。

他所からのバイ菌からボク達を守っているのは常在するバイ菌なのだからね。

 

 

薬毒1

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すべてを鵜呑みにしない。信者ではない一般人に

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

薬毒(一)

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 ここで薬毒について、一層詳しく説いてみるが、さきにかいたごとく薬はことごとく毒であって、毒で浄化を停止する。

それが種々の病原となる事は大体分ったであろうが、薬にも漢薬と洋薬との二種あり、どちらも特質があるから、一応は知っておく必要がある。

もちろん効果においてもそれぞれの違いさがあって、例えば漢薬であるが、もちろん草根木皮が原料となっており、伝説によれば支那(シナ)前漢時代、神農(しんのう)という神のごとき偉人が現われ、病を治す方法として山野から種々の草木を採取し、これを薬として服(の)ませたところ、苦痛が減ったので、これこそ病を治すものと思い、それから今日まで続いたのである。

もちろん今日でさえ薬は毒である事を知らないくらいだから、況(いわ)んやその時代においてをやである。

何しろ一時的ながらも苦痛が緩和するので、薬の効果を信じ今日に至ったのである。

そうして漢方薬は量が非常に多いので、左程でない毒も案外害は大きいもので、しかもお茶代りに飲む人さえあるのだから厄介な話である。

また漢薬常用者は、特に顔色が蒼白であるからよく分る。

中国人のほとんどが黄色なのはそのためであろう。

またこれが腎臓に及ぼす影響も相当なもので、浮腫(むくみ)の原因となる。

中年以上の婦人で青(あお)ん膨(ぶく)れの人をよく見受けるが、これと思えば間違いない。

そうして漢薬中毒の痛みは鈍痛が多く、昔花柳界の女で持薬としてドクダミ、ニンドウなどを飲んだのは、花柳病予防に効果があるからで、つまり湿疹や腫物などの浄化停止に効くためからである。

また昔の婦人によくあった癪(しゃく)、寸白(すばく)、冷え症などもそれであり、男の疝気(せんき)といって睾丸の痛む病気も同様である。

その他男女共通の病としての胃痙攣、脚気、リョウマチ、心臓病などもそれである。


ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

この論文については幾つか納得しがたい所もあるかと思います。

あなた取捨選択を駆使してください。 研究ですからね。

 

 

ここからはakyoon談=========

ただ、現代の西洋化学薬品も古来の漢方のような自然薬品も同じく「毒」であるという事は否定できないでしょう。(薬学知識があるなら常識)

つまりクスリと称するものはほぼ100パーセント近くは「毒物」からつくられるという事です。

もちろん、抗生物質も同じですし、医療用大麻なども毒性があるはずです。

比較的毒性が低いのは山菜ていどでしょう。(あく抜きするのでもっと低毒になるが)

つまり、「毒だから効く」わけで、「効くから薬になる」わけです。

ただし、本性は毒性物質に変わりないわけで、その毒性物は体内でどうなるか?

この研究がされてこなかった。研究はどうやったら「効くか」であって、その後の有害効果?についてはほとんど無視に近かったのでしょう。

要するにとりあえず効けば「治った」ことにされたわけです。

薬は効くのです。

ただし、その「効く」というのは浄化作用停止の効果であって、病気の根本を解決していたわけでは無かったのです。そのことを現代の医者達はほとんど知らない(そもそも教育されないので)わけです。

 

 

薬毒2

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研究会ですから、検証してください。

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

薬毒(二)

『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 ここで薬毒の症状についてかいてみるが、彼(か)の天然痘における掻痒苦(そうようく)であるが、これは掻痒苦中の王者である。

この病気の原因は薬毒の遺伝であって、これが浄化によって皮膚から排泄されるのであるが、治ってからも醜い痘痕(あばた)が残るので人は嫌うのである。

ところが種痘によってそれを免れるが、これで然毒が消えたのではない。

ただ排除を止めたまでであるから、残った毒は種々の病原となる。

その著しいのが彼の疥癬(かいせん)である。

これに罹るや掻痒苦はなはだしく、症状も天然痘といささかも変らない。

つまり真の天然痘が急性であり、疥癬は慢性であると思えばいいのである。

また蕁麻疹(じんましん)であるがこれももちろん薬毒であって、カルシウムの中毒が断然多く、その際考えれば直にそれと分るが、不思議にも分らないとみえて、腸が原因などという。

察するに魚肉中毒の場合、蕁麻疹的症状が出るので、これと混同したのであろうからナンセンスである。

そうして魚肉の方は放っておいても二、三日で治るが、カルシウムの方は数ケ月あるいは数年も掛かる人さえある。

これについてよくカルシウムには骨の成分があるから、育つ盛りの幼児などによいとしているが実にナンセンスである。

というのはカルシウムのない時代、菜っ葉や米だけ食って漁夫や農民など、骨太で立派な体格であるのはどういう訳か訊きたいものである。


 次に精神病の原因が黴毒としてサルバルサンを打つが、これは事実において逆作用である。

私が長い経験によるとサルバルサンのための精神病が頗(すこぶ)る多いのに驚く。

これは医学で研究すれば分るはずである。

そうして精神病は医療では治らないとしているが、原因は霊であるからで、体のみを攻めても何にもならないからである。

次は胃に関した病気であるが、これこそ薬の作った病気である。

その中でも胃潰瘍は消化薬のためで、消化薬には必ず重曹が含まれており、そのため胃壁が柔らかくブヨブヨになる。

そこへ固形物が触れるので、亀裂が出来出血するのと、今一つは粘膜の薄くなった部分から血液が滲出し、胃底に溜って一時に吐血、または下痢によって排泄される。

また人によっては血液が古くなり、黒色の小塊となって便に混り出る事もある。

ところが厄介な事には医療は流動食と安静にするので、粘膜の損傷は塞(ふさが)り、治ったと思い安心していると、これが癌の初期となる事が多い。

というのは今まで濁血が出るべく集溜する局所が塞がったため、集溜したまま固結する。

それが癌である。

しかしこの癌は真症ではない。

この見分は手術の場合血液の塊があるのは疑似癌で、真症癌には血液を見ないのである。


 次に胃下垂であるが、これも消化薬を飲み、消化のいい物を食うため、胃の活動は鈍化し、怠け者になるので弛緩する。

それが原因であるから、つまり人間の無智が作ったものである。

ゆえに香の物でお茶漬でも食えば、胃が活動しはじめるから、否(いや)でも応(おう)でも治るのは当然である。

次は胆石病であるが、これは背面腎臓外部に固結した薬毒が、浄化によって少しずつ溶け、胆嚢の裏から浸潤する。

それが胆汁と結合して結石となるのである。

これが輸胆管を通過する場合非常な激痛に苦しむ、それが腎臓に流下し腎臓結石となり、次で膀胱(ぼうこう)に入り膀胱結石となる。

ところが始末の悪いのは腎臓も膀胱も、結石が尿中にあるので、尿が付着し育ってゆく。

その結果尿道の出口を石が閉塞し尿閉塞となり、腹部膨満死ぬ事さえある。

この病気について面白い事は、浄霊するや結石は破砕され、砂のようになって排泄簡単に治るものである。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

天然痘は自然に消え去ったというのが真実のようですが、医学では種痘のためと言っています。それについては過去にも紹介したので・・・

 

とにかく、どこまで真実なのかを決めるのはあなたです。

 

浄霊の効果については当時のものであって、現在そのまま当てはまるかどうか、それはあなたの実験でしか分かりません。

他人の経験談がすべてのひとに当てはまるというものでは無いですし。

 


「薬毒について」

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世間はまだ球試合をやっているようで、北朝鮮がミサイルを撃ってきたら、それもサリンというオマケまで付けて(大笑い

そんな嘘とねつ造満載の世界ですが

やっぱり地味ながらも、これほどの捏造は無かったのでは無いかと思われます、薬信仰についてです。

もっとも、岡田茂吉氏の論をすべて正しいなどと思ってはイケメンですよ。

 正否はあなたが決めるのですから。

決定権はあなた以外にはありません!

 

と言いながら、ボクの日常は・・・・(正反対だったりして 苦笑

 

今回も薬毒について

太字の所だけでも結構かも?

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーー薬毒に就いて

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 前項までに詳説した薬毒のいかなるものであるかは、大体分ったであろうが、ここに最も明らかな例をかいてみると、もし薬なるものが本当に病を治す力があるとしたら、先祖代々人間体内に入れた薬毒は、驚くべき量に上っているはずであるから、現代の人間は非常に健康になっていて、病人など一人も無い世界になっていなければならないにかかわらず、事実はその反対であるとしたら、ここに疑問が起らなければならないが、全然気付かない迷盲である。

何よりも昔から病は薬で治るものとの信念になり切っており、それが迷信となってしまったのである。

それがため医学の進歩を嗤(わら)うがごとく病人は増えるばかりで、医師が、看護婦が足りない、病院は満員、ベッドの不足、健康保険、療養所、社会衛生等々、何だかんだの病気に対する対策の繁(はん)なる衆知の通りで、これだけ見れば医学の進歩とは科学的に、微に入り細に渉(わた)っての唯物的進歩であるから、治す進歩であって治る進歩でない。

学理上治るべき進歩であって、実際上治るべき進歩ではない。

こう見てくると現代人の生命は学理の支配下にある以上、もし学理が誤っているとしたら、学理の犠牲になる訳である。

その根本は現在の学理は、人間生命まで解決出来る程に進歩したと信じているからである。

実に驚くべき学理の信奉者である。


 そうして最近の統計によれば、日本人の寿命は近来非常に延び、三十年前は男女平均四十七歳であったものが、最近は六十二、三歳にまで延長したといって喜んでおり、これが医学の進歩としているが、この理由はこうである。

すなわち浄化作用を止めるべく医学は薬毒で人体を弱らせ、浄化を弱らせ、苦痛を緩和する。

ところが以前用いた薬毒は弱いため浄化の方が勝って死んだのであるが、近頃の新薬は中毒が起らない程度に毒を強めるに成功したので、浄化の停止期間が長くなり、それだけ死も延長された訳で、ちょうど医学が進歩したように見えるのである。

従って近来の新薬続出となったので、言わば変体的進歩である。


 もちろんそれで病が治るのではないから、死にもせず健康にもならないという中ブラ人間が増えるばかりで、この傾向は文明国程そうである。

近頃欧州から帰朝した人の話によるも、英仏などは老人が多くなると共に、一般国民は勤労を厭(いと)い、安易な生活を求め、享楽に耽(ふけ)る事のみ考えており、殊に英国のごときは食糧不足に悩まされ、戦敗国の日本よりも酷(ひど)いという事であるから、全く国民体力が低下したためであるのは争うべくもない。

同国に社会主義が発展したのもそのためで、社会主義は優勝劣敗を好まず、働く意欲が衰えるからで、英国近来の疲弊もそれが拍車となったので、日本も大いに考えるべきである。


 話は別だが歴史を繙(ひもと)いてみると、日本の建国後千年くらいまでは、天皇の寿齢百歳以上が通例であった事で、その時代はもちろん薬がなかったからである。

その後漢方薬が渡来してから病が発生しはじめたと共に、千四百年前仏教渡来後、間もなく疫病が流行し、当時の政府は仏教入国のため、日本神々の怒りといい、仏教を禁圧したところ、それでも効果ないので、再び許したという事である。

今一つの例は有名な伝説で、彼の秦の始皇帝が「東方に蓬莱島(日本)あり、その島の住民は非常に長命で、定めし素晴しい薬があるに違いないから、その霊薬を探し求めよ」と、臣徐福に命じ渡来させたところ、当時の日本は無薬時代であった事が分り、流石の徐福も帰国する能(あた)わず、そのまま日本に残り一生を終ったそうで、今もその墓が和歌山の某所にあるそうだから、無稽(むけい)な説でない事が分る。

これらによってみても人間の寿齢は、薬さえ用いなければ百歳以上は易々(いい)たるもので、事実人間の死は病気のためで、言わば不自然死であるから、無薬時代となれば自然死となる以上、長命するのは何ら不思議はないのである。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 未発表とありますので、世間には発表されなかったのだろうか?

でも、ボクは前に読んだような気もするから、本になっていたんだろうと思う。

もっともかなり後になっての年代だが・・・

 

現代では薬といっても、添加物やら農薬やら、化学製品やらでいっぱいなので、医薬品だけに限らないのでしょう。

あとは精神毒という見えない毒もありそうだし・・・・(こっちの方が有力かも?

 

 

「薬の逆効果」

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薬で病気は治せない: とは現代の薬理学者が本に書いていまして。

その後改訂版では削除されました。 (当然ですね、本当のことを医療界で書いたら生きていけません   いや、近藤誠医師は生きていけましたが 、かなり窓際の立場だったそうです)

 

薬が病気を造る  などと、昭和28年の論文ですが、岡田氏は昭和の初期から同様なことを書いています。

いま内海聡医師が自称「キチガ医」などと称していますが、時代が全然違いますね。

いまは言いやすい時代です。それでも大変な立場になりますから、薬迷信は世界中を支配してしまったというわけです。

その中で、「人類は薬で病気を治したことなど全然無かった」などという話は受け入れられるはずが無かったでしょうね。

だからといって岡田氏を賛辞ばかりして崇め奉ることは全く不要なことです。

論文中にもなにかまちがいがあるかも知れないとまずは懐疑心を持って読んでくださいね。

 たとえばペニシリンについてとか・・・

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

 

薬の逆効果

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 次に薬の逆効果をかいてみるが、再三述べたごとく、今日まで広い世界に薬で病が治った例(ため)しは一人もない事である。

もちろん治るという事は、手術もせず薬だけで再びその病気が起らないまでに根治する事であって、これが本当の治り方である。

ところが事実はそのことごとくが一時的効果でしかないのは、一例を挙げれば彼(か)の喘息(ぜんそく)である。

この病気に対する特効薬エフェドリンのごとき注射にしても、なるほど最初は一本でピタリと止まるが、それはある期間だけの事で、暫くするとまた起るというように、その期間も漸次狭(せば)まり、初めの内は一ケ月に一回で済んだものが、三週間、二週間、一週間というようになり、ついには一日数回から数十回に及ぶ者さえある。

そうなると自分で注射器を握り、その都度(つど)射つのであるが、こうなると最早死の一歩手前に来た訳で、まず助からないとみてよかろう。

ところが喘息ばかりではない、あらゆる注射もそうであるから、実に恐るべき問題である。

もちろん服薬も同様であって、世間よく薬好きの人とか、薬の問屋、薬詰めなどといわれている人もよくあるが、こういう人は死にもせず、健康にもならず、中途半端で年中ブラブラしていて、生きているのは名ばかりである。

ところがそういう人の言い条(じょう)がいい。

「私が生きているのは全く薬のおかげです」としているが、実は薬のために健康になれないのを反対に解釈したので、薬迷信が骨の髄まで沁み込んでいるためである。

これを一層判り易くいえば、いかなる薬でも麻薬中毒と作用は異ならない。

ただ麻薬は薬の効いてる間が短いから頻繁に射つので、普通の薬は効いてる間が長いため気が付かないまでである。

この理によって麻薬は急性、普通薬は慢性と思えはよく分るであろう。


 そうして薬について医学の解釈であるが、それはどんな薬でも余毒は自然に排泄消滅するものとしている考え方で、これが大変な誤りである。

というのは元来人間の消化器〔機〕能は、消化される物とされない物とは自ら区別されている。

すなわち消化されるものとしては、昔から決っている五穀、野菜、魚鳥獣肉等で、それらは人間の味覚と合っているからよく分る。

これが自然に叶った食餌法である以上、これを実行していれば病気に罹るはずはなく、いつも健康であるべきである。

それだのに何ぞや、アレが薬になるとか、これは毒だなどといって、人間が勝手に決め、食いたい物を食わず、食いたくない物を我慢して食うなど、その愚なる呆れる外はないのである。

また昔から良薬は口に苦しというが、これも間違っている。

苦いという事は毒だから、口に入れるなとその物自体が示している訳で、毒だから浄化が停止され、一時快くなるので効くと誤ったのである。


 元来消化器能なるものは、定められた食物以外は処理出来ないよう造られている以上、薬は異物であるから処理されないに決っている。

それが体内に残存し、毒化し、病原となるので、この理を知っただけでも、人間は大いに救われるのである。

しかも薬剤の原料はことごとく毒である事は、専門家もよく知っている。

それは新薬研究の場合、必ず毒物を原料とする。

彼の梅毒の特効薬六○六号にしても、耳掻一杯で致死量という猛毒亜砒酸(あひさん)である。

また近来流行のペニシリンにしても、原料は水苔であるから毒物ではないが、人間の口へ入れるべきものではない。

魚の餌として神が造られたものであるから、人間に役立つはずはない。

またよく薬の分量を決め、破ると中毒の危険があるとしているが、これも毒だからである。

以上によって薬と名の付くものはことごとく毒であり異物である以上、消化吸収されず、体内に残って病原となるという簡単な理屈が分らないというのは、全く医薬迷信の虜になっているからである。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

 

ペニシリンが毒物で無いというのはまちがいでした

 後々にペニシリンショックという薬害があったことは本質では毒だからでしょう。

ペニシリンによる副作用 - 副作用ハンドブック

 

 

※【三橋貴明】森友疑惑の真の目的は日本の食の安全を破壊する工作を隠す為。

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自民党と公明党がやったそうですね。

日本人のためと言っています・・・・え?

 

※【三橋貴明】森友疑惑の真の目的は日本の食の安全を破壊する工作を隠す為。

「健康の自由主義」

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 チャンとした医学ってなんだろう?


それは簡単でしょ。

世の中から段々と病が重い病から軽い病と減りつつ、それに伴って医療費が減ってゆき、しまいにはお医者さんも病院もひまでひまで、みんなhimaariになっちゃう。(笑い

それが「ちゃんとした医学」ですよね~♪

 

でも世の中には薬があふれ、難治性の病が多くなり、医療費は年間40兆円を超えたそうで、

なるほど、「ちゃんとした医学」を学んだ医師達の成果でしょうかねえ~

と皮肉を言いたくなりますが、(言ってるじゃ無いか!)

 

 だから、正当な医学に対して異端の医学も知る必要があるという理由(わけ)

だからといって、すべてを鵜呑みにしないってこと。研究者の資格でしょ。

 

たいていの人は言うでしょう。

「私は薬を飲んでちゃんと病気が治ったのである。これは事実である」と

 

ところが現代の薬学者は「残念ながらお薬には病を治す力を持ち合わせておりません。治すのは自分自身の力なのです」と。

 

「医学は進歩している」のに「なぜ病が減らないのか?」

  ごくごく基本的な疑問なのです。

 

岡田氏はもっと詳しく書いた。

 

ボクは宗教(組織はもちろんだが、その教えにもかなり重要な欠点があると知りました)はもう不要な時代に入ったという素タンスで岡田論文を研究資料にしています。

 研究とは信者では出来ませんから、信仰とは無縁な方が研究されることです。

 

 

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー

 

健康の自由主義

未発表『医学革命の書』昭和28(1953)年執筆

 病気とは体内浄化作用であり、それに伴う苦痛をいうのであるが、これを逆の意味に解し、浄化停止をもって治病の方法としたのが医学の考え方であった。

そうしてこの停止手段としては、身体を弱らすに限るから、薬と称する毒を用いたのである。

従って毒の強い程よく効く訳で、近来医学の進歩によって、死の一歩手前にまで毒を強める事に成功したので、決して治病の進歩ではない事を知らねばならない。

その結果死亡率が減ったのであるから、つまり逆進歩である。

以下この意味をかいてみよう。


 誰でも病気発生するや、これは自然の浄化作用であるから、苦痛は割合強くとも、そのまま放っておけば順調に浄化は行われ、速く治るのである。

ところがその理に盲目であるため早速医師に診て貰うが、医師ももちろん同様盲目であるから、専心浄化を停めようとするので、ここに自然治癒との衝突が起る。

すなわち浄化とその停止との摩擦である。

そのため浄化は頓挫(とんざ)し、一進一退の経過を辿(たど)る事になり、衰弱死に至るのである。

それが従来死亡率の高かった原因であるが、近頃は前記のごとく生命を保ちつつ、浄化を圧(おさ)える事が出来るようになった。

というのは前記のごとく強い薬が使えるようになったからで、ある期間寿命を延ばせるのである。

しかし無論全治ではないから、時が経てば復(ふたた)び発病する。

このようにして人間は漸次弱って来たのである。

ゆえに医学の進歩とは治病の進歩ではなく、一時的苦痛緩和と若干(じゃっかん)生命延長の進歩である。

この最もいい例としては借金である。

元利合計請求された場合、一時に払おうとすれば破産するから、月賦にして気長に払う事にする。

そうすれば第一楽であり、暫くでも破産を免れられると同様の意味である。


 右のごとく医学の進歩とは、借金返済ではない、借金延期法の進歩でしかないのである。

しかしこれで一時なりとも寿命は延びるが、病の方はそのまま固ってしまい、真の健康とはならない以上、溌剌(はつらつ)たる元気などはない。

この際医師はこう言うのである。

何しろ貴方(あなた)のからだはヒビが入ったようなものだから、余程大切にしないといけない、軽はずみをすると元通りになると注意されるので、患者はビクビクもので、その日を送る事になる。

私はこの種の人を消極的健康人というが、今日こういう人は益々増えるばかりである。

この例として高度の文明国程そうであるのは、彼(か)の英仏などを見ても分る通り、近来この両国民の元気のない事はなはだしく、我国とは反対に人口増加率低下に弱っているのみか、国民は安易を求めるに一生懸命で、国家の前途などは二の次にしている。

こんな訳で両国の国威はガタ落ちで、植民地の維持すら困難となり、ともすれば離れようとする現状である。

また国際的正義感にしても麻痺状態で、彼の中共の中国、南鮮侵略に対しても、ただ指を食えて観ているばかりか、英国などは逸(いち)早く承認を与え、アメリカを吃驚(びっくり)させたくらいである。

その後も御義理(おぎり)的にアメリカに追随しているにすぎない有様である。

しかも同国が戦勝国でありながら、戦敗国日本よりも食料不足に悩んでいるのもその現われで、全く気の毒なものである。

仏蘭西(フランス)にしても御同様人民の闘志などは全然なく、アメリカがいかに気を揉んでも何らの手応えなく、ただその日その日を無事安穏に過ごす事と、享楽に耽(ふけ)る事のみ考えているようだ。

以上によってみても、昔英国が七つの海を支配し、仏国がナポレオン当時のアノ華やかさに比べたら、まことに感慨無量というべきである。

この原因こそ全く恐るべき医学の進歩にある以上、日本も殷鑑(いんかん)遠からず油断は出来ない。


 次の米国にしても、近来医学の進歩につれて、病人は益々増える一方で、悲鳴を上げている状態である。

これに気付かない限り、いずれは英仏の後を追うのは必然であろう。

私が先頃『アメリカを救う』の書を発刊したのもこの事を憂慮したに外ならないと共に、日本にもお次の番が廻って来ないと誰か言い得よう。

そうして右は大局的に見た医学なるものの実体であるが、これを個人的に見るとなおさらよく分る。

周知のごとく今日医学の建前を基礎として、国民保健制度を立てているが、これは日本ばかりではない。

世界の文明各国は大同小異はあるが、いずれも同様である。

今それについてザッとかいてみるが、何しろ現代人の健康の低下と来てはまことに酷いもので、そのため当局の社会衛生上の注意も、益々微に入り細に渉り、煩(はん)に堪えないくらいである。

ヤレ無理をするな、睡眠を多く取れ、風邪を引くな、暴飲暴食するな、栄養を摂れ、防毒に注意せよ等々、全く毀(こわ)れ物扱いである。

剰(あまつさ)え病菌の感染を極度に怖れ、結核や伝染病患者には近づくべからず、ヤレ手を洗え、含嗽(うがい)をしろ、消毒をせよ、マスクを掛けろ、濁った空気を吸うな等々、その窮屈さは生きているさえ嫌になるくらいである。

これが文明のあり方とすれば、文明こそ大いに呪いたいくらいである。


 それに反し吾々の方の恵まれ方はどうだ。

いわく食いたい物を、食いたい時に、食いたいだけ食い、寝たい時に寝、働きたいだけ働き、無理をしてもよく、風邪引き結構、伝染病も結核菌も屁とも思わない。

というように人に迷惑を掛けない限り、自己の職業に差支えない限りは、自由無碍(むげ)、明朗闊達(かったつ)、何ら不安ない日常を送っている。

恐らく人生これほどの幸福はあるまい。

これを称して私は健康の自由主義というのである。

今日荐(しき)りに唱えられている自由主義などとは、比較にならない程の幸福さであろう。

では右を実行した結果はどうであるかというと、これまた大したものだ。

私初め信者数十万人ことごとくそうしているが、結果は一般人よりも罹病率の少ない事は十分の一にも足りないくらいであるから、病気の不安など全然ないと言っていい。

その根本理由こそ今日の医学衛生の考え方は逆であるから、そのまた逆にすれば真の健康法となる訳である。

以上によって医学の無智がいかに人間の自由を束縛し、無益な労力と余計な金を使わせ、生産をマイナスにし、しかもあらゆる不幸の原因を作っているかという事である。

以上のごとくであるとすれば、今日これほど重大問題はあるまい。

また宗教についても一言いいたい事は、宗教本来の使命は万人の不安を除き、安心立命を得させるにある以上、それが出来ないとしたら、存在の意義はない訳である。

私はこれに対しても敢(あえ)て考慮を求める次第である。



(注)
殷鑑遠からず(いんかんとおからず)、戒めとすべき他人の失敗の例。


〔詩経〕殷王朝の鑑(=手本)は、遠く古代に求めなくても、前代の夏(か)王朝の滅亡がよい戒めである。

戒めは身近にあるということ。

ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

 

どこが重要でどこが不要かはあなたが決めることですが

ボクは強調表示したところが重要だと思っています。(ただ個人的です

 

  終盤の方の「信者の健康度について」ですが、当時の話ですので

現在のことではないでしょう。

 ようは信者であろうとなかろうと病気の原理は変わりないということです。

しかも産まれてからのこと。

親からの遺伝のこと、

生きている生活とか心の状態とかもありますので、十把一絡げに薬毒論では解けないのが

ひとの病なんでしょうね。

 

心の病(不調和とか魂とずれている意識とか)が体の病に現れるという話もありますし。

 岡田論文だけでは病を全部説くことは出来ないかとも思います。(私感

 

そのてんを内海聡医師のブログでも書かれています

 つまりひとつの方程式じゃ解けないのがひとの病というわけで。

物理療法の方がよく効く場合もあるわけでして、しかし、根本的な原因は見えない世界にあるのかも知れません。

 抗ガン剤でさえも治る人は治るという話もありますから、ほんとひとは不思議な生き物だと思います。

(抗ガン剤は治す薬では無いという前提です)

 

最後は「意識の世界」が主になるのかも知れませんが、

かといって、いまの薬毒満載の医療はいずれ消滅の運命が待っていることでしょう。

まあ両手で数えるくらいの薬は残るかも知れませんが・・・・(緊急時に使う程度で)

 

  昭和の初期から「薬毒論」 「病気は浄化作用論」 「夜昼転換論」を柱にしていた岡茂吉の医学論(宗教論とか他の論は別にして)はいまだに捨てきれないものがあるとボクは思っています。

取捨選択とは「よいとこ取り」ですから、「不要なものもある」という素タンスです。

 信者だったころは、それが出来なかったわけで研究者になれない資格者だった(苦笑)ボクもいまや堕落の一途をたどりながらも、その「よいとこ取り」は捨てていません。

基本的なことが理解できれば、どんな薬であろうと、とくに知る必要も無く、その効果は一時的で「治すものではない」ということで、玄人になる必要はありません。

ワクチン予防接種にしても同様、どんなものが入っているとか、どういう性質なのかなども不要なのです。

が、それを説明しなければならない理由(わけ)は、現代人はそういう権威筋とか学識的な裏付けが無いと信用しないから、「医学関係者の肩書き」を使って引用しているのです。

犬が東を向けば尻尾は西を向く・・・これを説明せよ、科学的に・・・

とかナンセンスでしょ。

すべての薬は毒でしょ。だったら、その毒がひとの健康によいか悪いのか説明せよというようなもので、基本原理さえ腹に落ちれば素人知識で充分なのです。

が、いざとなると、病気の苦痛症状や長引くとき「不安がよぎり」、ついつい頼ってしまうのが薬でしょう。そして、薬には一時的とはいえ、かなりの効果がある。

そこから始まる糸車。

いっときでやめられるなら、それでもよいでしょうが「薬では治らない」ので「飲み続ける」わけです。(治れば飲み続ける必要などない)

そして、暫時薬毒の蓄積と再発の繰り返しで弱って行くという糸車に入ってしまう。

 実に簡単な原理なのですが、そうはいかない。

薬が効くからです。  薬は効くのです。 しかし、薬学者も書いたように「薬で病は治せない」のです。

このジレンマのような時代が世界中で行われているとすれば、いずれは気づくしか無い運命にあるでしょうね、人類は。

 その前に「治せない医療」によって医療費はドンドン上昇してゆくでしょうから、ついには別の理由で現代医療は自壊してしまうかも知れません。

それが「経済的理由」です。

 現在の日本はそれをよく顕しているようで、国民保健制度は医療費40兆円を超えたままどこまで行けるのでしょうか?

国家の経済も借金経済のまま、いつかはたどり着く医療保健制度の崩壊。

その時点で気づくのかどうかは知りませんが、いま進んでいるのは医学の進歩なのではなく、医療技術の進歩であって、根本的な考え方は昔とちっとも変わっていないのです。

技術の進歩を医学の進歩と錯覚しているだけでしょう。
微に入り細に入り専門分野が枝分かれして研究されている人体について総合的にみるという視点が無いのです。

 群盲、象をなでる

 

 

 

@@の化学兵器抗ガン剤 恐るべき@@達の終身カネヅル化作戦)

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消滅してしまったHPのWeb魚拓

 

う~ん、数年前にちょっと覗いたけど、やっぱり怖かった~~

で、また覗いたら、やっぱ怖かった~~~~~(汗;

 

自分で読むのは怖いから

アナタにお任せしました・・・・・・

    以下転載ーーーーーーーーーーーー   悪魔の化学兵器抗ガン剤 恐るべき悪魔達の終身カネヅル化作戦       web.archive.org 元のページを表示

猛烈な究極発ガン剤が大ヒット商品になるのは当たり前
それはもちろん巨額の利益をもたらすからだ

世界中の医者が泣いて喜ぶ発ガン物質アルキル化剤!
「獲物達よ!もっと苦しめ!苦しんで私たちにすがれ」
医療関係者達が化学兵器を使いたがる本当の理由


病魔が治癒反応だって本当の犯人は医療さ ●肺ガン治療はやっぱりマスタードガス猟法だった
gl15kzui.pdf へのリンク
肺ガン化学猟法ガイドラインの資料も付ける
肺ガンになる確率が爆発的に増すと言うことは当然ながら肺ガン治療と称した虐殺収奪作戦は資料の通りシクロホスファミドだ。
調査をしてみるとやっぱり思った通りである。こんなことは医猟の正体に気づいてみれば当たり前のことである。なぜなら現代医学とはもっとも患者の病という種を育てて最高利益をたたき出す収奪の学問だからである。その悪魔の本性に気づいていない獲物がゴロゴロ居るのだ。
●投与後5週間目には発ガンに成功していた可能性がたかい つまり、治験の臨床試験の審査が4週間に設定されたのは、こういうことだ。それは、もう5週間目からは増ガンに成功していたからである。これは彼らの発ガン剤開発の目標である。
医者によく効きますといえば、「それは暗黙の了解で数ヶ月後にはリピートで稼げまっせ」という製薬会社からの悪魔の誘惑である。彼らがその魅力に我慢できるはずもない。予後療法と称して念のためと称して使いたがるのは当然だ。
その短期発ガンを建前上隠すためには、4週間に設定されたのだ。
これは本家のマスタードガスと比べてもその発癌性の期間においては、徹底的に改良がなされて、短期間で発ガンできるように研究開発したわけだ。マスタードガスが直接投与薬に適さなかったのは、その発ガン速度がチンタラしすぎて、「これでは、遅すぎて使えない。もっと発ガンが早まらないか」という世界中の医師達のニーズに製薬会社はしのぎを削ったわけだ。即効発ガン剤の登場は世界中の医療関係者達の悲願であった。
これは推定だが、窒素が使われたのも硫黄のマスタードガスよりも発ガン性が強いからだろう。ナルホド、道理でこれは癌治療薬として使えるわけだ。そうして改良に改良を重ねたシクロホスファミドなどのアルキル化剤は乳ガンなら量換算で8割世界一使われるガン治療薬になったというのが真相である。
そしてたった二ヶ月弱で発ガンに成功したことから医猟産業は年間数百兆円という莫大な市場開拓と売上げに成功したのである。獲物が惜しみなく投じてくるために利益率もきわめて高い。使ってもらうためのコストは莫大だが、原価はほとんどタダだ。夢の即効発ガン剤は、彼らを潤し続けてやまない夢の経営特効薬だったのである。
癌を治す薬の熾烈な開発競争というのはあくまでも獲物質を騙す建前ポーズなのだ。
世界中の医療従事者達のニーズに応えるために
●夢の経営特効薬シクロホスファミドのホンネ 不可解な添付文書やインタビューフォームは何を言わんとしているのだろうか。
これらのインタビューフォームや添付文書には、獲物側に読まれてバレるとまずいことが書かれているから露骨にストレートに書く事ができないが、その片鱗には本音が隠されているのである。
添付文書やインタビューフォームを翻訳すれば次の通りだ。
「弊社では、『獲物をもっとも猛烈に短期間で発ガンさせたい。経営効率をアップさせたい。収益率をアップさせたい』という世界中の医療従事者の皆様のニーズにお応えするため、世界中の発ガン物質の中から動物実験を繰り返し、その発ガン効果を確認して参りました。
そして1962年に皆様のニーズにお応えするための理想の発癌剤の開発にすることができました。
この経営の特効薬となるシクロホスファミドのもととなったのは、戦時中に使われた化学兵器剤マスタードガスです。
戦後、このマスタードガス工場の工員の肺ガンにかかる率は通常の約40倍です。これはマスタードガスの糜爛性が細胞を傷つけ変異原性を持つためです。
この発表は広島大学やオーストラリアの人体実験等でも確認されており、WHO にも単独で発癌物質としては最高ランクに指定されております。
弊社では早くからこの猛烈な発ガン性、発癌物質による後遺症によって得られる病院経営効果に注目し、この発ガン性をさらに強力にするために研究開発を進めて参りました。
そして1962年にはラット投与の実験結果で早ければ8週間程度で発癌や増ガン作用が確認することに成功しました。
さらに即死性を抑えることで獲物をより長くしゃぶりたいという医療従事者の皆様のニーズにお応えすることが出来ました。
放射線や輸血を併用していただくことで、さらに発ガン性を促進させ、悪性化を猛烈化し、経営効果を高めることが確認されております。
弊社では今後も世界中の医療従事者様の皆様のニーズにお答えするために、よりよい収奪剤の開発に努め、医療業界のますますの発展、繁栄に貢献したいと思っております所存でございます。」
●抗ガン剤はすべて猛烈な変異原性、発ガン性がある理由 そして彼らの本音がこの通りであると考えれば不可解な事実にすべて辻褄が合うのだ。
抗ガン剤と称したもののほとんどが変異原性を促進させるエチル化、メチル化を促進させる発癌物質であるという不可解な事実はこのホンネによって作られ、使われていると考えればピタリと一致するのである。
そして、多くの人が抱かされているイメージの通り、病魔が厄介な性質であるというのは、調べていくとそのほとんどが、なぜか治療された患者にしか起きていない現象であるという不可解な現象も彼らが治療法とか、治療薬と称して、元気に研究を重ねた最高の発癌作戦によって、わざと発ガンさせていたと気づけば完全につじつまが一致し、不可解な現象の謎が解けるのである。
彼らが意図的にわざと悪化させているのだから、治らないし、ドンドン悪化するのは当たり前なのだ。そのために治療しているのである。
なぜなら彼らのホンネは、ガンや病気が治るようになるなど言語道断、絶対にあってはならないことだからである。恐怖に怯えた獲物が暴利の治療代に関係なく列を成してすがりついてくる世界こそが彼らの理想郷の建設であり、経営天国である。
●同類の病気を増悪させる発病剤はどの医猟でも当たり前のこと なぜガン患者となれば凄まじい地球最強の猛烈発ガン物質を堂々と打ち込めるかわかるか?
これは世の中の当たり前の法則であるから、誰でも子供時代には悟っておかなければならないことだ。いまだに当たり前のことがわかってないとしたら、それだけ虚構の人生で人生を棒に振ってきたということだ。
世の中、わかっていないどころか、逆のことを信じているアホばっかりである。そうしてこのウルトラ虚構の世界について何一つ悟れずに人生を終えていくアホ家畜奴隷がほとんどである。精神が汚れている人間には、この汚染された虚構の世界と波長が同調しているからおかしいと思わないのである。
それは木の葉を隠すなら森に隠せのとおりである。同類の病気なら病魔が悪化したという隠れ蓑にして、いくらでも悪化させ放題、痛めつけ放題だからだ。なにしろ病魔が殺したことにしてくれるのだから思う存分に惨殺に収奪が楽しめる。 
ガン患者にはどれだけ猛烈な発ガン物質を投与しても、もともとの癌が素早く分裂したという言い訳が成り立つから、それを隠れ蓑に堂々と最強の発ガン物質を投与できるのである。
虚構の細胞分裂伝説が犯人を守ってくれているのである。
彼らがやりたい惨殺ゲームが堂々とできるチャンスなのだ。 彼らもこの犯罪のカラクリに勘付かれないようによくわかっていて最初にがん宣告をしていない人間に発癌剤を打って急に癌がボンボン発ガンしてきたら、それこそおかしいと思われることが分かっているのだ。
がん宣告をしていない普通の人間にも同じように投与すれば、それは凄まじい勢いで発ガンしてくるはずである。最初にあろうがなかろうが分裂などして増えているのではないから同じことである。
これはどの医猟科目も同じで、世の中のどの業界も当たり前の法則なのである。人間とは、まったく虚構の世界で飼われた家畜奴隷なのである。私はこれぐらいのことは6歳にもなれば気づけるようにしていくつもりである。
アルキル化剤メルファラン添付文書へのリンク
●もともとのガンと次のガンは無関係である テレビでよく見る猛烈な勢いで癌が増殖して体中に転移していく現象というのは、最初にがんがあったかどうかというのは無関係で、ましてや最初の癌が分裂であちこちに転移していくのではないのだ。細胞分裂伝説の真意は、彼らにとっては最初の癌が犯人なのだという自分の罪をかぶってくれる身代わりが必要なだけである。
それを視聴者はてっきり最初の癌が猛烈に暴走分裂したと思いこまされているだけなのだ。そしてその虚構の演出が常識になっているのである。
そんな性質はまったくない。虚構のガンビジネスが生み出した幻であり、演出である。そもそも彼らは添付文書に「ラットの実験で腫瘍効果を示した」と書いているようにもともと癌ではない背ラットに人工的に癌を作り出すことをいとも簡単にやっているのだ。同様の方法で次の癌は新生してきているのである。
彼らには最初の癌が悪さをしていこうなっていくのだと獲物に思いこませる必要があったのだ。
癌宣告をしていない人間には打たなかっただけなのである。打てばすさまじい勢いで体中に癌が発生してくる現象が起きるはずだ。それはガン患者であろうがそうでなかろうが関係ないのである。そんな実験は自分たちの犯罪をバラすことになるからやらないだけである。
つまり、そういう現象というのは、こういう治療された人間にだけ起きている現象だったのである。それを若い人の癌は勢いが強いなどと後付けでこじつけているだけなのだ。
素人はももともとの規準がわからないのだから、どうにでも癒える。
人は何もないところから急におかしくなりだすと誰でも不審に思うが、最初に死の病である癌とか白血病であると宣告しておけば、先程の動画の通り、どれだけ急に悪化して、地獄の阿鼻叫喚地獄で悶死しても、犯人達は心理的にあるインプットを仕掛けて事前にそうなるという受け入れ準備をさせているから、それが現実化しても誰もおかしいと思わないのである。ガンであるとかの病名宣告はこれから猛烈に悪化させて本格的な収奪に入るために獲物に施しておく重要な準備段階だったのである。
16ページアルキル化剤プロカルバジンのインタビューフォームへのリンク
●原性試験は最高ランクの陽性だった この結果では、もともとガンではないマウスでやっているのだから、がん原性試験はもちろん最高クラスの陽性だったと言うことだ。普通なら発ガン物質は年単位の時間をかけて少しずつ発ガンするものであり、マスタードガス工場の工員ですら癌に苦しんだのは戦後である。アスベストですら潜伏期間は数十年という。 しかし彼らは、それを減益でダイレクトに打ち込むという画期的な収奪作戦によって仕掛けてすぐに発ガンして金にするという荒技収奪作戦に成功した。即効性があるものを求めた結果、最強の発癌物質を注射して発癌させることであり、念には念を押して、さらに猛烈な発ガン因子である輸血や放射線をかけて猛烈化を促進させることにしたのである。
そう考えると体内に直接注射する方法は、よりダイレクトであるから凄まじい猛烈発ガン性が超短期感で発生することは間違いない。彼らは最高の発ガン効果を狙っていたのだ。
アルキル化剤サイメリンの添付文書へのリンク
●建前とホンネを織り交ぜてさりげなく経営効能をアピール 彼らが自らここまで堂々と発ガン剤であることがハッキリと書いていることに驚かれるかも知れない。彼らにはそれを売るためにアピールする必要があったのだ。なにしろ、世界中の医者達が熱望してやまないのは、ガンを猛烈化してくれる発ガン剤である。そうなれば暴利の治療が飛ぶように即決で売れ、市場拡大が出来るからだ。病魔が恐ろしければ恐ろしいほど医者や薬や医療機器のガン治療は上がり、予算を投じてくるのである。
だから経済至上主義の原理に照らし合わせれば、考えてみたらこうなるのは当たり前のことである。そもそも最初から彼らに病気を治す気など全くサラサラないからである。ただ彼らには、医療産業は必死で患者の病気を治して助けたいと思っているというイメージを信じてもらわなければ商売にならねぇのである。
世の中のカラクリはすべて経済至上主義の利益という前提があって何でも行われているからである。ガンが出来れば出来るほど出番も増えて暴利の治療が即決で売れるのだ。勢いが強ければ強いほど本人や家族はどんなに高くても用意された釣り鉤に強烈に食いついてくるわけである。その恐怖は強ければ強いほど彼らには都合がよい。まるで詰み将棋である。これが追い込み猟の本質である。そのために彼らも医者には猛烈な経営効果をアピールしなければならないのだから、その本音の片鱗は書かれているのだ。医者にだけ気づかせるように示すというのは不可能であるから、結果的によく読めば書かれているわけである。
これは発ガン剤に限らず臓器移植でも同じで、よく臓器移植には何千万もかかるというが、それは「このままでは死ぬ」という宣告があるから、そこまで大金を投じてすがってくるのであって、獲物が心理的に窮地に陥るほど一発の暴利は倍々に増えるのだ。     ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー   つづく    


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